開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

文字の大きさ
上 下
48 / 57
慶応元年(1865年)夏から秋

第42話 実食! 其の四

しおりを挟む

 だが駐屯軍は大人しくなどしていなかった。夏に着任したイギリス新公使パークスは、フランス、オランダとともに横濱から艦隊を率いて西へ。朝廷のみならず、長州征伐のため上洛していた将軍にもまとめて圧力をかける。兵庫の港を開けというのだった。

「前の公使は長州の町を焼いたそうだけど、新しい人も物騒だね」
「別に播磨や摂津で何をしようがかまいません。横濱が無事ならばそれで」
「うん……宇賀のは変わらなくて、いっそ安心するよ」

 弁天ですら、遠い京で起きていることを気にするようになったのに。
 とはいえ今日の外出は、相変わらず弁天の趣味によるものだった。

「さあ、ここでしょ宇賀の」
「……そうですね」

 目を輝かせて気合を入れる弁天が立ったのは、夕暮れ近い吉田つつみだ。
 弁天社から近い吉田橋を渡って居留地を出た所は吉田新田の端にあたる。田と海を分ける堤には柳が植わり、屋台がいくつも並んでいた。その一つから、嗅ぎ慣れない香ばしい匂いが秋風にのってただよってくる。知らないのに不思議と食欲をそそる香りだった。

「これが牛肉の匂い……」

 弁天はごくりと息を呑んだ。やっと、やっと念願がかなう。
 すぐそこにあるのは牛串焼きの屋台だ。しばらく前からこの辺りで商っているらしい。
 増徳院にいることが多い弁天だが、珍しくこちらに来た時に屋台を見つけ、喜び勇んで牛串を食べようとした。その日は宇賀に渋られたが、その反応ももはや様式美だろう。そろそろ横濱では牛も豚も食べたことのある者が増えてきているのだ。異人との付き合いがある金持ちほどそうなので、庶民だって興味津々だ。
 そんな欲を満たす、手ごろな屋台。何の問題があるかと宇賀を説き伏せての今日だった。以前言っていた牛鍋うしなべではなくとも、初めて口にする牛の肉。弁天の胸は期待に高鳴っているのだが、宇賀はにべもない。

「大げさですよ、あなたは」
「だって宇賀のが意地悪して、なかなか来られなかったんだもん!」
「意地悪とかそういうものじゃありません。道で串焼きの肉にかぶりつく女人など、どうかと思うのは当然の配慮でしょう!」

 しかめっつらで宇賀は言う。
 敬愛する弁天にそんな行儀の悪いことをしてほしくなくて必死で止めていたのだが、とうとう押し切られた。宇賀が買って帰ってくればとも提案したのだが、商っているところを見なくてどうするのと頬をふくらまされ、あげく「じゃあ一人で行く」とツーンとされてはもうかなわないのだった。弁天に嫌われたら、宇賀の存在意義がなくなってしまう。
 屋台の炭の上でジュッと音がするのがわかるぐらいの所で、宇賀は弁天を押し留めた。

「……せめてここで待っていて下さい。私が二本、買ってきますから」
「えー。あの煙、我も浴びてみたい」
「なんのご利益りやくもありませんよ!」

 お線香のように言うのは間違いだ。むしろ死んだ牛の恨みでもこもっているかもしれないじゃないか。
 さっさと懐から財布を取り出し行ってしまう宇賀の背中に、弁天はクスリと笑った。なんだかんだ言いつつ弁天の我がままを通してくれるのが頼もしい。

 だって、いつか牛肉を食べようと約束したのだから。
 牛鍋の店、伊勢熊のことを知った翌冬は弁天がお堂に引きこもっていて忘れていたけれど。
 再び町に出るようになったら近所がすっかり変わってしまい、居留地より元町や山手の方が面白くなって何となく機を逸したけれど。
 伊勢熊に行ってみてもいいのだが、港が開かれてから宇賀とはあちこち歩いてきた。そんな横濱の空の下、散歩のついでのように二人で食べたならきっと楽しいと思いついてしまったのだった。

「お待たせを」

 屋台の主人と言葉を交わす背中を眺めていたら、振り向いた宇賀は戻ってきて不機嫌な口調だった。近くの柳の陰に片手で押し込まれる。

「え、なによ」
「……あんなべっぴんさんが肉を試すとは嬉しいね、と」
「屋台の人が?」

 にこにこと待っている弁天の姿を見られたのが気に入らないらしい。

「あなたは目立つんです。だから嫌なんだ」
「宇賀の……」

 無表情をよそおう宇賀の顔が拗ねたように思えて弁天は微笑んでしまった。嬉しくなるのは何故だろう。

「じゃあ宇賀のが、人の目から隠してね」
「隠していますよ」

 仏頂面の宇賀と柳にかばわれながら、弁天は手を出した。

「さ、一本ちょうだい」
「……どうぞ」

 手にした串を渡し、宇賀はつい口もとをほころばせた。弁天の瞳があまりに輝いたから。
 かぷり。串の先の一切れを口に入れ、弁天はじっくり味わった。しっかりした噛みごたえから、旨味があふれ出る。

「ああなんだろ。美味しいし、染み入るよ」
「はい。ですが……この風味、知っている気が。初めて食べたはずですのに」

 目を閉じて鼻に抜ける匂いを探った宇賀が首をかしげる。言われて弁天もかすかな記憶をたどった。

「あ、もしかしてボートル!」
「ああ、牛の乳から採った油。肉と同じ香りなんですね」

 以前パンと食べたバターと共通する何かが肉にある。まったく形が違うのに不思議なことだ。大元の牛そのものが持つ癖なのだろう。

「これは牛さんの匂いなんだね。ふうむ、じゃあ牛の乳も同じなのかな」
「あいすくりんにも乳が使われていたはずですが。気づきませんでしたね」
「そうなんだ? えええ、不覚……」

 まるで何かと勝負でもしているかのように弁天が悔しがり、宇賀は小さく笑った。

 このささやかなひとときを、人の子らと共に楽しんでいたい。
 だがこの荒れる世にあって、横濱はどうなっていくのだろう。弁天も宇賀も、ひそかに案じていた。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

稲荷狐となまくら侍 -明治あやかし捕物帖-

山口 実徳
歴史・時代
 時は明治9年、場所は横浜。  上野の山に名前を葬った元彰義隊士の若侍。流れ着いた横浜で、賊軍の汚名から身を隠し、遊郭の用心棒を務めていたが、廃刀令でクビになる。  その夜に出会った、祠が失われそうな稲荷狐コンコ。あやかし退治に誘われて、祠の霊力が込めたなまくら刀と、リュウという名を授けられる。  ふたりを支えるのは横浜発展の功労者にして易聖、高島嘉右衛門。易断によれば、文明開化の横浜を恐ろしいあやかしが襲うという。  文明開化を謳歌するあやかしに、上野戦争の恨みを抱く元新政府軍兵士もがコンコとリュウに襲いかかる。  恐ろしいあやかしの正体とは。  ふたりは、あやかしから横浜を守れるのか。  リュウは上野戦争の過去を断ち切れるのか。  そして、ふたりは陽のあたる場所に出られるのか。

処理中です...