開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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文久三年(1863年)初春から夏

第30話 英仏軍駐屯へ

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 この時、江戸に将軍徳川家茂はいなかった。朝廷に呼ばれ上洛し、留め置かれていたのだ。
 横濵で攘夷事件賠償交渉の矢面に立たされていた幕閣と神奈川奉行は、将軍不在も理由にしてのらりくらりと返答を引き延ばしたり決定事項をくつがえしたりしていた。
 それがやっと合意したのとほぼ同時。京にいる家茂に対し横濱・下田・函館の鎖港と攘夷の勅命が下る。
 勅命の存在を伝えられた幕府は賠償期日の朝、支払中止を申し入れた。さすがに激怒したイギリス代理公使ニールは軍艦を江戸湾の奥深くまで動かし威嚇する。弁天が見たのは、その進発だったのだ。

「それはわかった。わかったけど――わからないよ!」

 弁天は頭を抱えて座敷にばたりと倒れてしまった。呆れ顔で宇賀が助け起こす。
 細かい事情を増徳院まで伝えたのは元町名主の石川半右衛門だった。忙しい兄の徳右衛門に頼まれ、弁天へ上申しに来たそうだ。

「……ご不明なところが?」
「それでフランスとイギリスの兵が横濱に居着くことになるのが、わからないの!」

 ムスッと不機嫌に弁天が言い切って、半右衛門は深いため息をついた。その意見には僭越ながら同意する。
 なぜか横濱に英仏軍の上陸と駐屯を許すことになってしまったのだ。居留地防衛のため、という名分だったが、これはもしや大変な不覚ではなかろうか。

 駐屯地となるのは山手の丘の上。その内の最も海に近い、最近の弁天がよく江戸湾を見下ろしていた場所に陣を築くそうだ。
 すでに堀川河口にあったイギリス軍の物資置き場の隣にはフランスの陣屋が建てられることになった。後ろの斜面には階段を造り、丘の上の兵舎と行き来するらしい。
 それは増徳院裏から谷戸坂を挟んだだけの場所で、弁天にしてみれば裏山に軍隊が来るようなものだ。
 先日、梅雨も明けた晴天の下で老中の小笠原長行以下、大勢の幕兵が横濱からイギリスの商船に乗り込み上洛していった。その数、千六百。
 そのあたりの流れが関係しているのだろうが、どういうわけなのかは半右衛門まで伝わってきていない。朝廷の押し付けに文句があるのか。それとも江戸に帰れずにいる将軍を取り戻しに行くのかもしれなかった。ただ、イギリス船を使うのが駐屯を許す見返りなのは間違いなかろう。

「江戸と京の意地の張り合いとかで横濱を巻き込んだんじゃないの」
「さあ、どうですか」

 半右衛門は苦笑いだった。そんなこともあると思う。

「……幕府も困ったんでしょうな、無茶な勅命ではありますから。港を閉じろとか異人は国に帰れとか」
「今さらそんなこと言ってさ。我は横濱村のままでもよかったのに」
「造っちゃった開港場が、そこにありますからねえ」

 外国との商売があるからこれだけの町が入り用なわけで、江戸だけを支える港としては大きすぎよう。攘夷を行えば人も物も去って行き横濱は寂れるだけだ。なのにもう昔の田畑も浜も無くなっているのだから、生きるすべがない。

「異国の船に迫られたら、朝廷も考え直すんじゃないですかね」
「老中は京の都を脅しに行ったってこと?」
「だったら面白いなと」
「また半右衛門はさぁ……」

 弁天はいたずら小僧を見る目をする。だがその微笑みに力がなくて、宇賀の怒りはつのった。

「だとしても横濱に外憂を引き込むとは、なんたることでしょう。まったく腹立たしい」
「これが他所の話なら、宇賀のは気にしないじゃない」
「そりゃそうです」

 当然の顔で宇賀はうなずいた。弁天と横濱が安穏としていれば宇賀はそれでいい。その潔さに半右衛門の顔がひきつった。
 それにしても英仏軍の陣はあまりに近すぎて、宇賀の苛立ちもわかる。屯所を置く丘の上にはもう立ち入ることができなくなっていて、またひとつ、昔からの横濱を踏みにじられたような気分だ。

「やはり徳右衛門を締め上げなくてはなりませんね……」
「ちょっと宇賀の、徳右衛門じゃないよ。せめて神奈川奉行?」
「いえ、大もとを主導したのは老中の小笠原でしたか。今は京に?」
「おやめ下さいって」
 
 情けない顔で半右衛門が止める。
 絞め殺すなどは勘弁だ。この情勢で幕府要人が変死でもしたら、安政以来再びの大獄や暗殺の嵐が吹き荒れるかもしれない。
 その隙に乗じられれば英仏米蘭など各国による日本侵略、占領すらありうる。真っ先にそうなるのは今のところ――この横濱だった。




「ここはあなたの村でしたのに……!」

 谷戸橋のたもとで、宇賀がギリと歯噛みした。弁天はそこで立ち働く土方たちを見やる。行われているのはフランス軍のための土木工事だ。
 あそこは居留地ではなかったのに、もう日の本の横濵ではない。異国の兵らのものになれば、弁天が訪れるのは難しいだろう。
 その向こう側にある横濱の浜は、遠く、遠くなってしまった。

「――あの海は、元より我のではなかったけど」

 踏めなくなる汀は、この間まで横濱の村人たちのものだった。
 網を打ち、かいを操り、海苔粗朶のりそだが並び。海は時に厳しいが、その恵みで人々は生きていた。
 それがどうだ、港が開かれたら村人は浜を喪い、海と切り離される始末。村だった所に異国の兵が住み、ここから日の本のどこかに出撃するのかもしれない。

「――人の子に任せたのは、誤りだったろうか」

 弁天はつぶやいた。哀しげな響きに宇賀が振り向く。だが弁天は微笑みを浮かべていた。

「わかっているよ。人のひとりひとりには力がない。皆、流されながら歩いている」
「はい」
「それを承知で我は見ているだけ――我はどうするべきなのか」

 弁天の目に映るのは、遥か昔の横濱。
 波打ち際を駆ける子ら、そして汗にまみれて働く男女の笑い声が聞こえる気がした。

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