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閑話 いつかきっと
約束だよ
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「――宇賀の。我は、我はとても悲しいよ」
「弁財天さま、これにはわけが――」
泣きそうな弁天を前に、宇賀は青ざめた。
しんと冷える夜。弁天堂の空気も張りつめて、肌を刺すかに思えた。薄暗がりに揺れる灯りが二人の心のようだ。
「あなたのための、苦渋の判断なのです」
「だけど宇賀の。我にも教えてほしかった。そしてどうするか、一緒に考えたかった」
苦しげに見つめている宇賀の前でうつむき、弁天はポツリとつぶやく。
「入舟町に、とっくに牛鍋屋なんてものができていたなんて……宇賀のが我をたばかるの? ずっと共に過ごしてきた我らなのに」
「たばかったのではありません。時期尚早なので様子をみていたのです。牛の肉はまだまだゲテモノ食いの範疇、あなたのような方が店に行くなど耳目を集めますから」
「でも! 我が食べたがるのは! わかってたでしょ!」
ふい、と背を向けられて、宇賀はほとほと困り果てた。弁天の肩に掛かった浅葱色の領巾が、忠実な従者を拒絶して見える。
話題にしているのは、伊勢熊という牛鍋の店のこと。
居留地でも弁天社にほど近い入舟町にその店ができたのは幾月も前だ。早々に宇賀はその店のことを聞きつけていたのだが、弁天には内緒にしていた。だって、まだ連れて行きづらい。
なのにそのことが弁天に知られてしまったのだった。いったい誰からそんな話を。
外国人が好んで食べる、牛肉。それを日本人でも食べやすい味付けにできないかと熊吉が作ったのが、タレで肉を煮る鍋だった。
味噌を使って甘じょっぱく濃いめの味、ネギを一緒に煮て肉のくさみを消すのだとか。
「弁財天さま……ご存じですか。巷で牛鍋といえば、男どもの度胸試しなんですよ」
味が美味しかろうがどうだろうが、四つ足の肉だ。食べれば獣になるとか、子どもが出来なくなるとか、そんな噂は尽きない。根拠などなくても、そう言われてしまえば牛肉は蛮勇をふるって食すものに成り下がっていた。
「それにです、あの店は元々が居酒屋でして。それだけでもあなたが行けば目立つのはおわかりですね?」
言い聞かせられても弁天はだんまりだ。仕方なく宇賀は、返事を待たず続ける。
「というか、まだ店の半分は居酒屋です。牛肉なんて妙なものを食べさせる店にしたくないと細君が大反対して、牛鍋に全振りできなかったとか。家の中ではまだ喧嘩が続いているそうです」
「……めちゃくちゃ詳しいじゃない」
後ろ向きのまま、つい弁天は反応した。
熊吉という男は、そこまでして何をやっているんだろう。そんなに肉を料理したいなんて、牛に恨みでもあるのかもしれない。それに妻の方も強すぎやしないか。半分になった居酒屋の方を一人で切り盛りしているのだろうが、意地を張るのも大変だ。
「調べたから詳しいんです。私だってあなたをいつかお連れしたいんですから。まったく、どうしてあの店の話を」
「……平助だもん」
「は? 何故あんな子どもが」
「あの子の親は、半右衛門だよ?」
「……ああ」
宇賀は納得してうめいた。玉宥の弟子として増徳院にいる平助は、父親から聞いた話を弁天にしゃべったのだ。
元町で名主を務めつつ、新しい事業に飛び回る石川半右衛門。あの男なら珍しい食べ物を試しに行って息子に自慢するぐらいやりかねない。寺で勉学に励む子に肉食の話を吹き込むのはどうかと思うが。
「世間を知らなければ学問を活かすこともできない、て何でもあけすけに教え込むらしいねえ」
「迷惑な男ですね、今度絞めておきましょうか」
「おやめってば」
宇賀が蛇の本性を現しそうな気がして弁天は振り向いた。
というか弁天、そのうち食べさせたかったと言われてもう機嫌を直している。あんなに泣きそうだったくせに。本当に素直だ。
宇賀はその懐の深さに安堵したのだが、続く言葉に硬直した。
「宇賀の、まさか一人で店に行ったりしてないよね?」
「――は? 私をお疑いですか!」
「んー、だって。詳しすぎるんだもん……」
唇をとがらせ床を人差し指でイジイジとする。
「宇賀のはさぁ。我のためなら、まず自分で安全を確かめてこようとか、しかねないじゃない」
「……しないとは言い切れませんが。していません」
濡れ衣を着せられ否定する宇賀だが、勢いはなかった。いつも弁天のことを思っていると承知のうえの言葉なのだから。
「あなたが喜ぶだろうことを、私が一人で試して来るなど。どうせなら弁財天さまと時を同じくして味わい、ともに驚きたい」
「わかってる。わかってるよ、宇賀の」
弁天は深くうなずく。見つめ合う双方の瞳には信頼と親愛があふれていた。
弁天と宇賀、連れ添って長い時を過ごす二人の間にあるものは、たかが牛鍋ごときで壊れたりしない。
愛おしげに微笑む弁天は、その空気のままサラリと言った。
「――で、いつ行こっか?」
「弁財天さま――」
宇賀は目を閉じて天井を見上げた。油断も隙もない。
「だから、まだ目立つと言ってるんです!」
「そんなぁ。鍋なんでしょ、寒い時期に味わわずして、いつ食べるの!」
「今じゃないです! 冬がいいなら来年以降にしましょう」
「宇賀のの意地悪ー!」
なかなか懐柔されてくれない宇賀に向かって弁天は叫んだ。次の冬まで待てなんて。
だけど弁天と宇賀にとっては一年などほんの少しの時。
