開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

文字の大きさ
上 下
50 / 57
慶応二年(1866年)夏から冬

第43話 横濱ならでは

しおりを挟む

「むー。むー」
「牛の鳴き真似はやめてください」

 平静をよそおって宇賀が注意した。抑えている気持ちは呆れか、笑いか、恥ずかしさか。

「だってねえ、貸し馬と貸し馬車だったのが、いつの間にか牛を飼っているんだもの。リズレーって人は本当におもしろいよ」

 くすくす笑いながら弁天が言うと、むももー、と柵の向こうで牛が鳴く。まるで同意するようだった。

 ここは前田橋から居留地に渡ってすぐ、つまり先年を食べに行った時に見たリズレーの氷屋のある区画だった。
 今でも氷屋はある。しかし馬が飼われていた庭に今は牛がいて、店では氷と一緒に牛乳が売られていた。いかにも搾りたてっぽく見せる手法はさすが興行師で、その甲斐あって繁盛しているらしい。流行りに乗り、今日は弁天も牛乳を試してみたところだった。

「牛の乳も美味しかった!」
「……肉と同じ香りはするのに甘さもあって、奇妙ですよね」
「嫌い?」
「いえ。ですが口の中がべとべとします。帰ったら口直しに茶を飲みましょう」

 冷えた牛乳の味は悪くなかったのだが、口中に残る粘り気が慣れない。お茶を欲しがられて弁天はおとなしく増徳院に戻ることにした。言わないが、完全同意だったのだ。
 前田橋から元町に渡り、宇賀は周囲を眺め渡した。

「元町には活気があって何よりです。居留地が勢いづいたおかげでしょうか」
「港の荷が増えているみたいだよね」

 それは条約で関税が引き下げられたからだった。各国からの輸入品が増え、運上所も荷揚げ業者もてんてこ舞いになっている。堀川沿いを歩いていると舟荷を運ぶ又四郎の姿を見ることもあった。
 だが同時に、日本の庶民は物価高にあえいでいた。長州征伐が長引く中で幕府の権威は揺らぎ、騒乱の懸念に諸藩は兵糧米の備蓄を増やしている。おかげで米の値段が急騰し、各地で米一揆、打ち毀しが相次いでいるのだった。
 そんな世情にもかかわらず羽振りが良いのは、外国との商いで儲ける浜商人。農民の反感は大変なもので、武蔵国の西半分が立ち上がったといわれる大一揆がおきた時には「横濱ヲ憎ムコト讐敵ノゴトシ」と報じられていた。
 そう言われるのも、むべなるかな。牛乳屋に行く前にぐるりと歩いてきた本町通りでは大荷物を積んだ荷車が行き交い、幾人もの手代が客を店に案内していて景気がいい。昼間だというのに港崎みよざき遊廓へ続く吉原道にふらりと吸い寄せられていく客が引きも切らないのだった。そんな様子が伝われば食うや食わずの民は怒るはずだ。

「横濱は、ますます日本ではなくなっているよ……」
「あなたが気に病むことではありませんから」
「気に病んだりはしないけど」

 弁天はもう、横濱はそういう町なのだと割り切って楽しんでいる。
 穏やかな漁村だった頃には伝え聞くばかりだった江戸の賑わいに、今は追いついただろうか、追い越しただろうか。
 それともまったく別物の町になっているのかもしれない。江戸にない商売が横濱にはありそうだ。

「あれ、洋物店だって」
「新しい店ですね。洋物とはなんでしょう」

 元町に出来ていた小さな店には〈鹿島屋洋物店 洋酒店〉と看板があった。道の反対側からうかがってみると、日除け布の隙間から見えるのは棚に並ぶギヤマンの瓶。

「……ほかにも何やらありそうですが」
「うん、行ってみよう!」

 好奇心に駆られた弁天は目を輝かせて宇賀の袖を引いた。日本人の店だろうから怖いものなしなのだった。

「へい、いらっしゃーい!」

 飄々と迎えてくれた店主の顔を見て、弁天と宇賀ははたと動きを止めた。見たことがある。
 これは半右衛門が町で呼び止めた、仕事をとっかえひっかえしていた男ではないか。たしか栄作といった。一年ぶりにもなるが、栄作の方もにやりと笑ってくる。

「ええっと、半右衛門親分さんのお連れさまでしたか」
「……言葉を交わしたわけでもないのに、よく覚えていましたね」

 馴れ馴れしい物腰に対して宇賀は慇懃に返した。あまり踏み込ませないようにそうしたのだが、栄作本人から嫌な感じはしない。やはり妙な愛嬌がある男だ。
 
「いやあ、それはお互いさまでございましょう。あっしはまあ、商売ですから」

 へへへ、と鼻を搔いて薄く笑う。弁天は栄作そっちのけで店内を眺めた。
 ごちゃごちゃと置いてある見慣れない品には脈絡がない。外からも見えたギヤマンはワインよりは小ぶりな瓶だ。だがその脇には西洋紙がドサドサと重ねられ、どう使うかわからない金物や木箱、革の細工もあった。

「あの時は異人さんに雇われてると聞いた気がするけど? ここは何屋?」
「西洋の物、何でも屋でさ。西洋の酒も飲ませます」

 ギヤマンを手に取った弁天に、栄作は得意げに鼻をひくつかせた。

「それは勤めてたソーダ屋の瓶で、使い回して傷になったやつを引き取って売ってるんですよ。ギヤマンでできた徳利だと日本人が珍しがりますんで」
「それ、わかる!」

 弁天もワインの瓶を大切に取ってある。そう言ったら栄作は驚いた顔をした。

「さすが半右衛門親分のお知り合い、西洋人の店でお買いに? あちらものの酒は気になってもなかなか買えませんや。高いですし」
「うん、奮発しないと手が出ないよね」
「……ですが、ウチでは安く味見していただけるんですよ」

 栄作はしたり顔で宣伝してきた。ワイン、ラム、ジン、ブランデーなど、試してみたい洋酒を一杯売りしているのだという。目のつけどころに宇賀も感心してしまった。

「上手い商売ですね」
「そりゃどうも。何かいかがです?」

 昼間から酒の味見を勧めて栄作は悪びれなかった。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。 甲斐の国、天目山。 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。 そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。 武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。 コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

魔斬

夢酔藤山
歴史・時代
深淵なる江戸の闇には、怨霊や妖魔の類が巣食い、昼と対なす穢土があった。 その魔を斬り払う闇の稼業、魔斬。 坊主や神主の手に負えぬ退魔を金銭で請け負う江戸の元締は関東長吏頭・浅草弾左衛門。忌むべき身分を統べる弾左衛門が最後に頼るのが、武家で唯一の魔斬人・山田浅右衛門である。昼は罪人の首を斬り、夜は怨霊を斬る因果の男。 幕末。 深い闇の奥に、今日もあやかしを斬る男がいる。 2023年オール讀物中間発表止まりの作品。その先の連作を含めて、いよいよ御開帳。

処理中です...