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慶応二年(1866年)夏から冬
第44話 根付いた浮草
しおりを挟む洋酒を勧められても弁天が興味を持ったのは別のことだった。
「じゃあ西洋の食べ物も出すの?」
「いやあ、そこまでは」
「そう。残念」
あくまで酒を売るための試し飲みなのだと栄作は申し訳なさそうにした。
酒のアテがあるに越したことはないと思っている。西洋人の台所にも清国人の台所にももぐりこんだことがあるのだが、自分で料理するまでは出来ないのだそうだ。
「西洋人の暮らしも見ているんだ。すごいねえ」
「ソーダ屋の後、オランダ人の商店に移りまして。それから南京人の家で働いたんですが、皿を割っただけで追い出されたんでさ。人に使われるってのは辛いもんだと痛感しましたな。それからギヤマン徳利で稼いでこの店を」
「……一年で、それ?」
とことん落ち着かない男だ。風来坊のように振る舞われて雇い主の方だって困ったに違いない。清国人の家で割った皿というのは、もしやとても高価な何かではなかろうか。宇賀はしみじみと忠告した。
「自分で商うのが性に合うんですね。もう誰かに雇われるのはやめた方がいい」
「おっしゃる通りで」
平然とうなずいた栄作だったが、そこで表に向かって不意に柔らかく笑った。
「おかえり。暑かったろ」
店に入ってきたのは女だった。振り向いて女と目が合い、弁天はぽかんとなる。
「キセ」
出会ったのは四年の増徳院。流行り病で家族を亡くし、泣いて弁天を罵った女だった。息を呑んだキセが言葉を絞り出す。
「……いらっしゃいませ」
そう言うのなら、キセはつまりこの店の者なのか。栄作はわずかに照れたような笑みを浮かべた。
「なんだ、うちの奴とお知り合いで?」
キセは栄作と再婚したらしい。ならばと弁天は気をつかい、亡くした家族のことに触れないようにした。
「飯屋の小夜に引き合わされたんだよね。町から逃げろってお触れが出ている時で、女はあまりいなかったから」
「ああ、あっしはまだ江戸にいた頃だ。話には聞いてます。こいつもねえ、ひとりで町に残ってたとは胆の据わった女でしょ」
そう言ってキセを見る目は優しい。栄作の方だって生きるために何でもする男だろうに、割れ鍋に綴じ蓋。弁天はなんとなくホッとした。
「いや良かったよ。幸せにね」
笑ってさっさと店を出た。宇賀も会釈して主を追いながら、その言葉はもしや加護になるだろうかと考える。紆余曲折を経て出会った流れ者の二人なのだから、できるならこのまま寄りそっていってほしいものだ。
すると後ろから小さな足音が追ってきた。呼び止めてきたのはキセだ。
「あの……いつぞやは、すみませんでした」
深々と腰を折られ、弁天はその肩に手をやった。頭を上げたキセに微笑みかける。
「もういいんだって。お店、頑張りなよ」
「はい」
やはり言葉少ないキセは、かすかに笑って戻っていく。だが独り頑なにしていた頃とは違う、軽やかな足取りだった。
「――なんとまあ、びっくりしたね」
歩きながらくすくす笑う弁天は、建物に切り取られ狭くなった元町の空を見上げた。すかんと青が抜けて、夏の陽が背中からじりじりと照っていた。
「人生何があるやらわからないよ」
「まったくです」
悠々と過ごす神仏にはむしろ起こりえない偶然が、人の生きる道を変えていく。
彼らの悲しみも喜びも、生き死にさえも愛おしく眺めている弁天だったが、その横にはいつも変わらぬ宇賀がいた。
だから弁天は、それでいいのだ。
横濱の港には新たにベルギーやイタリアの船も入るようになった。貿易はますます堅調だ。
この夏には将軍家茂が若くして亡くなるという驚きの報せもあったが、居留地の商人たちは動じない。新たな将軍が誰になるのか、それによって取引がどう変わるのかを見極めるべく虎視眈々としているし、不本意な変化が日本にあるようなら武力をもって覆すまでと各国は幕府を揺さぶっていた。
それだけの力が西洋各国にはある。横濱にいる軍のみならず清国に駐留する海軍も、ほんの数日で江戸湾まで駆けつけることができるのだった。
だがその横濱の居留地に異変があったのは、秋も深まった日の昼前のことだった。
「弁財天さま!」
戸を叩くのもそこそこに、バンと木戸を開けたのは小僧の平助だった。数え十三歳になった平助は背も伸び、聡明な物言いでいつも落ち着いている。なのに今は顔色を変えて飛び込んできた。
「どうしたの」
「失礼いたします、居留地で火事のようです」
「火事?」
そんなもの、居留地でも元町でも小火などしょっちゅう起きている。だが平助が慌てるほどなのだから近くで火の手が上がったのか。
「堀川のすぐ向こう?」
「いえ。遠いのですが、えらい煙が流れてきています。念のためお気をつけください。もしかしたら焼け出された者がこちらに押し寄せて来るかもしれませんし」
「そんなに……?」
そそくさと戻っていく平助に続いて弁天と宇賀もお堂を出た。境内の木立の上の空は霞んでいて、これは煙なのだろうか。
どうなっているのか見てみなくては。谷戸坂に少し上がれば燃えている場所がわかるだろうと寺を出ると、門前はもう人でごった返していた。堀川端に野次馬が集まっているのだ。
「これではどうしようも。裏から行きますか?」
「遠回りだけど仕方ないか」
異人墓の横の宮脇坂なら行けるだろう。踵を返した時、わあという悲鳴があがった。ガツガツいう西洋の靴音を響かせ、駐屯地から兵士が大挙して下りてきたのだった。彼らは見物を押しのけ谷戸橋を渡った。
そう、彼らが山手の丘にいる理由、それは居留地守護のため。大火との一報で、消火と住民の救助に駆けつけたのだった。
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