いつか、あなたと牛鍋を。
それは違えることのない二人の約束なのだった。
「弁財天さま、これにはわけが――」
泣きそうな弁天を前に、宇賀は青ざめた。
しんと冷える夜。弁天堂の空気も張りつめて、肌を刺すかに思えた。薄暗がりに揺れる灯りが二人の心のようだ。
「あなたのための、苦渋の判断なのです」
「だけど宇賀の。我にも教えてほしかった。そしてどうするか、一緒に考えたかった」
苦しげに見つめている宇賀の前でうつむき、弁天はポツリとつぶやく。
「入舟町に、とっくに牛鍋屋なんてものができていたなんて……宇賀のが我をたばかるの? ずっと共に過ごしてきた我らなのに」
「たばかったのではありません。時期尚早なので様子をみていたのです。牛の肉はまだまだゲテモノ食いの範疇、あなたのような方が店に行くなど耳目を集めますから」
「でも! 我が食べたがるのは! わかってたでしょ!」
ふい、と背を向けられて、宇賀はほとほと困り果てた。弁天の肩に掛かった浅葱色の領巾が、忠実な従者を拒絶して見える。
話題にしているのは、伊勢熊という牛鍋の店のこと。
居留地でも弁天社にほど近い入舟町にその店ができたのは幾月も前だ。早々に宇賀はその店のことを聞きつけていたのだが、弁天には内緒にしていた。だって、まだ連れて行きづらい。
なのにそのことが弁天に知られてしまったのだった。いったい誰からそんな話を。
外国人が好んで食べる、牛肉。それを日本人でも食べやすい味付けにできないかと熊吉が作ったのが、タレで肉を煮る鍋だった。
味噌を使って甘じょっぱく濃いめの味、ネギを一緒に煮て肉のくさみを消すのだとか。
「弁財天さま……ご存じですか。巷で牛鍋といえば、男どもの度胸試しなんですよ」
味が美味しかろうがどうだろうが、四つ足の肉だ。食べれば獣になるとか、子どもが出来なくなるとか、そんな噂は尽きない。根拠などなくても、そう言われてしまえば牛肉は蛮勇をふるって食すものに成り下がっていた。
「それにです、あの店は元々が居酒屋でして。それだけでもあなたが行けば目立つのはおわかりですね?」
言い聞かせられても弁天はだんまりだ。仕方なく宇賀は、返事を待たず続ける。
「というか、まだ店の半分は居酒屋です。牛肉なんて妙なものを食べさせる店にしたくないと細君が大反対して、牛鍋に全振りできなかったとか。家の中ではまだ喧嘩が続いているそうです」
「……めちゃくちゃ詳しいじゃない」
後ろ向きのまま、つい弁天は反応した。
熊吉という男は、そこまでして何をやっているんだろう。そんなに肉を料理したいなんて、牛に恨みでもあるのかもしれない。それに妻の方も強すぎやしないか。半分になった居酒屋の方を一人で切り盛りしているのだろうが、意地を張るのも大変だ。
「調べたから詳しいんです。私だってあなたをいつかお連れしたいんですから。まったく、どうしてあの店の話を」
「……平助だもん」
「は? 何故あんな子どもが」
「あの子の親は、半右衛門だよ?」
「……ああ」
宇賀は納得してうめいた。玉宥の弟子として増徳院にいる平助は、父親から聞いた話を弁天にしゃべったのだ。
元町で名主を務めつつ、新しい事業に飛び回る石川半右衛門。あの男なら珍しい食べ物を試しに行って息子に自慢するぐらいやりかねない。寺で勉学に励む子に肉食の話を吹き込むのはどうかと思うが。
「世間を知らなければ学問を活かすこともできない、て何でもあけすけに教え込むらしいねえ」
「迷惑な男ですね、今度絞めておきましょうか」
「おやめってば」
宇賀が蛇の本性を現しそうな気がして弁天は振り向いた。
というか弁天、そのうち食べさせたかったと言われてもう機嫌を直している。あんなに泣きそうだったくせに。本当に素直だ。
宇賀はその懐の深さに安堵したのだが、続く言葉に硬直した。
「宇賀の、まさか一人で店に行ったりしてないよね?」
「――は? 私をお疑いですか!」
「んー、だって。詳しすぎるんだもん……」
唇をとがらせ床を人差し指でイジイジとする。
「宇賀のはさぁ。我のためなら、まず自分で安全を確かめてこようとか、しかねないじゃない」
「……しないとは言い切れませんが。していません」
濡れ衣を着せられ否定する宇賀だが、勢いはなかった。いつも弁天のことを思っていると承知のうえの言葉なのだから。
「あなたが喜ぶだろうことを、私が一人で試して来るなど。どうせなら弁財天さまと時を同じくして味わい、ともに驚きたい」
「わかってる。わかってるよ、宇賀の」
弁天は深くうなずく。見つめ合う双方の瞳には信頼と親愛があふれていた。
弁天と宇賀、連れ添って長い時を過ごす二人の間にあるものは、たかが牛鍋ごときで壊れたりしない。
愛おしげに微笑む弁天は、その空気のままサラリと言った。
「――で、いつ行こっか?」
「弁財天さま――」
宇賀は目を閉じて天井を見上げた。油断も隙もない。
「だから、まだ目立つと言ってるんです!」
「そんなぁ。鍋なんでしょ、寒い時期に味わわずして、いつ食べるの!」
「今じゃないです! 冬がいいなら来年以降にしましょう」
「宇賀のの意地悪ー!」
なかなか懐柔されてくれない宇賀に向かって弁天は叫んだ。次の冬まで待てなんて。
だけど弁天と宇賀にとっては一年などほんの少しの時。
いつか、あなたと牛鍋を。
それは違えることのない二人の約束なのだった。
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