開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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文久三年(1863年)初春から夏

第26話 見守っているから

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「弁財天さま、徳右衛門どのから伝言ですぞ」

 お堂にいるところを呼び出され、弁天と宇賀が僧坊へ行ってみると住職の玉宥ぎょくゆうは硬い顔だった。

「しばらく居留地にはお近づきにならぬよう、と書付かきつけをよこされました」
「書付、なの? 徳右衛門が来たわけじゃなくて」

 横濱町総年寄、石川徳右衛門。忙しい身とあってあまり顔も見せないが、弁天に言いたい事があるのなら直接お願いに来るぐらいの筋は通す男だった。なのにどうしたことだろう。
 それほどの時間も取れなくて使いの者を寄越したということなのか。しかも居留地への出入りを差し止めてくるなど、よほどの危険があると案じているに違いない。

「――もちろん、わけも記してあるんだね?」
「はあ」

 玉宥は浮かない顔だった。

「昨年の……生麦村の件は覚えておいでで?」
「当たり前でしょ。イギリスの男を寺に葬ったじゃないの」

 島津の殿さまの行列に下馬しないで突っ込んだ四人のうち、一人が斬られて死んだ事件だ。
 あれ以来居留地では自警団が組まれ、日本人への目が厳しくなるとともに居留民の外出へも規制が続いていた。夜になると沖の軍艦から兵士が上陸し警戒にあたる念の入れよう。賠償や犯人の引き渡しについて幕府とイギリスが揉めているのは知っているが、何かまずいことになったのだろうか。

「江戸は薩摩を御せておらぬゆえ、武力をもってじかに薩摩に物申す、という流れだそうで」
「――ちょっと、イギリスは戦をするつもりなの?」
「まあまずは、戦をちらつかせて脅そうというところなのでしょう」

 イギリスという国がどこにあるのか、どんな力を持っているのか、弁天は知らない。ただ、イギリス人のパンは美味しかった。あのパン屋が敵になるのは悲しいことだ。

「そんな話になっているから異人さんたちが荒れるというのね。まったく、去年の秋からそんなことばかりだよ。今さらでしょうに」
「いえ、それだけではなく……」

 微妙に歯切れ悪く、玉宥自身も腑に落ちない様子だ。嫌な感じがして弁天はもう顔をしかめてしまった。

「……なあに」
「江戸湾に、戦の船が集まってくるのだとか」
「――なんで!?」

 弁天は思わず大声をあげた。薩摩といえば西の西、遠い藩なのに何故江戸湾か。
 だが幕府と外国が何をどう話しているのかなど、玉宥にわかるはずがない。書付を寄越した徳右衛門もどこまで把握しているのか知れなかった。なんでと言われても、神奈川奉行所すら答えは持っていないかもしれない。

「どうやらイギリスだけでなく、フランスやオランダ、アメリカも来ると」
「いや、お待ちを。江戸湾ということは、横濱沖なのでは」
「宇賀さま、鋭い。その通りです」

 褒められても嬉しくない。宇賀は眉間にしわを寄せた。こんなところで横濱にとばっちりが来るとは思わなかった。おそらく幕府への圧力なのだろうが、迷惑千万だ。
 お昼寝が大好きな弁天も嫌そうにする。戦となれば眠ってもいられないだろう。琵琶を弓に持ち替えて、横濱の民を護らねばならないか。

「それはちょっと……波を高くして追い払おうかな、水神くんと組んで」
「いいかもしれませんね」
「お、お待ちを!」

 艦隊を転覆させる気か。好戦的な物言いに玉宥は悲鳴を上げて止めた。

「こちらが何もしなければ、横濱で戦にはなりませんで」
「……そう?」
「そうです! 互いに商ってうまくいっている港をつぶすような真似、異人もしませんでしょうよ。ぜひ見守るだけにしていただきたいのです」

 まだ春先なのに冷や汗をかく玉宥に、宇賀は目を細めた。

「――なるほど。弁財天さまと私を港に近づけたくない、と徳右衛門は言ってきたのですね」
「宇賀さま――」

 玉宥の顔がひきつった。まあつまり、そういうことだ。
 四ヶ国の艦隊が集結するとなれば、その威容はペリーの時の比ではなかろう。しかも薩摩との戦争を辞さないという前提で来るのだから、その高圧的な態度のままに上陸する兵がいるかもしれない。
 そんな連中に出会ってしまえば、特に宇賀がキレかねない。居留地で外国人相手に蛇となって締め上げたりする不可思議はあってはならないのだった。

「信用されていませんね」
「たいへん申し訳なく……」
「それはまあ、不埒な者どもがいれば手加減できませんが」
「いや、そういうことをおっしゃるからですぞ!?」

 今日はわりと下手に出ていた玉宥も、そろそろ言い方がくだけてきた。思いのまま振る舞う弁天と、弁天のためなら何事も辞さない宇賀。そんな二人と何年もやり合ううちに、神仏だとはいえ気安くなっているのだろう。

「まあまあ、わかったよ」

 小さなため息とともに弁天が割り込んだ。別に事を荒立てたいわけではないのだから、徳右衛門の言うことも聞いてやればよいのだ。

「異人さんに手出しはしない。船にもね。我は人の世を眺めるだけにする」
「弁財天さま――」
「だけどね」

 弁天は一呼吸おき、玉宥を見つめた。

「横濱の民に何事もないように、そなたらが何とかするんだよ。ちゃんと見てるから。いいね」

 珍しく神妙な、神々しい口調で言われて玉宥はひれ伏した。
 弁天の目はやさしい。その言葉は突き放したのではなく、大人になった子に言い聞かせるようだった。

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