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水神の引っ越し
よろしく大家さん
しおりを挟む徳右衛門が増徳院に弁天を訪ねてきたのは秋深まる夕暮れだった。
面会のため僧坊におもむきながら、何があったのかと弁天は首をひねる。町の総年寄である徳右衛門は忙しい。用もなく顔を見せることはないのだ。
「ご無沙汰いたしております」
座敷に入るとゆったりと頭を下げ挨拶される。悪いことなのかどうか、表情からはうかがえなかった。
「そんなに久しくもないよ、我らにとってはね」
「左様でございますか。まあ私も人としては年を取りまして、次第に時の流れが速く思えて参りましたな」
還暦を過ぎた徳右衛門はそんなことを言い出した。弁天からすると襁褓の頃から知っている徳右衛門だが、人の世はうつろっていくもの。今日もそんな用向きだった。
「水神さまの祠のことなのですが」
「うん?」
「洲干島弁天社の中にお移しすると決まりまして」
「へ?」
弁天はきょとんとしたが、後ろで宇賀は小さくうなずいた。さもありなん。
「居留地の真ん中ですからね……」
「はい。波止場の目の前、運上所の橫。あんなに良い所、使わなければもったいないと」
徳右衛門は申し訳なさそうに、そして寂しそうにした。
弁天とともに浜を見守ってきた水神は、港ができる前から変わらず在ってくれる拠りどころだ。村だった頃を知る者としては動かしたくなどない。
「ですが、領事館を置くのだと」
「へえ……」
弁天は目を見張った。神奈川宿にあった領事館を各国が横濱に移しているのだが、そのための一等地とされたのだ。ここにはまずアメリカとイギリスが入る予定だった。
結局のところ船や人の出入りも商いも、横濱が中心。居留地に領事館を置かねば勝手が悪い。そして幕府そのものが揺れている今、東海道沿いよりも軍の駐屯する横濱にいる方が安心ではあった。
「江戸の公使館を横濱にという話もございます。弁天町のオランダ領事館隣にフランスが移って来るそうで、そろそろ建て始めかと」
「ああ、何やらやってたの、それかあ」
「お気づきでしたか。そんな流れで水神さまにもお移り願うしかなく」
祠そのものにはお詣りし、その旨を奏上したのだそうだ。だが弁天に伝えておけば顕現した本人と会うかもしれない。
是非よしなに、と言って徳右衛門は帰っていった。宇賀はやや納得いかない顔だ。
「弁財天さまに伝言を頼むとは……」
「まあ我にも関係あることだから。下の宮は我の家だもの」
元の本邸、今の別荘だ。増徳院にいることが多い弁天なので水神と並んで暮らすわけでもないが、昔馴染みの引っ越しには心が動く。祠を訪ねてみようかな、と弁天は明日の散歩先を決めた。
「ああ、うん。その話なら聞いてるよ」
小さな祠の中で話すわけにも、と出てきてくれた水神と並んで、弁天は日本人町を歩いていた。行き先は弁天社。はからずも引っ越し先の下見のようになっている。
「洲干島の中ではあるし、弁天ちゃんちに間借りできるなら僕は別にかまわない」
「そう? 増徳院は遠くなるけど」
夜、楠の上でぼうっと過ごすのはやりにくくなるのではないか。心配する弁天に水神はにっこりした。
「弁天ちゃんには会いやすくなるじゃないか。これからはもっと下の宮においでよ」
そう言って弁天の手をそっと取る。そのまま大事に両手で包み、水神は流し目を送った。
「弁天ちゃんと遊べるのなら、僕もこの世に出ていようかな」
「あまり御名を呼ばないで下さい。ここは往来です」
ちくりと後ろから注意した宇賀は無表情だ。それを振り返って水神は肩をすくめる。
「怒らない怒らない。いつも独り占めしているんだからさぁ」
「何も怒ってなどおりませんが? 人に聞かれるのを案じているだけで」
「そう? 少しトゲがあるような気がしてね」
ふふん、と楽しげな水神は、弁天の弟のような見た目。だが中身は長い時を経た龍だ。蛇の身の宇賀より格としては上かもしれない。
手を取られたままの弁天は、顔色を変えようとしない宇賀に無邪気な笑顔を向けた。
「宇賀のは怒ったりしてないよ。だって我とは一心同体だもの、もう独り占めとかそういうものではないんだよね」
当たり前にそんなことを言われ、水神がヒュウと口笛を吹いた。弁天はきょとんとしてしまう。
「……何、今の」
「ああ、何だか異人がよくやるんだ。感心した時、冷やかす時」
「ふうん。さすが運上所脇に住んでいると違うねえ。異人さんのこと良く知ってる」
そうじゃない、感心しつつ冷やかされているのだぞ、それはいいのか。宇賀はカチンときたが、弁天が一心同体だと思ってくれていることには反論したくないので黙ってしまった。
水神はスルリと手をほどくとつまらなそうに唇をとがらせた。
「せっかく一緒に暮らすのに、つれないな」
また語弊のある言い方だったが、宇賀はつとめて無視した。どうせからかっているだけなのだ。だが弁天は屈託なく言い返す。
「敷地の内の離れみたいなものでしょ。うちの玉宥やなんかも、一緒に住んでることになるの?」
「今、うちのって言ったじゃない」
「あ、そうか」
それは身内として扱っているしるしだ。同じ屋根の下にいるかどうかではなく、心が共にあるということ。
水神もそうなっていくのだろうか。あるいは別荘の管理人どまりかもしれない。鳥居が見えてきた弁天社のことを水神は考えた。
「……松の梢って痛そうだよね。お社の屋根の上で寝転がってようかな」
「えええ。龍燈のお社になっちゃう」
ぼんやり光る神社の屋根など、人の噂になったらどうなることやら。参拝者が増えて玉宥は喜ぶだろうか。
「だめか。まあ引っ越したらおいおい居心地のいいところを探すよ。これからよろしくね、大家さん」
大家。たしかにその通りだ。
弁天社の主はふんわり笑い、店子となる水神を丁重にご案内したのだった。
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