開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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元治元年(1864年)春から夏

第33話 世界を相手に

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 波止場と居留地にとどまらず、丘の上に進出する外国人の行動範囲。しかし許されているのは通行だけだ。馬でも徒歩でも散策する分には問題ないのだが、土地を買ったり住んだりは出来ないことになっていた。
 そこで横行したのが、日本人の名義貸し。西洋野菜の畑や牛豚の牧場を作りたい外国商社は、豪農の名前と土地を借りて外国人向けの農産物生産に乗り出していた。


「おや、弥助?」
「――あ、ええと。ごぶさたしております」

 谷戸橋の番所前で出くわしたのは、横濱村時代からの豪農中山家につながる弥助だった。ちょうど居留地から出てきた姿には以前の細っこさがなく、すっかり大人になっている。イギリス商人に片言で挨拶していた頃からは見違えていた。

「ずいぶんと男らしくなって」
「いえそんな、恐れ入ります……沙羅さまと宇賀さまは、おかわりなく」
「……そうだね」

 五年ぶりに会う弥助の瞳に驚きや戸惑いが浮かんだように見えて、弁天はあいまいに微笑んだ。
 初めて話したのは弥助が子どもの頃。それが少年になり、大人になってしまったのに、弁天と宇賀の様子は何も変わらない。「おかわりない」にもほどがあろう。
 これまで横濱村の民とは、こんなに頻繁に顔を合わせることなどなかった。遠くから村人の暮らしを見守るだけだったのだ。
 だがたぶん弥助は、二人が何者なのかと考えてしまっているだろう。年長者への礼儀をわきまえて尋ねることはしないが、そのうち姿かたちでは弁天の歳を追い越すはず。そうなってから鉢合わせたらどうすべきか。
 でも、とりあえず今はいいか。弁天は答えを先送りにした。

「まだ異人さんと関わっているの?」
「はい。山手の丘に生える草木を調べています」
「……へ?」

 意外な返事に弁天は間抜けな声をあげた。弥助は照れたように小さく笑んだ。

「イギリス商人に頼まれたんです。日本にある珍しい花を探してほしいと」
「でも……ここいらには普通の花しかないでしょうよ」
「日本で普通でも、向こうにはありませんから」

 言われてみれば、そうかもしれない。日本の中でも山の花、里の花、海辺の花と土地により草木は様々だ。イギリスにない植物の種や球根は高く売れるらしい。
 中山家が山手の土地を農場として貸したことから、弥助はそのイギリス商人に請われ近隣を案内して回っているのだとか。

「といっても、地元の日本人との橋渡しぐらいですけどね」
「え、じゃあ英語を話せるの?」
「少しなら。商人はフランスもオランダも、英語でわりと話せます。青隊には通じないことも多くて困りものですが」

 本当に大人びた口をきくようになったものだ。弁天は何だかおかしくなって、からかってみた。

「そうだ、四丁目にね、駒ノ屋という飯屋があるのだけど」
「はい」
「そこに小夜が帰ってきてた。根岸から」
「――ッそ、そうですか」

 とたんに慌てふためく弥助に、宇賀はすかさず牽制を入れた。

「いや、旦那と一緒ですよ」

 そのひと言でグッとのどを詰まらせる弥助が哀れで、宇賀は責める目を弁天に向けた。

「沙羅さま、そこを抜かして話してはいけません」
「いま言おうとしたんだもん!」

 ぶぅ、とむくれる弁天は少女じみて、ますます年齢不詳だ。だがそれを追及する気力も失せ、弥助は力なく笑った。

「いやあ、その。いつまでもあの頃のことは言わないで下さい……」
「そう? ごめんごめん、弥助ももう大人だものね」

 じゃあしっかり働くんだよと励ますと弥助は会釈して踵を返した。谷戸坂の方へ立ち去る後ろ姿は、やや肩が落ちている。
 弁天はくすくすしながら番所に声を掛けた。

「お頼み申しまーす」
「どうれ」

 出てきた菜っ葉隊に形ばかり検分してもらい、居留地へと渡る。右手はすぐに海だ。この海沿いに道が通り、新しい波止場が出来ている。弁天はそれを見に来たのだった。
 海岸通りに出て港と沖を見晴らしながら、宇賀は尋ねた。

「――弥助に問われたら、御身を明かすおつもりですか?」
「んー?」

 沖にはまだ軍艦が浮かんでいる。対して商船はやや少ないようにも思えた。横濵は、港はどうなっていくのだろう。

「――これまでだって、誰にも教えなかったわけじゃないし」
「おもに寺の者と、石川の当主ぐらいでしょう」
「まあね。村のお偉いさんは分別も学もあるからいいかな、て――だけど」

 遠い異国と行き来する船を見据え、弁天は微笑む。

「世は変わった。横濱村も変わった。下々の者が海の向こうの国の言葉を聞き、話すんだよ」
「……変わりましたね」
「名主だから身を明かすとか、そんなのは違うんじゃないの? 弥助が信ずるに足る男に育つのならば、我も腹を割って話す」

 弥助も無学ではないし名主の流れの者だ。その意味では下々とは言えないかもしれないが、少し昔なら関わらずに見ているだけだったはずの子ども。
 だが彼は世界の広さを知り、交わって働いている。たくましい男に育ちつつある村の子を見守りたいと思うのは当たり前のことだ。
 横濱の港、江戸湾、そして大きな海原へと続く潮騒を聞きながら、宇賀は目を細めた。

「……それで、いいのかもしれません」
「でしょ。あの子が頼れる男になるのが楽しみだよ」
「女のことでイジけるようでは、まだまだ」

 ふ、と宇賀は口の端を上げた。
 先ほどの消沈した背中を見れば、いかにも頼りない。それには弁天も肩をすくめて苦笑いだ。

「厳しいなあ」
「……弥助は頑張っているとわかっています。私も、きちんと見ておりますから」

 海の波音を数えながら、宇賀は淡々としていた。
 だがそのまなざしは笑みを湛えていて――宇賀だって若者の行く末を、ちょっとは楽しみにしているのだった。

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