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慶応二年(1866年)夏から冬
第45話 関内大火
しおりを挟む「宇賀の、百段に行こう」
きっぱりと言われ、宇賀は困惑した。元町をずんずん歩き出す弁天を追い、宇賀は人をかきわける役をかって出る。
「谷戸坂上ではなく?」
「居留地ぜんぶを見るなら百段の方がいいよ。それに谷戸橋の方に煙が流れているみたいだから、あっちには人が逃げてくるかも。渡っていけないと思う」
「居留地に行くおつもりですか!?」
「だって我の社があるんだよ!」
大きな火事だというならなおさら、洲干島弁天社が無事なのか確かめなければならない。弁天が横濱村の鎮守として祀られた、はじまりの社だ。
「――承知しました」
そこは宇賀にとっても大切な場所。弁天と過ごしてきた家だった。
二人は黙々と人混みを行く。周りの人々の話から、居留地の真ん中が燃えているらしいとわかった。もう関内から逃れてきた者がいるのだろう。しかし消し止めたとは誰も言わない。空を振り向いても黒々とした煙に大きな灰が舞うのが見えるばかりだった。
「人が……」
たどり着いた百段は人でいっぱいだった。考えることは誰もが同じ、燃える居留地を確かめに階段を上がっている。なんなら堀川を超えて元町に火が飛ぶのを怖れ、逃げてきた者もいるかもしれなかった。二年前の冬にそんなことがあったからだ。
「ここでお待ち下さい」
「ううん、行くよ」
キッと石段を見上げた弁天をかばいながら宇賀はその手を引いた。中ほどまで上がって振り向くと、かなり様子がわかる。燃えているのはおもに日本人町のようだ。しかし小火とはとても言えない、大きな火事なのが見てとれた。
「弁天社あたりは大丈夫なようですね」
「うん。だけど火が強い……」
言うそばからボウとひときわ大きな火の手が上がった。周囲からも悲鳴がもれ、誰かが「ありゃ油屋のあるところだ」とうめくのが聞こえた。元町の人々は居留地と深くつながって暮らしている。どこまで焼け落ちるのか、皆が固唾を飲んでいた。
「やっぱり弁天社まで行く」
「……仕方ありませんね。ですが前田橋を渡るのは無理です。居留地の真ん中を突っ切るなんて」
「じゃあ吉田橋まで回ればいいよ」
この焼け方では運上所に近いあたりはもう通れない。ならば関外から回り込み、弁天社に近づくしかなかった。それが知れただけでも百段に来た甲斐がある。弁天は早足で百段を下りた。
目の前の前田橋からも逃げて来る人が大勢いた。外国人も、日本人もだ。大きな荷物を背負い、恐ろし気に顔をゆがめた者たちは家を捨ててきたのだろうか。これではここから居留地に入るなど許されないだろう。ただ元町の火消し、よ組の法被を着た者だけが一団となって駆けていくのが見えた。
「回り込むのならば、新田堤まで行きませんと。西の橋もおそらく使えません」
「そうね。じゃあ車橋まで」
居留地の角を経て製鉄所へ渡る西の橋も逃げてくる人々でいっぱいだった。弁天と宇賀は元町を七丁目まで抜ける。地蔵坂下を通り過ぎるとやや人通りが少なくなった。しばらく行ったところにある車橋で中村川を渡り吉田新田の縁を北へと向かう。
堤の道に野次馬は出ているが、弁天たちと同じように急ぎ足の人も多かった。北からも南からも血相を変えて走る姿が行き交うのは、家族や家財の無事を確かめに行くのだろうか。
新田と居留地の間は広い運河になっていて、その向こうに関内が燃えているのが見えた。
風は北西から南東へ強い。日本人町から出た火が外国人町へ移っているのがこちらからだと良くわかった。人々のざわめきまでは聞こえないが、たまに遠く響く音は建物が崩れたものだろうか。それとも火の行く手で家を打ち壊しているのかもしれない。
「どこまで燃えるの……」
「堀川まで行かずに止められるといいのですが」
川を越え元町まで焼けてしまってはたまらない。
居留地には火伏の秋葉神社がなかったね、と今さらなことを弁天は思った。
水神の祠も弁天社に移してあるし、火の強いあたりには異国の神しかいないのではなかったか。日本人の家の内には火伏のお札が貼られているかもしれないが、この炎の勢いの前には太刀打ちできなかろう。
「水神くんはどうしてるかな」
「祠にいらっしゃいますのか……昼寝なさっているのでは?」
弁天は否定できなかった。お昼寝仲間の水神が騒ぎに気づいた時、すでに大火になっていたのは想像に難くない。
「雨は降らなそうだねえ……」
そもそも今の居留地で、水神に雨を乞う者などなかった。
田も畑も、井戸すらろくにない町では雨乞いの必要はない。むしろ雨など道がぬかるみ厭われるだけ。荷車も馬車も立ち往生する雨は、居留地の憎まれ者だ。
だから雨に捧げられる祈りなどもうない。いない者の祈りに応えるわけもなく、祈られない神は力を喪う。水神の諦念を弁天はよくわかっていた。
「――ッ!」
唐突に宇賀が息を呑み、弁天の腕を引いた。立ち止まる宇賀が見つめたところに目をやって、弁天の眉が悲しくゆがんだ。
「吉原道が――」
港崎遊廓の北側に見えてきた華やかな通り。堀に囲まれた花街を娑婆へとつなぐ、ただ一本の道に火が点いていた。
両脇に並ぶ茶屋が、小間物屋が、灯篭が焼け落ち、ちろちろと遊廓に迫っていく。その炎は、港崎に閉じ込められた大勢の女たちの逃げ場を奪った。
一夜の夢の苦界が鮮やかに燃え落ちる。
そのさまが揺れる水面に映るのを、弁天は呆然と見ていた。
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