開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

文字の大きさ
上 下
31 / 57
文久三年(1863年)初春から夏

第27話 再会

しおりを挟む

 思った通り、外国の艦隊が姿を見せると横濱の町は大騒ぎになった。春の喜びが吹っ飛ぶ混乱だ。
 元の横濱村に住んでいた者らは、やや余裕ぶっている。ペリーの時も戦になるのかと右往左往したものだよ、などと笑って話していたが、それでも今回どうなるのか内心では戦々恐々だ。
 港が出来てから移り住んだ新参者たちは、もっと浮き足立った。早々に帰郷する連中すらいて、横濱の町は突然の人手不足に見舞われていた。

「大工が……土方が……これくらいの事で逃げ出すとは、根性が足りん!」

 増徳院に来て吠えたのは、石川半右衛門だった。
 一昨年に居留地の普請掛りに任じられ、増大する建設需要に応えるべく奮闘していた半右衛門なのだ。これまでも仕事を請け負いながら中途で逃げ出す大工の取締りに苦心していたのだが、今回のキナ臭さにはとどめを刺されている。
 そんな時なのに増徳院に何をしに来たのか、僧坊の隅に控えて宇賀は首をひねったが――息抜きか。ともに茶をすすりながら、弁天は素知らぬ顔だ。

「そりゃあ前の騒ぎを知らない人にしてみれば逃げたくもなるって。戦に慣れていないからね。泰平の世を築いた徳川さんのせいだよ」
「いやあ……戦ばかりだった乱世の頃だとて、戦の匂いがしたら逃げるもんでしょう」
「だよねえ。さっさと逃げるなんて鼻がきいて良いことだわぁ」

 けんもほろろな弁天の物言い――半右衛門は眉をひそめて考えたが、わけがわからなかった。

「……弁財天さま、何か私に含むところがございますか?」
「おや何を言うの半右衛門――ところで、牛鍋って美味しかった?」
「はい?」

 まったく関係ないことを持ち出されて半右衛門は目を白黒させた。
 でも弁天が感じている半右衛門への引っ掛かりといえば、これしかない。息子平助へいすけに吹き込んだ、牛肉料理のことだ。

「は、はあ。旨かったですが」
「あーあ、いいなー! 我も食べに行きたーい!」
「――だからあなたは少し我慢して下さい!」

 ふにゃふにゃとゴネる弁天と、叱る宇賀。不得要領な半右衛門。
 不穏な横濵の海とはかけ離れた平和な光景だった。



 ところで艦隊集結に困惑しているのは日本人だけではなかった。居留地の外国人らも、実は困窮しつつある。日本人労働者の不足によるものだった。
 外国軍の江戸湾侵入と臨戦態勢。呼応するように攘夷派の緊張も高まり、居留地への襲撃計画が再び立てられたらしい。イギリス側も、江戸湾を封鎖し居留地を要塞として戦う防御計画を策定したりしていた。
 そんな流れの中で、神奈川奉行所は横濱の住民に疎開命令を出す。
 これでは半右衛門がいくら吠えてもどうにもならなかった。工事などは中止だ。だいたい戦で壊れるかもしれない家を建てても仕方がないのだから。
 元町からも大勢が逃げ出したが、関内の日本人の店はもぬけの殻になってしまった。外国人に雇われていた日本人も続々と暇乞いをしていく。
 居留地は、居留民だけでは成り立たないのだ。
 通訳に関してはまだまだ清国人が担っていたが、商館や家の雑務は日本人がこなしている。商品の運搬や居留地への水と食料の供給なども同じくで、それが大挙していなくなった。
 生活そのものが破綻寸前だった。



「――だけどね、又四郎さんは今が稼ぎ時だって!」

 明るい声で弁天に言ったのは、先日の堀川ばたで小舟の夫と話していた女だ。名を小夜というらしい。住民が三割ほどに減った元町の様子を見に行ってみたら、店の前にいた小夜に声を掛けられたのだった。
 一度会っただけの弁天を覚えていて物怖じせず、この時節に朗らかなのもすごい。「だって暇なんだもの」とケロリとした様子に弁天も宇賀もやや呆れた。

水主かこも減っているから旦那の仕事はあるだろうけど……店の方は客がいないでしょうに。小夜は逃げないの?」
「だって又四郎さんと離れたくないし」
「ああ、そう……」
「戦になったら逃げるわ。私ね、足は速いの。又四郎さんと一緒ならへっちゃらよ」

 なんでもノロケにつなげてしまう、この娘の考え方は才能かもしれない。こういうのが幸せに生きていくコツなのだなと宇賀はこっそりうなずいた。

「小夜たちは根岸から来たんだよね。この店を借りたのなら家賃もあるし、旦那は張り切らないと」
「あら、ここは私の伯父夫婦の店なの。伯父さんは横濱村に住んでたから、立ち退いてここをもらってね。私たち夫婦で間借りさせてもらうかわりに私が店で働いてるのよ」
「おや。横濱村の人だったんだ」

 弁天はにっこりした。以前からの氏子が残って頑張っているのは嬉しいが、誰だろう。顔を見ればわかるかといえば、実はそうでもない。お堂や社の内で願いを聞いていることが多いせいで、あまり姿を覚えていないのは申し訳なかった。小夜はぺろりと舌を出して笑った。

「伯父さん伯母さんとお祖母ちゃんは逃げてるんだけど」
「あれ、じゃあ小夜と旦那だけが残っているの?」
「うふふ、二人きりなんて初めてだから嬉しくて」

 昼間は独りになってしまうのだから、そこは怖いとかなんとかないものだろうか。あくまで前向きな小夜を弁天は心配したのだが、残った少数の女同士で助け合っているから大丈夫なのだそうだ。

「あ、ほら、居残り組のひとりよ。キセさーん!」

 大きく手を振って呼ぶ声で上げた顔に見覚えがあり、弁天と宇賀は目を丸くした。いつぞや寺で泣いていた女だった。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

処理中です...