開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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元治元年(1864年)春から夏

第36話 はろう

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「……あれ、弥助さん?」

 店から出てきた小夜は、伯父の十兵衛と並んだ男を見るなり名を言い当てた。弥助の方もすっかり女らしくなった小夜に目を見張ったが懐かしげに笑う。

「小夜……本当にこっちに来てたんだなあ」
「そうなの、伯父さんの店で働いてて」

 言葉を交わす二人を見、状況がわからない又四郎はぐいと小夜の肩を抱いた。たぶん弥助への牽制だろう。

「この人があいつらを追い払ったんだ。小夜の知り合いか?」
「うん。横濱村の頃の」
「そちらは小夜の旦那だったのか。あまり喧嘩っ早いのは、ためにならないぞ」
「……ッ!」

 釘を刺されて又四郎は言葉に詰まる。あのまま撃たれて死んでいたかもしれないのだ。威勢と気っ風が自慢の船乗りとはいえ銃には敵わない。

「……すまねえ。助かった」
「いやほんとにありがたいよ」

 十兵衛はほとんど泣き笑いだ。大切な同居人である姪っ子の夫が殺されるかと思ったじゃないか。

「弥助、ありゃ何を言ったんだ? 連中が借りてきた猫みたいになっちまった」
「ええと、日本語だとなんて言うんだろう。赤隊には暴れた兵を取り締まる部隊がいるんです。そいつらが来るぞ、とね」

 弥助はおかしそうに笑った。捕まって兵倉にぶち込まれるのは彼らにとっても恐怖でしかないらしい。
 最近は日本人と揉める連中も多く、そんな時の対処法として弥助は馴染みの商人から「軍警が来る」と言えばいいと教わったのだった。あんなに効果てきめんだとは思わなかったが。

「牢屋に入りたくなければ帰れ、てことです」
「なるほどな。俺らは身振り手振りしかできんので何かあっても泣き寝入りだったんだ。その言葉、あとで教えてくれねえか」
「もちろん」

 力強く請け合った弥助は、真面目な顔になって又四郎に向き直った。

「異人とやり合うなんて、もうやめろ」
「だ、だけどよ。あいつらの方から小夜にからんできやがったんだ。俺が守らねえでどうする」
「だがお前、あいつらを殺しかねなかったじゃないか。懐に呑んでるのはなんだ、匕首あいくちか?」

 又四郎がハッとなって腹を押さえた。銃を向けられそこに手を伸ばしたのを弥助は見ていたのだった。黙られて、弥助はため息をついた。

「悪いのは赤隊の連中だ。でも殺せばお前だって打ち首になるぞ。小夜を一人にしたくないだろう」
「……わかったよ。もうしねえ」

 渋々答えた又四郎を小夜がベチンとひっ叩いた。

「もう馬鹿! 私は平気なんだから、あぶないことしないでちょうだい!」

 しがみついて泣き出す小夜に弥助は困った顔だ。幼い頃のほんのりした初恋だったとはいえ、目の前でそんなことをされるとさすがに居たたまれなかった。

「筒井筒の想いも叶うばかりではないんだねえ……」

 群衆の中に隠れ小声でつぶやく弁天に宇賀は吹き出した。
 今日は男を見せた弥助だったが、その背中は少し悲しげだった。



 酒を飲み、くだをまく。上官に捕まり牢に入るのを怖がる。
 そんな赤隊、そして青隊も居留民も、やはり普通に人なのだと弁天は思いを新たにした。

「そうです、奴らはただの人です。それがわかったからって、どうしてまたトワンテ山に行こうなどと」
「いや、ちょっと一言あいさつしに」
「なんなんです、あなたは……」

 日をあらためて意気揚々と表に出た弁天だったが、さすがに宇賀はうんざりした顔だった。だが駐屯地めがけて、こんどは裏の宮脇坂を上がる弁天はとても楽しそうだ。

「だってあそこの門番さんたち、我のことを見て話したそうにしていたじゃない。きっと日本人とも仲良くなりたいんだよ」
「……それはお人好しがすぎるというもの」
「そう?」
「彼奴らは男所帯です。美しい女なら誰にでも声を掛けるし手だって出す。だから又四郎が怒ったんでしょう」
「あ、そっか。小夜は美人だものね」

 ケラケラと弁天は笑った。それはまた駄目男っぽい振る舞いで、ますます赤隊の人間味が伝わってくるというもの。
 坂の上に出てみれば、向こうに駐屯地が広がっている。しかしその手前に子どもを連れた外国の婦人らがいて弁天はきょとんとした。居留地では女性も見かけるようになっていたが、こんな所にも。
 子らは元気に走り回っていて、女の子のヒラヒラした服が華やかで可愛らしかった。近づくと、こちらを見上げてニコニコする。嬉しくなって弁天は口にしてみた。

「はろう」
「――Hello!」

 パアッと目を輝かせた子らが言葉を返してきた。通じた。
 だがそこまでで、その後に何やら言われることが弁天にも宇賀にもさっぱりわからない。困っていると母親らしき婦人たちがやってきて笑顔で子らに言い聞かせた。これもわからなかったが、たぶん悪いことではないのだろう。だって、顔を上げてこちらに向けたのは満面の笑みだったから。
 にこやかに笑って子どもを連れていく婦人たちは、そのまま駐屯地の門を通っていった。

「え、トワンテ山の人なの? あそこにいるの兵隊さんだけじゃないんだ」
「家族連れで日本に来ているんでしょうか」
「はあ……はるばるご苦労なことだけど。なんだ、なら男所帯とも限らないんじゃない」

 弁天に言われ宇賀は肩をすくめた。まだ調べが足りなかったようだ。
 挨拶が子どもに通じたことで気を良くし、弁天は足を進めた。谷戸坂の上まで来れば、また歩哨たちが弁天にまなざしを送ってくる。

「はろう!」

 にっこりと告げた弁天に、赤隊は一瞬驚いて――それからやんやの喝采と指笛が起こった。その反応にこちらが驚くほどだ。

 歩み寄れば、歩み寄られる。
 弁天の胸には喜びがあふれたのだが宇賀の方はむっつりとなった。心が狭いと言われようと、弁天は自分の主なのに。そんな宇賀の顔をちらりと見、弁天は小さく笑った。

 二人が見下ろす谷戸坂の先には居留地と港――そこは世界の人々が共に暮らす町だ。誰のどんな気持ちも呑み込んでくれる。
 人々の想いも、神々の想いも。

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