39 / 57
元治元年(1864年)春から夏
第34話 動乱の中でも
しおりを挟むところで今の横濱は、やや閑散としている。港がなくなるかもしれないからだ。
「ちょっと徳右衛門、まだ港を閉じるのどうのの話は終わっていなかったの?」
「左様でして……」
暮れ方になって増徳院に顔を見せた石川徳右衛門はもう還暦の町の名士だ。僧坊に足を運んだ弁天の前でも悠々とした態度を保ちつつ、そっと頭を下げた。
兵庫は京都に近すぎるゆえ開港はまかりならぬ。そして江戸からすぐの横濱も再び閉じるべし。
そんな議論が朝廷と幕府の間でなされているのだそうだ。すべての港を閉じろという強硬論からは一歩引いたものの、鎖国と攘夷の風は一部に根強い。
その話が出た文久三年の秋からは商いが低調だ。特に主力輸出品の生糸を横濱へ出荷するのが難しくなっているのは、有名無実だった五品江戸廻令が徹底されたからだった。しかもこの年、霜害のせいで生糸の生産量そのものが激減。明けて元治元年となり数ヶ月たった今も、弁天通りや本町通りの生糸商は青息吐息だった。
また、強硬な攘夷派も活発に動いている。この春に水戸天狗党が挙兵し主張したことの一つが、横濱の即時鎖港だ。そのうえ西洋からの航路にあたる馬関海峡を長州藩が封鎖している。
危険をおかしてまで商う市場でもないと日本に見切りをつけ、横濱を離れる外国商人も多かった。
徳右衛門は横濱町の総年寄。だが今日訪ねてきたのは、洲干島弁天社氏子としてだ。例祭が出来ないとの報せだった。
昨年のこの時期は、幕兵が港から船で上洛したり英仏軍の駐屯が決まったりで横濱は大騒ぎだった。そのせいで弁天社は祭を見合わせていたのだが、今年も諸々物騒でどうにもならないらしい。
港と居留地をめぐる情勢を話して聞かせ、徳右衛門は畳に手をついた。
「まことに申し訳ございません……」
「いやいや、仕方がないのはわかっているから」
弁天は鷹揚な態度を見せた。上総などでは実際に攘夷志士と幕府徴用の農民兵が戦ったりもしているらしい。ということは横濵もいつ何時襲撃されるかわからないのだった。
「世の中が騒がしいね――我は珍しい物を見られて楽しんでもいるけれど、皆の暮らしはどう?」
「……厳しいところは厳しく。だが新しい商いも見つけて何とか、でごさいましょうか」
鎮守らしく民を気づかった弁天だったが、徳右衛門は頭を振った。
「石川屋の生糸などは、まったくいけません」
「徳右衛門がどこぞの藩に名を貸していた店だっけ」
「福井藩でございます。先から生糸以外の店は分けておりますので、そちらで呉服や漆器などを商ってつないでおるようで」
藩としての出店が許されずに徳右衛門が名義人となって開いた本町通りの店が石川屋。生糸貿易締め付けのあおりをもろに食らったが、福井の産物は他にも多い。
「締役の金右衛門はなかなかの男でございますよ。他の大店も苦しいところですが、小回りのきく者は赤隊や青隊相手の商いを始めたり」
「ああ、農場が出来ているんだってね。我もオランダの苺を食べたよ」
「それはよろしゅうございました。食べ物もそうですし、西洋洗濯屋などというものも出てきておりますな」
兵士の暮らしの何もかもをまかなうため、様々な商売が生まれているそうだ。あの手この手で食っていこうとする人々のたくましさに弁天は笑顔になった。
「人の子は強い」
「まあ、そうするしかありませんので」
徳右衛門は微笑むと、ゆるりと挨拶し箕輪坂の家に帰っていった。早めに仕事を終わらせた帰路に立ち寄ったらしい。
「徳右衛門は忙しそうだね。ずいぶん貫禄もついて」
「それは歳も歳ですし」
「たった六十かそこらのくせに」
弁天はしかつめらしい顔をする。わざと言っているのだが、その尺度で計れば人はいつまでも幼子のままだ。
お堂に戻ろうとした弁天は、夏を迎えつつある宵の空を見上げてつぶやいた。
「……たまには夜歩きでもしてみようか。我は大人だもん」
「珍しいことを。でも暮れてからの居留地はおやめ下さい」
「まだ異人さんたちは落ち着かないか」
「それは無理ですよ」
今まさにイギリスと長州は海峡封鎖解除交渉の最中だし、江戸周辺には反乱や一揆の動きが渦巻いている。なんなら情勢は開港後もっとも緊迫しているかもしれなかった。
「というか、女人の夜歩きそのものをお勧めしませんので」
「……面倒なことだねえ」
小さな村だった頃には、男でも夜になれば寝るのが当たり前だった。ともす油がもったいない。
たまに出歩くのは空いたあばら家に集まり賭場を開くような荒くれ者だけだが、のどかな横濱村ではそんなこともまれ。遊びたければ神奈川宿にでも出た方が早い。
だが今は、元町でも遅くまで灯がともる。関内も関外も普請や工事は続いていて、大工や土方たちの楽しみといえば仕事のあとの一杯と飯。元町の奥には土方長屋の集まる坂があり、そこに帰る前に元町でひっかけていくのだ。
「ていうことはさ、店の女たちは働いているわけでしょ」
「それは店の中ですから。ちゃんと男手があるんですよ。でなきゃ危なくて」
「我にも宇賀のっていう男手があるからだいじょうぶ」
弁天はにっこりし、さっさと歩き出した。
11
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。
魔斬
夢酔藤山
歴史・時代
深淵なる江戸の闇には、怨霊や妖魔の類が巣食い、昼と対なす穢土があった。
その魔を斬り払う闇の稼業、魔斬。
坊主や神主の手に負えぬ退魔を金銭で請け負う江戸の元締は関東長吏頭・浅草弾左衛門。忌むべき身分を統べる弾左衛門が最後に頼るのが、武家で唯一の魔斬人・山田浅右衛門である。昼は罪人の首を斬り、夜は怨霊を斬る因果の男。
幕末。
深い闇の奥に、今日もあやかしを斬る男がいる。
2023年オール讀物中間発表止まりの作品。その先の連作を含めて、いよいよ御開帳。
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる