開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

文字の大きさ
上 下
49 / 57
水神の引っ越し

よろしく大家さん

しおりを挟む

 徳右衛門が増徳院に弁天を訪ねてきたのは秋深まる夕暮れだった。
 面会のため僧坊におもむきながら、何があったのかと弁天は首をひねる。町の総年寄である徳右衛門は忙しい。用もなく顔を見せることはないのだ。

「ご無沙汰いたしております」

 座敷に入るとゆったりと頭を下げ挨拶される。悪いことなのかどうか、表情からはうかがえなかった。

「そんなに久しくもないよ、我らにとってはね」
「左様でございますか。まあ私も人としては年を取りまして、次第に時の流れが速く思えて参りましたな」

 還暦を過ぎた徳右衛門はそんなことを言い出した。弁天からすると襁褓むつきの頃から知っている徳右衛門だが、人の世はうつろっていくもの。今日もそんな用向きだった。

「水神さまの祠のことなのですが」
「うん?」
「洲干島弁天社の中にお移しすると決まりまして」
「へ?」

 弁天はきょとんとしたが、後ろで宇賀は小さくうなずいた。さもありなん。

「居留地の真ん中ですからね……」
「はい。波止場の目の前、運上所の橫。あんなに良い所、使わなければもったいないと」

 徳右衛門は申し訳なさそうに、そして寂しそうにした。
 弁天とともに浜を見守ってきた水神は、港ができる前から変わらず在ってくれる拠りどころだ。村だった頃を知る者としては動かしたくなどない。

「ですが、領事館を置くのだと」
「へえ……」

 弁天は目を見張った。神奈川宿にあった領事館を各国が横濱に移しているのだが、そのための一等地とされたのだ。ここにはまずアメリカとイギリスが入る予定だった。
 結局のところ船や人の出入りも商いも、横濱が中心。居留地に領事館を置かねば勝手が悪い。そして幕府そのものが揺れている今、東海道沿いよりも軍の駐屯する横濱にいる方が安心ではあった。

「江戸の公使館を横濱にという話もございます。弁天町のオランダ領事館隣にフランスが移って来るそうで、そろそろ建て始めかと」
「ああ、何やらやってたの、それかあ」
「お気づきでしたか。そんな流れで水神さまにもお移り願うしかなく」

 祠そのものにはお詣りし、その旨を奏上したのだそうだ。だが弁天に伝えておけば顕現した本人と会うかもしれない。
 是非よしなに、と言って徳右衛門は帰っていった。宇賀はやや納得いかない顔だ。

「弁財天さまに伝言を頼むとは……」
「まあ我にも関係あることだから。下の宮は我の家だもの」

 元の本邸、今の別荘だ。増徳院にいることが多い弁天なので水神と並んで暮らすわけでもないが、昔馴染みの引っ越しには心が動く。祠を訪ねてみようかな、と弁天は明日の散歩先を決めた。




「ああ、うん。その話なら聞いてるよ」

 小さな祠の中で話すわけにも、と出てきてくれた水神と並んで、弁天は日本人町を歩いていた。行き先は弁天社。はからずも引っ越し先の下見のようになっている。

「洲干島の中ではあるし、弁天ちゃんちに間借りできるなら僕は別にかまわない」
「そう? 増徳院は遠くなるけど」

 夜、楠の上でぼうっと過ごすのはやりにくくなるのではないか。心配する弁天に水神はにっこりした。

「弁天ちゃんには会いやすくなるじゃないか。これからはもっと下の宮においでよ」

 そう言って弁天の手をそっと取る。そのまま大事に両手で包み、水神は流し目を送った。

「弁天ちゃんと遊べるのなら、僕もこの世に出ていようかな」
「あまり御名を呼ばないで下さい。ここは往来です」

 ちくりと後ろから注意した宇賀は無表情だ。それを振り返って水神は肩をすくめる。

「怒らない怒らない。いつも独り占めしているんだからさぁ」
「何も怒ってなどおりませんが? 人に聞かれるのを案じているだけで」
「そう? 少しトゲがあるような気がしてね」

 ふふん、と楽しげな水神は、弁天の弟のような見た目。だが中身は長い時を経た龍だ。蛇の身の宇賀より格としては上かもしれない。
 手を取られたままの弁天は、顔色を変えようとしない宇賀に無邪気な笑顔を向けた。

「宇賀のは怒ったりしてないよ。だって我とは一心同体だもの、もう独り占めとかそういうものではないんだよね」

 当たり前にそんなことを言われ、水神がヒュウと口笛を吹いた。弁天はきょとんとしてしまう。

「……何、今の」
「ああ、何だか異人がよくやるんだ。感心した時、冷やかす時」
「ふうん。さすが運上所脇に住んでいると違うねえ。異人さんのこと良く知ってる」

 そうじゃない、感心しつつ冷やかされているのだぞ、それはいいのか。宇賀はカチンときたが、弁天が一心同体だと思ってくれていることには反論したくないので黙ってしまった。
 水神はスルリと手をほどくとつまらなそうに唇をとがらせた。

「せっかく一緒に暮らすのに、つれないな」

 また語弊のある言い方だったが、宇賀はつとめて無視した。どうせからかっているだけなのだ。だが弁天は屈託なく言い返す。

「敷地の内の離れみたいなものでしょ。うちの玉宥やなんかも、一緒に住んでることになるの?」
「今、って言ったじゃない」
「あ、そうか」

 それは身内として扱っているしるしだ。同じ屋根の下にいるかどうかではなく、心が共にあるということ。
 水神もそうなっていくのだろうか。あるいは別荘の管理人どまりかもしれない。鳥居が見えてきた弁天社のことを水神は考えた。

「……松の梢って痛そうだよね。お社の屋根の上で寝転がってようかな」
「えええ。龍燈のお社になっちゃう」

 ぼんやり光る神社の屋根など、人の噂になったらどうなることやら。参拝者が増えて玉宥は喜ぶだろうか。

「だめか。まあ引っ越したらおいおい居心地のいいところを探すよ。これからよろしくね、大家さん」

 大家。たしかにその通りだ。
 弁天社の主はふんわり笑い、店子となる水神を丁重にご案内したのだった。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。 甲斐の国、天目山。 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。 そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。 武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。 コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

魔斬

夢酔藤山
歴史・時代
深淵なる江戸の闇には、怨霊や妖魔の類が巣食い、昼と対なす穢土があった。 その魔を斬り払う闇の稼業、魔斬。 坊主や神主の手に負えぬ退魔を金銭で請け負う江戸の元締は関東長吏頭・浅草弾左衛門。忌むべき身分を統べる弾左衛門が最後に頼るのが、武家で唯一の魔斬人・山田浅右衛門である。昼は罪人の首を斬り、夜は怨霊を斬る因果の男。 幕末。 深い闇の奥に、今日もあやかしを斬る男がいる。 2023年オール讀物中間発表止まりの作品。その先の連作を含めて、いよいよ御開帳。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

処理中です...