開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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慶応元年(1865年)夏から秋

第39話 異人さんのいる暮らし

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 居留地の真ん中、走り出した半右衛門は行きかう人の中で立ちすくんだ若い男をとっつかまえた。

「栄作、おまえ運上所をとっとと辞めたってぇじゃないか!」

 栄作と呼ばれた男は二十五、六ほどか。叱りつけられて、しょんぼり肩をすぼめ申し訳なさそうにする。

「へえ。口入れいただいたのに、お顔をつぶしちまって申し訳ありやせん」
「いや、こっちの面子なんざいいんだが」

 素直に謝られ、半右衛門は眉間のしわをゆるめた。

「次の働き口はどうなんだ、食っていけてるのか?」
「それはなんとか。フア商会ってとこに雇われました」
「不破?」
「イギリス人でして。飲み物を作るんでさ、ソーダとかいう」
「ほほう……言葉はどうしてる、わからんだろうに」
「周りは日本人も多いですし、どうにでもなりまさあね。しゃべりながら覚えりゃあいいんですよ」
「なんとまあいいかげんな……だがお前みたいのは、堅苦しく文字を書いてるよりそれでいいのかもしれんな」
「恐れ入ります。フア商会じゃあ泡の出る水とかギヤマンとかを扱って、面白くやらしてもらってますんで」

 少し後ろで聞いていた弁天も呆れるほどに、栄作は悪びれない、だが不思議と憎めない男だった。半右衛門も苦笑いで肩を叩く。栄作は人好きのする笑顔で頭を下げると、弁天と宇賀の方もちらりと見、だが何も言わずに去っていった。半右衛門は振り向くと申し訳なさそうに頭をかいた。

「こりゃすみません。今の男、運上所に筆役として推挙したんですが、すぐに辞めちまいまして。ひと言文句を」
「文句というか、心配してたんでしょ。次の働き口はあったみたいで安心だね」

 笑う弁天の横で宇賀は首をひねった。

「筆役ということは学のある者ですか」
「ええ、武家に仕えたこともあるんだとか。近江彦根の酒屋の出だと言ってましたが、横濱に来てからも転々と職を変えやがって落ち着かんのですわ」
「ずいぶんと浮ついた性根の男ですね」

 半年で運送屋、団子屋、材木問屋と職を変えたのだとか。普請役の半右衛門と知り合い運上所に勤めたものの、すぐに飛び出して今はイギリス人のソーダ工場にいるらしい。

「しょうのない奴ですが、ああいう男がひと山当てたりもしますからね」

 半右衛門はにやりと笑った。
 この変わりゆく横濱では商いの浮沈が激しい。そこで生き残っていく者を見つけるのが地元生まれの半右衛門としては楽しみのひとつなのだ。ふるさとを富ませてくれるのは他所者だろうとかまわない。

「若い者には新しい商いの芽を作ってほしいもんです」
「半右衛門のくせにいっぱしの口をきいて」

 おかしそうにされて、すでに壮年の男である半右衛門は情けない顔をした。

「……これでもそれなりの身にはなってるんですがねえ」

 いちおう名主として町をまとめているのに子ども扱いされてしまう。
 だが仕方ない、人の子なのだから、弁天には一生敵いっこないのだった。



 じりじりと照る盛夏の陽射しの中、弁天は涼しい顔で歩いていた。谷戸坂を登り、またトワンテ山の方へ。だが今日はそこを過ぎて北方きたかた村の屠牛場まで行こうと提案し、宇賀がとても嫌そうにしていた。

「食べるために生き物を殺めるのは世の理なれど、わざわざ見ずとも……」
「まあまあ。あちらには十二天社じゅうにてんしゃもあるし、異人さんも遊びに行っているそうじゃないの。浜辺なんてもの、横濱にはもうないからねえ」

 本牧ほんもくの小さな岬にある十二天は、風光明媚な場所だ。以前の下の宮弁天社のように、景色を楽しみつつお詣りする人々で賑わっているのだとか。
 たまには浜に寄せて引く波の音が聴きたいな、と弁天に言われては宇賀も黙るしかなかった。

「……まあおそらく中は覗けやしませんから、よしとしましょう」
「我だって牛が捌かれるのを見たいなんて言わないよ! どんな所だろうと思っただけ!」

 場所としては横濱の港から小さな岬を回り込んだだけの距離だ。小港こみなとと呼ばれるその辺りと居留地を舟で行き来しているのだろうが、おとなしく舟に乗っている牛なんてものは見てみたい。それとも荷車で丘を越えていくのか。
 ところがトワンテ山まで来ると、ダララ、とにぎやかな太鼓が聞こえた。足音高く門から出てきた兵隊は太鼓に合わせて行進し、十二天へ行くのかと思えばすぐに右へ折れ、坂を下っていってしまった。山手の丘を挟んで元町とは反対側の集落の方だ。

「あっちは……田んぼしかないよね」
「失礼ですよ、東漸とうぜん寺と妙香みょうこう寺があります。あと……実は、鉄砲場というものが」
「てっぽうば?」

 言いにくそうにする宇賀だが、それはつまり駐留軍の訓練場だった。山手の丘を占拠しただけでは飽き足らず、田畑をつぶして我が物顔にしているなどと弁天に教えづらくて黙っていたのだが、宇賀もまだ行ったことはない。

「へええ。じゃあ、赤隊さんについてってみようよ」
「……物見高いですね」

 あっさりと行先変更し、弁天は軽やかな足取りで坂を下りた。
 天沼あまぬまの湧き水の横を抜けると、広がった田畑の先に兵隊が歩いていくのが見える。米が実ってこうべを垂れる中、付近の農家の者たちは行進する赤隊を気にする様子もなく働いていた。

「ここらの皆も異人さんに馴染んじゃったのかな」

 居留地となった横濱村がそうなのは仕方ないと思っていた。だが周辺の村々でも同じように、外国人は見慣れた存在に成り果てているようだ。
 それにしてもなんて物騒な名だが、どんな所だろうか。弁天は興味津々で兵らの後を追った。

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