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元治元年(1864年)春から夏
第32話 赤隊、青隊
しおりを挟む赤隊。そして青隊。
それぞれイギリス軍とフランス軍のことを横濱の人々はそう呼ぶようになった。軍服の色からの名だ。
「さあて、どんなものだか行ってみようか」
「町に出るとはおっしゃいましたが、どうして屯所に行くんです」
谷戸坂の下から丘を見上げる弁天に、宇賀はこめかみを押さえて文句を言った。
春の陽ざしに若葉が柔らかだが、気分はあまり晴々としない。この上には英仏の駐屯地があり、そこを見てやろうと弁天が言い出したのだ。
「だって、今の横濱の騒ぎの大元だよ。この目で見てみなくちゃね」
「まったくあなたは……」
そう言いながらしっかり従ってくれる宇賀に弁天はにこりと笑んだ。そんな極上の顔をされると、もう宇賀は何も言えなくなり無表情に目をそらす。
二人の後ろには谷戸橋の番所があった。そこには菜っ葉隊と呼ばれる警衛隊が詰めているので、元町付近には赤、青、緑、三色の兵士が集まっているわけだ。だがお互い戦いが任務ではなく、それなりの静穏が保たれてはいる。
谷戸坂は昔より道幅も広く整えられていた。居留地と駐屯地を行き来する道でもあるし、港からの物資を運びあげる坂だ。道沿いには日本人の家々が並んでいるが、左手の斜面は雑木林が伐られ、丘の上に建物の屋根が見えた。あそこはフランス山と呼ばれる青隊の兵舎だ。
「往来が増えたんじゃない?」
「赤隊は千人ほどもいますから。食い物を運び入れるだけでも大騒ぎですし、屯所で働く日本人もいます」
「そんなことになっていたんだね……」
弁天がぼんやり引きこもっているうちに、横濱は英仏軍との暮らしに馴染み始めていた。
駐屯地には少しずつ兵舎が建てられているが、足りない分や倉庫は仮の幕舎でまかなわれていた。そこでは総勢千五百名にも及ぶ英仏の兵士たちの生活が始まっていて、掃除洗濯などの下働きは日本人が雇われている。人の出入りは盛んなようだ。
今の横濱でひっそりと行われているのは、兵士の胃袋を支えるための戦いだった。それが西洋野菜栽培と畜産。実は居留地の真ん中でも牛や豚、アヒルなどが飼育されていたりするが、それだけでは足りなくて丘の上には農園や牧場が広がりつつあった。薬師が買ってきてくれた苺も西洋野菜の栽培を試みる外国商社の畑で採れた物なのだとか。
坂を上がると、そこはまったく様変わりしていた。畑だった場所は広場になっていて、奥にずらりと兵舎が並んでいる。
「……この逆茂木はまた、ものものしいじゃない」
「はあ。攘夷の機運はまだ去っておりませんから」
駐屯地をぐるりと囲む逆茂木。西洋の軍がそれを何と称するのかは知らないが、丸太の先を尖らせて柵にしてあるのは砦を囲む防御のそれだ。外国人襲撃事件が続発してからは、居留地の商館ですら周囲に同じものを設置している。
「トワンテ山は、まるでイギリスの山城だね」
「そんなところでしょうか。本丸も天守もありませんが」
「その内建てるんじゃない。見晴らしがとんでもなく良さそうだよ」
弁天が言った「トワンテ山」というのは、このイギリス駐屯地のことだった。駐留軍の中心になっているのが第二十連隊で、英語で「二十」のことを「とわんてい」というのだとか。それが伝わり、横濱の人々はこの丘をトワンテ山と呼んでいる。
山城としてもまだまだ素朴なトワンテ山だったが、門の前には赤い軍服をパリッと着た歩哨が立つ。彼らは弁天のことをじろじろと眺め、あげく、こちらを指差し仲間たちと何かを言い合った。弁天は自分の体を見おろした。
「……我、普通の着物だよね」
「衣裳のままなら日本人だって見とがめますよ。用がないなら去れとでもいうんでしょう」
「まあ見物なんて邪魔だし、仕方がないか」
逆茂木を見るに、ピリピリしているのだろう。つまらなそうにした弁天に、歩哨の兵らから何やら言葉が飛んだ。もちろん意味がわからない。だが厳しい声ではなく、笑顔だった。
「……何?」
弁天が小首をかしげると、さらに兵らが沸く。何となくイラっとして、宇賀は弁天の肩をそっと押した。
「行きましょう」
「うん……?」
よくわからないが歩き出し、弁天は丘の上を右にそれた。このまま谷戸坂を引き返してもつまらない。
丘をたどる道を行けばすぐに異人墓だった。その横の細い宮脇坂を降りれば、実は弁天堂のすぐ裏手に出る。なんて近いのだろう。もう少し遠回りしたくなって、弁天は宇賀の袖を引いた。
「箕輪坂か汐汲坂まで行こう」
「……はいはい。まったく、久しぶりに表に出たと思えば、あなたは」
そう言いながら宇賀だってほんのりと嬉しそうだと弁天は思った。
こうして二人で歩くのは、やはり何だかいい。我がままを言うのも楽しくなって弁天の足取りは軽かった。
丘の尾根には昔からくねくねとした道があるのだが、畑や薮ばかりなので小鳥の声があちこちから聞こえていた。散歩には楽しい、にぎやかな春。
しかし異人墓の向こうの貝殻坂を過ぎたところで馬蹄がいくつか響いた。驚いた鳥が飛び立つのが見えた。
「……馬?」
「こちらに」
宇賀が道の端へ弁天をかばう。こんなところを馬で走るとは、いったい誰が。そう思ったら、現れたのは今度は青い軍服の男たちだった。フランス軍だ。
疾走するわけではなく、軽く駆けていく馬たち。ただの馬の運動なのだろう。彼らはよけている弁天など気にもしないで通りすぎていく。苦笑いで宇賀は教えた。
「……今は、こんなものなんですよ」
「あらあ……」
これはふて寝しているべきじゃなかったかもしれない。弁天は後悔した。たった半年やそこらで、裏山が馬の散歩道になっていたなんて。
居留地だけでなく、山手の丘にまで外国はあふれ、押し寄せて来ていた。
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