開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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文久二年(1862年)夏から秋

第24話 駆け乗り見物

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 生麦村での一件は、その後たいそう話題になったようだ。
 外国人だからとなあなあにせず斬った島津を褒めそやす者もいれば、眉をひそめる者もいる。
 だがここ横濱は居留地を抱えていて、そこで商売するために大きくなった町だ。表立って島津を支持する動きはない。
 居留民の方も、すぐにでも島津久光を引き渡せとか報復の部隊を動かせなどの強硬論は下火になった。本国が事件の処理を幕府との交渉材料とすべく動いているのが伝わったからだろうか。
 それでも各国公館と幕府、そして神奈川奉行がぎりぎりのやり取りをしているのは民衆にも感じられるもの。何となく不穏な空気がただよっているのを誰もが感じていた。



「よこはま、かけのり、あきのもよおし。だそうです」

 ぼんやりと揺れる灯り、ぼんやりと寝転がる弁天。そんなお堂の戸を開けて帰ってきたのは宇賀だった。
 持ってきたのは、一枚のチラシ。駆け乗りのやり方が何やらびっしりと書かれている。出場して一等の者にはこれこれの褒美が、などと事細かだった。
 日本人向けに翻訳させたのは主催者の意向だろうか。世話役の筆頭にはオランダ総領事ポルブルックの名があった。居留民と日本人の融和につとめたいのかもしれない。

「にほんのひとびとも、こころざしあるものは、きたりきそふべし。そうなっています。まあ弁財天さまは馬には乗りませんが」
「おや宇賀の。我は駆け乗りを観に行ってもいいの?」
「いいも何も、あなたが行くと言ったら私は従うまでですよ」

 しれっと言われ、弁天はわざとらしく首をかしげてみせた。春の駆け乗りの時には、危ないと反対されて行けなかったのだが。

「あれは、弁財天さまが自粛なさっただけでしょう」
「えええー!」

 ひどい詭弁だ。ちょっとは宇賀の言うことも聞いてやらなければと気を遣ったのに。

「……じゃあ今度は、絶対行く」
「はいはい。ですが観覧席は異人ばかりですからね、席を買ったりしてはいけません」
「それはわかってるよ。周りで観られる所があるのでしょ?」
「まあありますが。異人の男たちの背中しか見えないのではないでしょうか」
「ぐ……っ!」

 馬場の柵の外から立ち見となると、身長が問題になる。弁天は居留地を行き交う人々の体格を思い浮かべた。とてもかなわない。
 どうも宇賀の物わかりがいいと思えばこれだ。弁天をやり込める論法があるからチラシなど持ってくる。宇賀はたまにいこともあるが、基本弁天に厳しいのだった。

「……ひどいよ宇賀の。我をいじめて楽しいの?」
「いじめてなどおりません。何とかして見る方法を考えたんです」
「え」

 パアッと顔色を明るくした弁天に、宇賀は優しい笑みを浮かべた。

「百段からなど、どうでしょう」
「ひゃくだん……遠いよぅ」

 みるみる弁天の眉が下がる。宇賀は心外そうにした。

「遠くても、見えますし安全です」
「そうだろうけど!」

 駆け乗りが行われるのは前田橋を渡った正面の、居留地の一角だ。端には商館が建ち始めているが、まだおおむね空き地だった。浅間神社からなら真っ直ぐ見下ろせる。何なら全貌を把握するには最適かもしれない。

「でも我が観たいのは、人々の熱い息遣いとか、駆ける馬の迫力とかなんだけど」
「ですが馬場近くだと、むしろ馬なんて見えませんでしょうに」
「正論なんて聞きたくない」

 ぷい、とむくれてしまった弁天に、宇賀は余裕の苦笑いだった。
 こんな時、結局弁天は宇賀の正論に従ってくれるのだから。



 その思惑通り、駆け乗りの日に二人は元町百段を登った。秋の日差しはさわやかだが、この急な参道を登ると汗ばみそうな天気だった。
 意外だったのは、同じように遠くからの見物を選んだ元町住民が少なからずいたこと。浅間神社へ続く百一の石段は、上の方から埋まってきている。端だけを通れるように空け、座り込んで見るようだ。弁天たちはそれにならって腰を下ろした。わりと上段に陣取って、弁天はホッと笑う。

「早めに来てよかったねえ」
「人が出ましたね。ですがこのぐらい賑やかな方が楽しいのでは?」
「うん。お祭りみたいだよ」

 どちらかというと祭られる側の弁天が言うのもおかしい。だが弁天が嬉しそうならば、宇賀は何だっていいのだ。言いくるめられてここに来たことなど、弁天は何も気にしていなさそうだった。

「丸い馬場が良く見える。特等席だね」
「そう、ですね」

 遠い、としょんぼりされなくて良かった。宇賀はさすがに吹き出しそうになったが我慢する。蒸し返されるのは面倒くさい。
 本当の特等席は、馬場の前に造られた〈グランド・スタンド〉だろう。ここからだと少し斜めに向かい合っている。走る馬がその前で勝負を決するのだ。

 並んで座り、待っているのも弁天と宇賀の二人ならば何も苦にならない。そういえば、最近はこんなことばかりのような気がした。
 黒船からペリーが降りてくるのも、水兵の葬列も待って眺めたものだ。いや、あれは八年ほども前なのだから、最近と言うべきではないのだろうか。だが弁天たちにとっては、ほんの瞬きの間。なのに横濱村はこんなに変わった。まさか馬が競って走る日が来るだなんて。

「――あ、出てきたね」

 騎乗した面々が入ってきて、馬場をぐるりと回る。それだけで低いどよめきが起こったような気がした。
 馬が横に並ぶ。号砲で一斉に走り出す。
 駆ける地響きとともに、ドスのきいた歓声が空にとどろいた。観客の熱狂だ。
 目は馬の一進一退を追いながら、弁天は馬場に寄らなくてよかったと考えていた。
 宇賀は正しかったのだ。踏みつぶされなくても、この叫び声で耳をやられていたかもしれないから。


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