開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

文字の大きさ
上 下
45 / 57
慶応元年(1865年)夏から秋

第39話 異人さんのいる暮らし

しおりを挟む

 居留地の真ん中、走り出した半右衛門は行きかう人の中で立ちすくんだ若い男をとっつかまえた。

「栄作、おまえ運上所をとっとと辞めたってぇじゃないか!」

 栄作と呼ばれた男は二十五、六ほどか。叱りつけられて、しょんぼり肩をすぼめ申し訳なさそうにする。

「へえ。口入れいただいたのに、お顔をつぶしちまって申し訳ありやせん」
「いや、こっちの面子なんざいいんだが」

 素直に謝られ、半右衛門は眉間のしわをゆるめた。

「次の働き口はどうなんだ、食っていけてるのか?」
「それはなんとか。フア商会ってとこに雇われました」
「不破?」
「イギリス人でして。飲み物を作るんでさ、ソーダとかいう」
「ほほう……言葉はどうしてる、わからんだろうに」
「周りは日本人も多いですし、どうにでもなりまさあね。しゃべりながら覚えりゃあいいんですよ」
「なんとまあいいかげんな……だがお前みたいのは、堅苦しく文字を書いてるよりそれでいいのかもしれんな」
「恐れ入ります。フア商会じゃあ泡の出る水とかギヤマンとかを扱って、面白くやらしてもらってますんで」

 少し後ろで聞いていた弁天も呆れるほどに、栄作は悪びれない、だが不思議と憎めない男だった。半右衛門も苦笑いで肩を叩く。栄作は人好きのする笑顔で頭を下げると、弁天と宇賀の方もちらりと見、だが何も言わずに去っていった。半右衛門は振り向くと申し訳なさそうに頭をかいた。

「こりゃすみません。今の男、運上所に筆役として推挙したんですが、すぐに辞めちまいまして。ひと言文句を」
「文句というか、心配してたんでしょ。次の働き口はあったみたいで安心だね」

 笑う弁天の横で宇賀は首をひねった。

「筆役ということは学のある者ですか」
「ええ、武家に仕えたこともあるんだとか。近江彦根の酒屋の出だと言ってましたが、横濱に来てからも転々と職を変えやがって落ち着かんのですわ」
「ずいぶんと浮ついた性根の男ですね」

 半年で運送屋、団子屋、材木問屋と職を変えたのだとか。普請役の半右衛門と知り合い運上所に勤めたものの、すぐに飛び出して今はイギリス人のソーダ工場にいるらしい。

「しょうのない奴ですが、ああいう男がひと山当てたりもしますからね」

 半右衛門はにやりと笑った。
 この変わりゆく横濱では商いの浮沈が激しい。そこで生き残っていく者を見つけるのが地元生まれの半右衛門としては楽しみのひとつなのだ。ふるさとを富ませてくれるのは他所者だろうとかまわない。

「若い者には新しい商いの芽を作ってほしいもんです」
「半右衛門のくせにいっぱしの口をきいて」

 おかしそうにされて、すでに壮年の男である半右衛門は情けない顔をした。

「……これでもそれなりの身にはなってるんですがねえ」

 いちおう名主として町をまとめているのに子ども扱いされてしまう。
 だが仕方ない、人の子なのだから、弁天には一生敵いっこないのだった。



 じりじりと照る盛夏の陽射しの中、弁天は涼しい顔で歩いていた。谷戸坂を登り、またトワンテ山の方へ。だが今日はそこを過ぎて北方きたかた村の屠牛場まで行こうと提案し、宇賀がとても嫌そうにしていた。

「食べるために生き物を殺めるのは世の理なれど、わざわざ見ずとも……」
「まあまあ。あちらには十二天社じゅうにてんしゃもあるし、異人さんも遊びに行っているそうじゃないの。浜辺なんてもの、横濱にはもうないからねえ」

 本牧ほんもくの小さな岬にある十二天は、風光明媚な場所だ。以前の下の宮弁天社のように、景色を楽しみつつお詣りする人々で賑わっているのだとか。
 たまには浜に寄せて引く波の音が聴きたいな、と弁天に言われては宇賀も黙るしかなかった。

「……まあおそらく中は覗けやしませんから、よしとしましょう」
「我だって牛が捌かれるのを見たいなんて言わないよ! どんな所だろうと思っただけ!」

 場所としては横濱の港から小さな岬を回り込んだだけの距離だ。小港こみなとと呼ばれるその辺りと居留地を舟で行き来しているのだろうが、おとなしく舟に乗っている牛なんてものは見てみたい。それとも荷車で丘を越えていくのか。
 ところがトワンテ山まで来ると、ダララ、とにぎやかな太鼓が聞こえた。足音高く門から出てきた兵隊は太鼓に合わせて行進し、十二天へ行くのかと思えばすぐに右へ折れ、坂を下っていってしまった。山手の丘を挟んで元町とは反対側の集落の方だ。

「あっちは……田んぼしかないよね」
「失礼ですよ、東漸とうぜん寺と妙香みょうこう寺があります。あと……実は、鉄砲場というものが」
「てっぽうば?」

 言いにくそうにする宇賀だが、それはつまり駐留軍の訓練場だった。山手の丘を占拠しただけでは飽き足らず、田畑をつぶして我が物顔にしているなどと弁天に教えづらくて黙っていたのだが、宇賀もまだ行ったことはない。

「へええ。じゃあ、赤隊さんについてってみようよ」
「……物見高いですね」

 あっさりと行先変更し、弁天は軽やかな足取りで坂を下りた。
 天沼あまぬまの湧き水の横を抜けると、広がった田畑の先に兵隊が歩いていくのが見える。米が実ってこうべを垂れる中、付近の農家の者たちは行進する赤隊を気にする様子もなく働いていた。

「ここらの皆も異人さんに馴染んじゃったのかな」

 居留地となった横濱村がそうなのは仕方ないと思っていた。だが周辺の村々でも同じように、外国人は見慣れた存在に成り果てているようだ。
 それにしてもなんて物騒な名だが、どんな所だろうか。弁天は興味津々で兵らの後を追った。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

稲荷狐となまくら侍 -明治あやかし捕物帖-

山口 実徳
歴史・時代
 時は明治9年、場所は横浜。  上野の山に名前を葬った元彰義隊士の若侍。流れ着いた横浜で、賊軍の汚名から身を隠し、遊郭の用心棒を務めていたが、廃刀令でクビになる。  その夜に出会った、祠が失われそうな稲荷狐コンコ。あやかし退治に誘われて、祠の霊力が込めたなまくら刀と、リュウという名を授けられる。  ふたりを支えるのは横浜発展の功労者にして易聖、高島嘉右衛門。易断によれば、文明開化の横浜を恐ろしいあやかしが襲うという。  文明開化を謳歌するあやかしに、上野戦争の恨みを抱く元新政府軍兵士もがコンコとリュウに襲いかかる。  恐ろしいあやかしの正体とは。  ふたりは、あやかしから横浜を守れるのか。  リュウは上野戦争の過去を断ち切れるのか。  そして、ふたりは陽のあたる場所に出られるのか。

処理中です...