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慶応二年(1866年)夏から冬
第48話 変わるもの、変わらないもの
しおりを挟む「ところであの異人さんの話ってなんだったの」
弁天はついでに僧坊にお邪魔した。飄々と茶を淹れながら、玉宥も座布団に座る。
「また異人墓を拡げるんです」
「あら」
居留地覚書というものが各国との間に交わされているのだが、それが火事の後に改められた。そこで墓地の拡大が決まったそうだ。広くなってもやはり同国人や友人同士は近くに葬っておきたいもの。各国の墓域を割り振るにあたり、寺にある埋葬記録も確認したいとの申し入れだった。
「今のはジャーメンさんというのですが、丁寧なお人でしたな」
居留民で作るクラブとかいうものにいる人物らしい。話のわかる相手が交流の表に立ってくれるとありがたいのだが。なんとなれば。
「山手の山の上もぜんぶ、居留地になるんですと」
「え?」
それも覚書で改められたことの一つだった。これまでも特例として許可された施設や名義貸しで住んでいた連中はいたのだが、とうとう正式に山手居留地が認められることになった。そうなると元町は山下、山手、二つの居留地の間に細く残る日本人町ということになる。ジャーメンのように橋渡しできそうな人物は大歓迎だ。
「まるで昔の横濱村のようですね。元町が砂洲になって異人町の中に突き出ている」
「本当だ」
宇賀が言い出して、弁天は笑った。となると増徳院があるのは砂洲の先端、下の宮弁天社の位置と同じだ。遠くなった潮騒が耳もとによみがえった気がして弁天は目を細めた。
「それならば慣れたものだよ。海の波音が異人の言葉、獲れる魚は異国の品物」
「なんと。商人は舟をあやつる漁師ですな」
玉宥もおどけて言った。
そう、そこにあるもので暮らしていくのは昔と何も変わらない。だがその海が様変わりした。知らなかった海の方から隣にやって来てくれるとは、横濱はなんと果報な土地なのだろう。
きりりとした冬の空の下、弁天はひとり元町の通りに立っていた。
今日はまた冷え込む。これは雪風だろうか、もうすぐちらついてくるかもしれないと弁天は空の匂いをかいだ。
「――あれ、沙羅さま」
弁天の待ち人は弥助だった。元町に中山家がかまえた両替商で通詞を務めていると聞いたのだった。
「居留地に行っていたの? 精が出るね」
「いえ、そんな。おひとりでどうされました――宇賀さまは?」
弥助の目がきょろきょろする。大人の男として女性を気づかうようになった村の子どもに弁天は笑いかけた。
「その辺にいるんじゃない? ねえ、弥助は英語の読み書きも習っているって聞いたのだけど」
「ああ、はい」
「話せればよくない?」
「いえ、商いのためには入り用なんです。異人の商人も親切なばかりではありませんので」
苦笑いで弥助は言った。
悪どく騙しにかかる商人は後を絶たない。うっかり英語の証文に名を書いて泣かされた日本人も多いのだ。両替商に日本人が来るのは、つまり外国商人との取引のため。なので商いの内容を細かく聞き出し助言することもあるのだとか。
「余計なお世話かもしれませんが、日本人を馬鹿にしている連中もいるんです。そんな奴らにいいようにされたくはない」
なまじ言葉がわかるようになったら、相手のそんな態度も耳に入るようになってしまった。そこでひねずに横濱の人々を守りたいと学び始めた弥助のことを、弁天は目を細めて頼もしくながめた。
「本当に、大人になって」
「沙羅さまは――ずっと、お変わりありません」
迷いながら口にした弥助はやや緊張した風だった。
ペリーがやって来た幼い日に出会った女性。大人だと思っていた人が、今は自分と同じ年頃にしか見えない。会うたびに不思議に思っていたことを、とうとう本人に問うてみたのだ。やんわりとだが。
「そうね」
弁天はふふふと笑んだ。
「我は変わらない。このまま横濱を見ているの。我は、そういうものだから」
「――それは、いったい」
つぶやいて絶句した弥助は、畏れながら弁天を見つめた。美しく軽やかで、いつも楽しげに人々の暮らしを見守っているこの人は――。
「じゃあね、励みなよ」
「あ、あの」
踵を返した弁天を弥助は呼び止めた。
「おひとりでなど……お送りします。お住まいは」
「ずいぶん前に増徳院の方だと教えたよ? ――我がのんきに琵琶を奏でていられるように、町のことは頼むね」
ひらひらと手を振ると、近くからスウと宇賀が現れ寄ってきた。その目はいつもより柔らかく弥助を見る。だが言葉はかけずに弁天をうながし、宇賀は歩き出した。ハッとした弥助はなんとか頭を下げ、人混みに並んで消えるその姿を見送った。
出会ったのは下の宮弁天社。住まうのは増徳院のあたりで琵琶を好む――そんな御方は一柱しかいなかろう。
「――」
あまりのことに言葉が出なくなって、弥助は呆然と立ちすくんだ。
「……どうして私を遠ざけたんですか」
「だって、宇賀のがにらんでると弥助が話しづらいでしょ」
「にらんでなど」
「いっつも目つき悪いってば」
帰りながら弁天は忠実な従者を罵倒した。だが、満面の笑み。宇賀の目つきなんて弁天はなんとも思わないし、弥助と通じ合えたのが嬉しくて機嫌がいいのだ。
「……はいはい」
宇賀もそれがわかっているから受け流す。そんな二人のやりとりは、いつまでたっても変わらない。
これからもきっと変わらないだろう。
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