開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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文久三年(1863年)初春から夏

第29話 昔と今と

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 小夜が働く駒ノ屋。店から顔を出した老女は祖母だという。その老女は弁天と宇賀を見て茫然とつぶやいた。

「沙羅さま。宇賀さま……」
「あら、お祖母ちゃんとも知り合い?」

 わななくように震え出した老女の腕を、宇賀はそっと支えた。倒れてしまいそうだったから。そして静かに声を掛けた。

「フミ、ですね。久しぶりです」
「――ああ、フミか」

 弁天も思い出す。
 フミという名の少女に会ったのは、五十年も前だろうか。まだのどかな横濱村の浜辺でだった。あの時は、舟で出たまま帰らないと兄を恋うていたのを哀れんだのだった。
 信じられないという顔のフミの手を取り、弁天は微笑んだ。

「小夜、フミを座らせてやらないと。ちょっと店にお邪魔するね」
「え、ええ。どうぞ」

 わけがわからないまま招き入れる小夜は、祖母のために水を汲みに行った。小上がりに腰かけ、弁天はフミの耳もとにささやいた。

「――我らが変わりなくて驚いたろう。でもフミが元気なのを見られて嬉しいな」
「沙羅さま……」
「おまえの兄は長助といったっけ。残念なことだったけど、フミが子や孫に命をつないだのを喜んでくれているよ」
「本当に、あの時の方なのですか」

 浜で泣いていたのを慰めてくれた綺麗な顔の男女。のちに言われた通りに兄の亡骸があがり、あの人たちは何だったのかと心に掛かって消えなかった思い出だ。フミの目に涙が盛り上がった。

「なんで泣くの」
「……だって。そりゃあ、泣きますよ」

 フミはついと襦袢の袖で涙を押さえた。
 笑って見ている弁天の顔は覚えていたのと同じに優しくて、美しくて、この方はきっと神か仏なのだとフミは思った。自然と手を合わせて拝んでしまう。だが弁天は困り顔になった。他の客が後ろにいるのだ。

「それはおやめ。我はね、ただ皆の暮らしを見たくて時々おもてを歩いているの。だから誰にも何も言ってはいけないよ。もちろん小夜にも」
「はい……はい」

 拝まれる存在なのは否定せずに弁天が言い聞かせたので、宇賀はひと言つけ加えた。

「居留地の弁天社にお詣りしにくいなら、増徳院にもこの方はいらっしゃいますからね」

 それは言外に、弁財天だと名乗ったようなもの。フミはいっそう感激して拝んだまま頭を下げた。

「……お祖母ちゃん? だいじょうぶ?」

 盆に湯呑を三つ載せて、小夜が戻ってくる。見ようによっては具合が悪くてうずくまっているような姿勢のフミだった。弁天はフミの背を軽くさすってやった。

「ちょっとびっくりしたみたいね。我らとは横濱村の頃に会ったことがあって、久しぶりだったから」
「もうお祖母ちゃん、そんなことで?」
「でも我もフミに会えて嬉しいよ。あの頃の浜辺を覚えている者はもう少ないし」

 小夜は祖母に水を飲ませてやろうとしながら、あら、と笑顔になった。

「私だって覚えてるわよ。きれいな浜も、水神さまの杜も」
「――あなたは根岸の人では?」

 怪訝に思って宇賀が横から尋ねる。近隣の村人と結婚するのはよくあること、父母の縁組の時に根岸に出たのだと思っていた。だが小夜はけらけらと笑った。

「違うの、私の家は黒船が来た時に逃げたのよ。母さんが大げさに怖がるから、父さんが根負けしてね」
「あ!」

 そう聞いて弁天は叫んだ。この娘はもしや「根岸の伯父さんちに逃げた小夜」か。

「ねえ、弥助って知ってる?」
「え、ええと横濱村にいた? 中山さんとこの」
「そう! なーんだ……弥助の友だちの小夜ちゃんだったのか」

 思いがけないつながりに弁天は笑った。
 弥助の幼い恋の結末がここで判明するとは。小夜は根岸で出会った又四郎に嫁入りし、その夫にぞっこんなのだった。



 そんなささやかな暮らしのすぐ脇で、軍艦は変わらず港に居座っている。
 梅雨の晴れ間のこの日、弁天は沖を眺めにふらりと寺を出た。もちろん宇賀も付き従う。
 居留地へと番所を通ることはせず谷戸坂を上がった。堀川の岸には河口近くにイギリス軍の倉庫があって、もう海まで行けなくなっている。港や船を見たいなら、高台がよいのだった。
 丘の上には水はけのよい畑と雑木林が広がっていて、端の崖からは江戸湾と、遥かに房総までを望むことができた。

「――今日は小舟が多いような気がするね」
「商いが多いのだとすれば、まだ安心です」

 港を見下ろせば、人や荷物のやりとりは活発だった。商船の出入りは止まっていないし、すぐ戦になるわけではないと玉宥は言っていた。そう伝えて弁天を制止しておいてくれと横濱町総年寄の徳右衛門に頼まれたらしい。信用がないにもほどがある。

「我だって、見守ると言ったからには手出ししないのになぁ」

 苦笑いしてつぶやく弁天だったが、その声には力がない。宇賀は胸がざわつくのを感じた。
 最近の弁天はおかしい――というか、無茶をしなくて心配だ。雨模様のせいもあるかもしれないが居留地に行きたいとゴネもしない。出掛けても元町百段か、この丘に来るぐらい。そしてその度に元気がなくなっていく。どちらにしても昔の横濱村付近を見晴らせる場所だ。
 宇賀は弁天の肩をそっと抱いた。横濱の行く末を案じ消沈する主が痛々しい。

「戦にはならないというのを、信じましょう」
「――ん」

 宇賀の胸にこつんと頭をもたせかける弁天が深呼吸した時、沖からボーオ、と幾つもの汽笛が響いた。出航するのか。動き出す船をぼんやり見ていた弁天は、ハッとなって身を乗り出した。崖に寄るのを宇賀が引き留める。

「――あれは、軍の?」

 港近くの商船ではない、沖の軍艦がゆっくり走り始めていた。どこに行くのかと目で追えば、回頭した船は北を向いた。
 ――その先は、江戸だ。

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