開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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元治元年(1864年)春から夏

第35話 異人の酔客

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 夜の帳が降りた空は、涼しい風がそよぎ穏やかだ。なのに元町にはざわざわとした気配が満ちている。人通りは少ないが建物の中からもれ聞こえてくるのだろう。

「飯屋や飲み屋ばかりでもないのにね」
「店を閉めてすぐ寝られるわけじゃありませんから」

 宇賀は提灯を手にし、弁天にぴったり寄りそっていた。提灯には〈石川組〉の文字。居留地普請取締役の半右衛門がみずから立ち上げた大工集団には腕っぷし自慢が多いので、そこの姐さんともなれば誰も手出しはしてこないだろう。勝手に持った提灯だったが半右衛門が見ても大笑いで許してくれるに違いない。

「ですが、歩くのはこの通りだけにしておきましょう」
「はいはい。宇賀のは厳しいねえ」

 いつまでも子どものように心配されて弁天は苦笑いだった。宇賀自身は夜だろうとあちこち出掛けているはずなのに。でなきゃ牛鍋屋のことなど詳しいわけがない。
 宇賀のそれは、もちろん弁天を思えばこそのものだ。麗しい女性が顔を出せない場所は多い。だが世の流れを知りたがる主のために、どこまでなら行っても平気なのか先回りして見きわめようと宇賀はひとりで動いていた。
 元町も、裏に入れば少々の悪所は出来ていた。湯屋には湯女ゆなたちがいるし、こっそり賭場も開かれていたりする。それが悪いとは言わない。そういうものを弁天が目にするのはいいが、客として集まる男どもの目が弁天にとまる方を宇賀は忌避しているのだった。

「我は別にだいじょうぶだって、何度言ったら」
「私が嫌なんです」

 宇賀は悪びれずに言い切った。開き直られて、弁天はもう諦めることにする。弁天だっていつも宇賀のためを思っているのだ。
 通りはぼんやりとした闇に沈んでいた。ぽつりぽつりと店に灯りが入っているせいで、むしろその狭間は夜が濃く思える。村だった頃の星あかりに浮かぶ田畑はもうない。見上げれば、空には月も星もあるのだけれど。
 様変わりした夜の中を元町の真ん中あたりまで行くと、少し先で怒鳴り声がして弁天は立ちどまった。続いてがしゃん、という物音もする。

「揉め事かな」
「そのようで。酔っ払いでしょうか」

 そんなところに弁天が顔を突っ込むわけにもいかないので遠巻きに様子をうかがってみる。同じようにあちこちから顔がのぞき始めた。

「――いや、駒ノ屋じゃないの?」
「なんと」

 そこは老女フミと孫娘小夜の店。飯屋だが、酒も出すことにして夜も開けているらしい。さすがに近づいてみたら、中で大声の聞き取れない言葉が響いた。これは英語か、フランス語か。

「異人の客が来ているってこと?」
「元町には赤隊や青隊が、よく酒を飲みに来るようですね」

 実はそんなことになっているのだ。居留地の中の飲み屋バーは一兵卒が通うには高い。日本のは安くて酔いが回るというので駐屯地から試しに来る者が後を絶たなかった。こんな極東に飛ばされて、そんな楽しみでもなければやっていられない。

「うるせえ! 何言ってんだかわからねえが、表に出やがれ赤野郎! うちの奴に指一本さわるんじゃねえぞ!」

 怒号とともに日本人の男が赤隊を外に突き飛ばして出てきた。その後ろから仲間の兵がわあわあ怒鳴りながら追いかけてくる。騒ぎを聞き集まっていた野次馬からどよめきが上がった。

「……あれは、又四郎では」
「だねえ」

 愛妻の小夜に酔客がちょっかい出してブチ切れたという感じだろうか。赤隊三人を相手に一歩も引かず、睨み合っている。客だった兵士らはすっかり酔っているようで足取りが覚束なかった。店からもう一人走り出たのは日本人だ。

「又四郎! あぶねえからよしな!」
「いいや思い知らせてやらねえと、こいつらみたいのがしょっちゅう来やがるし」

 止めに入ったのは小夜の伯父だろう。そちらは青ざめているのだが、又四郎の方は血気盛んだ。喧嘩腰なのが伝わるのか、赤隊もふらふらしながら身がまえた。
 その一人が腰から銃を抜く。周囲から悲鳴が上がり、さすがに仲間が制止したようだ。何を言い合っているのかはわからない。このまま撃たれるかとさすがに又四郎の額にも脂汗が浮かんだ。

「やめろ!」

 慌てた声が見物の後ろから飛んだ。同じ声が今度は英語で何かを叫ぶ。すると赤隊員はピシッと姿勢を正した。人を分けて前に出てきたのは、弥助だった。

「え……」

 驚く弁天や日本人たちを尻目に弥助は赤隊の三人に何事かを厳しく告げている。直立不動になりつつフラつく酔った兵らは、青ざめた顔を又四郎からそむけて踵を返した。人垣がザザッと割れて彼らを通す。
 トワンテ山に帰っていくのを見送り、弥助はハアア、と大きく息を吐いた。

「まったく血の気の多い……」
「あ、ありがとうございました!」

 銃を向けられ腰が抜けそうだった伯父は、助けてくれた弥助に深々と礼をするのを忘れなかった。そんなことをされ弥助は照れた顔になる。

「やめてください、十兵衛さん。お久しぶりです、中山の弥助です」
「へえ? あれ、本当だ! なんだい今の、英語かい?」

 横濱村にいた十兵衛と弥助はもちろん顔見知りなのだ。だが少年の姿しか覚えがなかった弥助が英語をあやつり兵士を追い返したとあって目を丸くしてしまう。

「ま、又四郎さん、だいじょうぶ?」

 そして店の中からおそるおそる顔を出したのは小夜。
 実に十年ぶりとなる弥助との再会を、弁天は人垣の隙間から見守っていた。

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