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文久三年(1863年)初春から夏
第27話 再会
しおりを挟む思った通り、外国の艦隊が姿を見せると横濱の町は大騒ぎになった。春の喜びが吹っ飛ぶ混乱だ。
元の横濱村に住んでいた者らは、やや余裕ぶっている。ペリーの時も戦になるのかと右往左往したものだよ、などと笑って話していたが、それでも今回どうなるのか内心では戦々恐々だ。
港が出来てから移り住んだ新参者たちは、もっと浮き足立った。早々に帰郷する連中すらいて、横濱の町は突然の人手不足に見舞われていた。
「大工が……土方が……これくらいの事で逃げ出すとは、根性が足りん!」
増徳院に来て吠えたのは、石川半右衛門だった。
一昨年に居留地の普請掛りに任じられ、増大する建設需要に応えるべく奮闘していた半右衛門なのだ。これまでも仕事を請け負いながら中途で逃げ出す大工の取締りに苦心していたのだが、今回のキナ臭さにはとどめを刺されている。
そんな時なのに増徳院に何をしに来たのか、僧坊の隅に控えて宇賀は首をひねったが――息抜きか。ともに茶をすすりながら、弁天は素知らぬ顔だ。
「そりゃあ前の騒ぎを知らない人にしてみれば逃げたくもなるって。戦に慣れていないからね。泰平の世を築いた徳川さんのせいだよ」
「いやあ……戦ばかりだった乱世の頃だとて、戦の匂いがしたら逃げるもんでしょう」
「だよねえ。さっさと逃げるなんて鼻がきいて良いことだわぁ」
けんもほろろな弁天の物言い――半右衛門は眉をひそめて考えたが、わけがわからなかった。
「……弁財天さま、何か私に含むところがございますか?」
「おや何を言うの半右衛門――ところで、牛鍋って美味しかった?」
「はい?」
まったく関係ないことを持ち出されて半右衛門は目を白黒させた。
でも弁天が感じている半右衛門への引っ掛かりといえば、これしかない。息子平助に吹き込んだ、牛肉料理のことだ。
「は、はあ。旨かったですが」
「あーあ、いいなー! 我も食べに行きたーい!」
「――だからあなたは少し我慢して下さい!」
ふにゃふにゃとゴネる弁天と、叱る宇賀。不得要領な半右衛門。
不穏な横濵の海とはかけ離れた平和な光景だった。
ところで艦隊集結に困惑しているのは日本人だけではなかった。居留地の外国人らも、実は困窮しつつある。日本人労働者の不足によるものだった。
外国軍の江戸湾侵入と臨戦態勢。呼応するように攘夷派の緊張も高まり、居留地への襲撃計画が再び立てられたらしい。イギリス側も、江戸湾を封鎖し居留地を要塞として戦う防御計画を策定したりしていた。
そんな流れの中で、神奈川奉行所は横濱の住民に疎開命令を出す。
これでは半右衛門がいくら吠えてもどうにもならなかった。工事などは中止だ。だいたい戦で壊れるかもしれない家を建てても仕方がないのだから。
元町からも大勢が逃げ出したが、関内の日本人の店はもぬけの殻になってしまった。外国人に雇われていた日本人も続々と暇乞いをしていく。
居留地は、居留民だけでは成り立たないのだ。
通訳に関してはまだまだ清国人が担っていたが、商館や家の雑務は日本人がこなしている。商品の運搬や居留地への水と食料の供給なども同じくで、それが大挙していなくなった。
生活そのものが破綻寸前だった。
「――だけどね、又四郎さんは今が稼ぎ時だって!」
明るい声で弁天に言ったのは、先日の堀川端で小舟の夫と話していた女だ。名を小夜というらしい。住民が三割ほどに減った元町の様子を見に行ってみたら、店の前にいた小夜に声を掛けられたのだった。
一度会っただけの弁天を覚えていて物怖じせず、この時節に朗らかなのもすごい。「だって暇なんだもの」とケロリとした様子に弁天も宇賀もやや呆れた。
「水主も減っているから旦那の仕事はあるだろうけど……店の方は客がいないでしょうに。小夜は逃げないの?」
「だって又四郎さんと離れたくないし」
「ああ、そう……」
「戦になったら逃げるわ。私ね、足は速いの。又四郎さんと一緒ならへっちゃらよ」
なんでもノロケにつなげてしまう、この娘の考え方は才能かもしれない。こういうのが幸せに生きていくコツなのだなと宇賀はこっそりうなずいた。
「小夜たちは根岸から来たんだよね。この店を借りたのなら家賃もあるし、旦那は張り切らないと」
「あら、ここは私の伯父夫婦の店なの。伯父さんは横濱村に住んでたから、立ち退いてここをもらってね。私たち夫婦で間借りさせてもらうかわりに私が店で働いてるのよ」
「おや。横濱村の人だったんだ」
弁天はにっこりした。以前からの氏子が残って頑張っているのは嬉しいが、誰だろう。顔を見ればわかるかといえば、実はそうでもない。お堂や社の内で願いを聞いていることが多いせいで、あまり姿を覚えていないのは申し訳なかった。小夜はぺろりと舌を出して笑った。
「伯父さん伯母さんとお祖母ちゃんは逃げてるんだけど」
「あれ、じゃあ小夜と旦那だけが残っているの?」
「うふふ、二人きりなんて初めてだから嬉しくて」
昼間は独りになってしまうのだから、そこは怖いとかなんとかないものだろうか。あくまで前向きな小夜を弁天は心配したのだが、残った少数の女同士で助け合っているから大丈夫なのだそうだ。
「あ、ほら、居残り組のひとりよ。キセさーん!」
大きく手を振って呼ぶ声で上げた顔に見覚えがあり、弁天と宇賀は目を丸くした。いつぞや寺で泣いていた女だった。
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