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慶応元年(1865年)夏から秋
第41話 それぞれの思惑は
しおりを挟む「いや、あそこは船そのものを造るわけじゃないそうで」
と、横濱製鉄所のことを教えてくれたのは増徳院住職の玉宥だった。だが良くはわかっていないらしい。
「船を造るための何かを造るんですとか」
「どういうこと」
あやふやな物言いに弁天は笑った。
だが製鉄所は本当に、船を造るための機械と部品を造るという場所だった。フランス人が指導する横須賀の造船所を稼働させるためだ。幕府はこの頃フランスに急接近していて、野毛下の陣屋には仏語伝習所も置かれ通詞が育成されている。
そんなことを玉宥がどこで知ったかというと、本堂の普請を半右衛門に相談して聞き込んできたのだそうだ。
「おや、とうとう本堂を? 屋根だけじゃなく」
「金子がなんとかなりそうでして」
雨漏りしていた屋根だけは応急に直していたのだが、やっと本堂そのものの再建にこぎつけられる。だが大工が足りず、手をつけるのは来年だった。建て直しよりも新しい家の方が早急に必要なので待つしかないと玉宥は笑ったが、そのぶん値切るのかもしれない。
「まだまだ横濱町はふくらむばかりですな。元町での商いも盛んになっておりますし、うちで御縁日を開いてほしいとも言われるのですわ」
「元町はここの門前町みたいなものだもんね。縁日でにぎわえば儲かるってことか」
下々の商いの事情に通じるのは神仏としてどうなのか、などと弁天は思わない。人の暮らしに寄り添い見守ってこその鎮守なのだから。しかし縁日とは、いったい誰の。
「薬師ちゃんの縁日かなあ。それなら老若男女集まるよ」
「おや、弁財天さまのではなく?」
「だって我のご利益を欲しがるのは少しばかり荒っぽい者も多いからね。浮かれて酒でも入ったらあぶないよ」
船の男は威勢がよい。酔って暴れかける赤隊に立ち向かった又四郎を思い出し、弁天は苦笑いした。ふむ、と玉宥は考え込んだ。
「実は秋葉さまの御縁日などを考えておりましたが……」
「ああ、火伏は大事だね」
元町でも小火がたまにある。
秋葉神社は火伏の天狗だ。以前寺の内に祀られた道了宮は普請の天狗だが、天狗つながりで共に祀られるようになっていた。昔の横濱村では火が出ても延焼などなかったが、みっちりと家が並び町となった今、頼りたい神も変わってくる。
「それにしても本堂を立派にしてからでいいんじゃないの? さびれた姿でがっかりされては、あとで参拝に通ってもらえないよ」
「さびれたとおっしゃいますか……」
玉宥がしょぼんとして弁天は笑った。その変わらぬボロさも弁天は好むところだが、寺を立て直したい玉宥にとっては悲しい言葉だ。
「元町は異人さんもたくさん通るじゃない。縁日なんて珍しがって見物に来るだろうし」
「はあはあ、そうなりますとお上に話を通さねばなりませんな」
「弁天社の例祭だって、異人に見せつけるように華美にやれって奉行所から言われてるんだよ、やるなら盛大にやらないと」
「……どこぞから寄進などいただけますかなあ」
玉宥は真剣に考え込んだ。すぐに算盤をはじく癖は変わらない。
赤隊、青隊が駐屯する山手の丘には、少しづつ居留民が住み着き始めていた。それは公には禁じられているのだが、名義は地主のまま家を建て、それがいつの間にか外国人の商館になっていたりする。外国奉行もそれを厳しく取り締まることはせず、黙認していた。
丘の上と山下居留地を行き来する外国人は、そのたびに元町を横切ることになる。おかげで元町のいくつかの店では英語やフランス語の看板まで掲げられるようになった。日本人は異国の言葉を、外国人は日本語を、それぞれ学びつつ片言でやり取りするさまを見れば、ここはどこなのかと思う。
「山手の向こうに下りてみたけど、そっちにも異人さんが来るんだって。赤隊が鉄砲を撃っていてね」
「ああ鉄砲場ですか。それも半右衛門どのから噂は聞きましたな。日本人も撃ちに行っていいんだとか。やってみたそうにしていましたぞ」
「まーた、あの悪戯者は」
弁天は呆れて笑った。
さすがの半右衛門も横濱村では鉄砲など必要がなく、手にしたことがなかった。今は鉄砲商が弁天通りにもいて実物を見たことはあれど、試し撃ちはできずにいるらしい。鉄砲場が欲しいと言い出したのはイギリスだったが、地代は幕府が出しているため居留各国人も日本人も使えるようになっていて、半右衛門はうずうずしていた。
「武家もいたのは、撃ちに来ていたんだね」
「西洋の鉄砲術を教わっていたのでしょうか」
つぶやいて、宇賀は眉をひそめた。どこの藩の者だかわからないがそれは戦支度なのだろう。攘夷のための戦力をイギリスから習うというのもおかしいし、日本の中での争いに備えているのか。
西洋の連合艦隊に薩摩や長州が負けたのは一昨年と去年だった。そう聞けばその強さを学びたいと思うのは仕方ない。誰だって自分の主張を通したいものだし、主家を守りたいのだ。そのためには力がいる。
それにしても徳川幕府が守ってきた二百五十年の泰平は、ここしばらくで大きく揺らいでしまった。だがそれも世の流れだ。
暗い考えに沈む宇賀が案じているのは弁天の見守る横濱の行く末だけ。そうわかるから、弁天は優しく微笑んだ。
「戦になどならず、のほほんと商いをしていられればいいのだけどね……」
駐屯軍さえ大人しくしていてくれれば、横濱はそうひどいことにはなるまい。彼らはどう動くのだろうか。
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