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慶応元年(1865年)夏から秋
第42話 実食! 其の四
しおりを挟むだが駐屯軍は大人しくなどしていなかった。夏に着任したイギリス新公使パークスは、フランス、オランダとともに横濱から艦隊を率いて西へ。朝廷のみならず、長州征伐のため上洛していた将軍にもまとめて圧力をかける。兵庫の港を開けというのだった。
「前の公使は長州の町を焼いたそうだけど、新しい人も物騒だね」
「別に播磨や摂津で何をしようがかまいません。横濱が無事ならばそれで」
「うん……宇賀のは変わらなくて、いっそ安心するよ」
弁天ですら、遠い京で起きていることを気にするようになったのに。
とはいえ今日の外出は、相変わらず弁天の趣味によるものだった。
「さあ、ここでしょ宇賀の」
「……そうですね」
目を輝かせて気合を入れる弁天が立ったのは、夕暮れ近い吉田堤だ。
弁天社から近い吉田橋を渡って居留地を出た所は吉田新田の端にあたる。田と海を分ける堤には柳が植わり、屋台がいくつも並んでいた。その一つから、嗅ぎ慣れない香ばしい匂いが秋風にのってただよってくる。知らないのに不思議と食欲をそそる香りだった。
「これが牛肉の匂い……」
弁天はごくりと息を呑んだ。やっと、やっと念願がかなう。
すぐそこにあるのは牛串焼きの屋台だ。しばらく前からこの辺りで商っているらしい。
増徳院にいることが多い弁天だが、珍しくこちらに来た時に屋台を見つけ、喜び勇んで牛串を食べようとした。その日は宇賀に渋られたが、その反応ももはや様式美だろう。そろそろ横濱では牛も豚も食べたことのある者が増えてきているのだ。異人との付き合いがある金持ちほどそうなので、庶民だって興味津々だ。
そんな欲を満たす、手ごろな屋台。何の問題があるかと宇賀を説き伏せての今日だった。以前言っていた牛鍋ではなくとも、初めて口にする牛の肉。弁天の胸は期待に高鳴っているのだが、宇賀はにべもない。
「大げさですよ、あなたは」
「だって宇賀のが意地悪して、なかなか来られなかったんだもん!」
「意地悪とかそういうものじゃありません。道で串焼きの肉にかぶりつく女人など、どうかと思うのは当然の配慮でしょう!」
しかめっつらで宇賀は言う。
敬愛する弁天にそんな行儀の悪いことをしてほしくなくて必死で止めていたのだが、とうとう押し切られた。宇賀が買って帰ってくればとも提案したのだが、商っているところを見なくてどうするのと頬をふくらまされ、あげく「じゃあ一人で行く」とツーンとされてはもうかなわないのだった。弁天に嫌われたら、宇賀の存在意義がなくなってしまう。
屋台の炭の上でジュッと音がするのがわかるぐらいの所で、宇賀は弁天を押し留めた。
「……せめてここで待っていて下さい。私が二本、買ってきますから」
「えー。あの煙、我も浴びてみたい」
「なんのご利益もありませんよ!」
お線香のように言うのは間違いだ。むしろ死んだ牛の恨みでもこもっているかもしれないじゃないか。
さっさと懐から財布を取り出し行ってしまう宇賀の背中に、弁天はクスリと笑った。なんだかんだ言いつつ弁天の我がままを通してくれるのが頼もしい。
だって、いつか牛肉を食べようと約束したのだから。
牛鍋の店、伊勢熊のことを知った翌冬は弁天がお堂に引きこもっていて忘れていたけれど。
再び町に出るようになったら近所がすっかり変わってしまい、居留地より元町や山手の方が面白くなって何となく機を逸したけれど。
伊勢熊に行ってみてもいいのだが、港が開かれてから宇賀とはあちこち歩いてきた。そんな横濱の空の下、散歩のついでのように二人で食べたならきっと楽しいと思いついてしまったのだった。
「お待たせを」
屋台の主人と言葉を交わす背中を眺めていたら、振り向いた宇賀は戻ってきて不機嫌な口調だった。近くの柳の陰に片手で押し込まれる。
「え、なによ」
「……あんなべっぴんさんが肉を試すとは嬉しいね、と」
「屋台の人が?」
にこにこと待っている弁天の姿を見られたのが気に入らないらしい。
「あなたは目立つんです。だから嫌なんだ」
「宇賀の……」
無表情をよそおう宇賀の顔が拗ねたように思えて弁天は微笑んでしまった。嬉しくなるのは何故だろう。
「じゃあ宇賀のが、人の目から隠してね」
「隠していますよ」
仏頂面の宇賀と柳にかばわれながら、弁天は手を出した。
「さ、一本ちょうだい」
「……どうぞ」
手にした串を渡し、宇賀はつい口もとをほころばせた。弁天の瞳があまりに輝いたから。
かぷり。串の先の一切れを口に入れ、弁天はじっくり味わった。しっかりした噛みごたえから、旨味があふれ出る。
「ああなんだろ。美味しいし、染み入るよ」
「はい。ですが……この風味、知っている気が。初めて食べたはずですのに」
目を閉じて鼻に抜ける匂いを探った宇賀が首をかしげる。言われて弁天もかすかな記憶をたどった。
「あ、もしかしてボートル!」
「ああ、牛の乳から採った油。肉と同じ香りなんですね」
以前パンと食べたバターと共通する何かが肉にある。まったく形が違うのに不思議なことだ。大元の牛そのものが持つ癖なのだろう。
「これは牛さんの匂いなんだね。ふうむ、じゃあ牛の乳も同じなのかな」
「あいすくりんにも乳が使われていたはずですが。気づきませんでしたね」
「そうなんだ? えええ、不覚……」
まるで何かと勝負でもしているかのように弁天が悔しがり、宇賀は小さく笑った。
このささやかなひとときを、人の子らと共に楽しんでいたい。
だがこの荒れる世にあって、横濱はどうなっていくのだろう。弁天も宇賀も、ひそかに案じていた。
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