開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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文久二年(1862年)夏から秋

第23話 生麦事件

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「――なんだか、殺気立っていない?」

 今日も今日とて居留地の散歩につとめる弁天は、チロ、チロと辺りを横目にした。

「そんな気も、しますね」

 宇賀も同意する。今歩いているのは本町通り。日本人町をのぞいての帰り道だ。
 生糸屋の勢いがすごいだの呉服屋は客足が悪いだの、勝手なことを言ってぶらぶらしていたのだが、どうも今日は空気がおかしい。それは外国人町で顕著だった。
 何を言っているのか皆目わからないが、大声で議論する西洋人たちが道端にいる。神奈川奉行所から来たとおぼしき黒い笠の役人もせかせかと通って、弁天は脇によけた。

「何があったんだろう……」

 もう夏も終わりだ。不思議と切ない埃っぽさは毎年のものなのに、今は妙にキナ臭く感じられる。弁天と宇賀は揃って眉をひそめた。

 谷戸橋まで戻り番所で立ち止まった弁天は、とっくに馴染みになっている菜っ葉隊員に尋ねてみた。

「関内が何やら騒がしいけれど、どうしたのかご存知?」
「あ、いや……」

 隊員たちが顔を見合わせモゴモゴ言う。知ってはいるが、言っていいものやら迷っている様子だ。
 弁天は良い家のお嬢さんぶって笑ってみせた。番所を通る時、弁天は石川家の縁者、つまり横濱町総年寄である石川徳右衛門の親戚だと名乗っている。

「あら、困らせたわね。いいのよ、うちで訊いてみましょう」

 口調は薬師を参考にしていた。弁天だってこれぐらいの小芝居はできる。少しの間なら。

「いや、よかろう。どうせすぐ瓦版にもなるだろうし」
「そうだな――生麦村で、島津さまの行列に馬で突っ込んだ異人がおって斬り捨てたとか」
「まあ――島津さまって」
「薩摩さまですよ」

 こそっと宇賀が耳打ちした。
 薩摩藩主の父で「国父さま」と呼ばれる島津久光。江戸を出立し東海道を京へ向かっているところに、乗馬で散策中のイギリス人男女が行き合って下馬しなかったのだとか。

「それはお手打ちにもなりますね」

 聞いた宇賀も呆れてしまった。何故そんな馬鹿なことを。相手が誰だかわからなくても、偉そうな人がいたら事なかれと避けるものだ。

「死んだのは、日本見物に来ていた男が一人」
「横濱に住んでいる人じゃないのね」
「それでも居留民の中には報復をと騒ぐ者がいて、どうおさめたものやら」

 それは慌ただしかったわけだ。
 弁天は知らなかったが、この前に江戸高輪たかなわでイギリス公使館が二度も襲われている。外国公館の安全保障という点で幕府の態度を批判していたイギリスは、江戸の砲台を攻撃するも辞さずという強硬な案を立案中だった。そんな時に起こった一般人殺害事件。
 各国領事、公使としても無策に事を荒立てるわけにはいかない。だが血気盛んな連中が怒り狂うのを抑えるのも難しかった。道端の議論はそのせいなのだ。
 しばらくは成り行きを見守って、居留地へはあまり行かない方がいい。そう隊員に忠告され、弁天はしょんぼりとお堂に帰った。



 島津に斬られたというイギリス人も、もちろん増徳院に葬られた。昨年から外国人墓地と日本人檀家の墓所は分けられているのだが、まだ玉宥ぎょくゆうら僧侶が供養は担っている。
 この頃は麻疹やコロリの死者も減ってホッとしていたが、また微妙にピリピリする被葬者がやってきた。各国領事も駆けつけた葬儀の参列者には、立ち会った奉行所の役人を睨みつけるような連中もいて玉宥はハラハラしたものだ。

「亡くなった後まで騒がれても、落ち着かんでしょうに……」
「そうだねえ。静かに眠らせてやればいいものを」

 僧坊にお邪魔してお茶をすする弁天は、玉宥の愚痴に付き合ってやっていた。
 玉宥がこの寺に来て五年、すっかり慣れて神仏を茶飲み友達扱いするようになっている。それもどうなのかと宇賀は思ったが、弁天が気にしていないので何も言わないことにした。
 こんなご時世だし、玉宥のような世渡りに長けた人物がいた方が良いのはその通りなのだ。弁天のことも薬師のことも、しっかりと世間から隠してくれる。こういう耳目を集める葬儀のある時にはその旨を伝え、出てこないようお願いしに来るのも律義だった。

「みんな気が立っていていけないよ。この横濱に住むのなら、誰でもハマッ子でいいのに」

 のほほんと弁天が言い、玉宥は目を丸くした。さすがの余裕よ。
 だが人の子はせせこましいものだ。外国人たちは遠い東洋の島国まで来て不自由も多かろう。その上仲間が殺されれば苛立ちもする。

「……で気晴らしできればよろしいが」
「え?」
「また駆け乗りをやるそうですわ。前田橋の先で」
「ああ、馬の駆けっこ! 春にやってたやつだね」

 それは、ぐるりと円い馬場を作って馬の速さを競うものだ。西洋で好まれる催しらしく、春に開催された時には遠くまで大歓声が響いていた。田を外国人町用に埋めた場所がまだ空き地になっていて、そこを使う。居留地中の異人が集まったのではないかという盛況を再び、ということなのだろう。

「……今度は観に行ってみない、宇賀の?」
「そんなに踏みつぶされたいんですか」

 にべもなく即答されて、弁天は口をへの字にした。
 面白いことなら何でも気になる弁天。それを守りたい宇賀の配慮はわからないでもない。それにしたって馬も西洋人も大きいのは確かだが、踏みつぶされることもあるまいと玉宥は笑ってしまった。
 宇賀は突き放した物言いをしつつ弁天を過保護にする。玉宥はこの主従の在り方をも面白がれるようになってきていた。
 神仏に対し、いささか慣れ過ぎではあったが。

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