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文久二年(1862年)夏から秋
第19話 元町百段
しおりを挟む「じゃあね、此花ちゃん」
顔を見せない御祭神に言葉を掛け、弁天は浅間神社の境内を出ようとした。
木立の下の涼しい日陰の向こうに、照りつける夏の光が踊っている。杜の中は蝉時雨が降るようだった。
ここは見晴らしのよい丘だ。参道として造られた百一段の石段の上からは、胸のすくような眺めが楽しめる。
左に富士山。前には町となりつつある埋め立て地と華やかな遊廓。右は元の横濱村たる港と居留地だ。視線を上げれば向こうには野毛の山、そして神奈川宿までもがちらりと見えた。
水主頭勘次郎が言い出して造られた、浅間神社への急な参道。
ふもとには朱塗りの鳥居もある。発願から二年がかりで造られた石段は、落成たちまち評判となっていた。
「お手を」
「ん。ありがと、宇賀の」
元町百段と呼ばれるようになったその参道を、宇賀に手を預けた弁天はトントンと軽く下りる。
居留地と元町を分ける堀川はゆるやかに流れ、舟が行き交っていた。正面に架かる前田橋の脇には番所が置かれ、緑の羽織の警衛隊、通称菜っ葉隊が詰めている。その左右に広がる元町にもずいぶんと家が建ってきていた。
「――よくもまあ、こんなに変わるものだね」
上から見渡してみれば、のどかな漁村だった横濱村の砂洲はろくに面影もなくなっていた。
港が開かれてから、まだ三年。たったそれだけの間に浜は削られ波止場ができて、運河によって陸地と切り離された洲干島は本物の島になった。
昨年には下の宮弁天社横の海まで埋め立てられてしまった。そこには今オランダ領事館が建っている。
「あの騒ぎがなければ、あっちにいてもよかったのになあ」
「出来上がった建物は何やら風変わりで面白かったですが。造るまでが、いやはや」
増徳院に菜っ葉隊員が下宿することになって家出した弁天は開港場を満喫していたのだが、隣地で埋め立てが始まったのだ。
そうなると弁天社地にも人が多く出入りする上、土を突き固める掛け声と振動たるや。宇賀は本気で徳右衛門を絞め上げようかと考えた。それをとどめつつ弁天はつぶやいたものだ。
「昼寝もできないんじゃ、増徳院で引きこもる方がマシかも……」
「……あなたにとって昼寝とは何なのです」
そんなに大切かと宇賀は眉間を押さえたが弁天は大真面目だ。毎日のように工事の無事を祈りに来る土方や石工たちを見守ってやりたいのはやまやまなれど、これは無理。惰眠をむさぼりたい想いに勝てず増徳院に戻ったのだった。
だがその後すぐ、菜っ葉隊は元町の隣の石川中村に居を移すことが決まり、弁天はあまり長く引きこもらずに済んでいる。これ幸いとぶらぶらされて、供につく宇賀は苦笑いだった。
しかし今は、笑ってもいられないことが横濱町に起こっている。
「――煙が、ずっとのぼっていたよ」
百段を下りてしばらく黙っていた弁天は、元町の通りに曲がってからつぶやいた。寂しげな横顔は死者を悼むもの。宇賀は隣を歩きながら静かに伝えた。
「焼き場に連れて行っても、だいぶ待たされるそうです」
「そう。そりゃ玉宥たちも忙しそうなわけだね」
増徳院ではこのところ葬儀が立て続けにある。春先から始まった麻疹の流行と、それに追い打つようにやってきたコレラのせいだ。
丘の上から見渡しても、埋め立て地に作られた火葬場からは煙が絶えなかった。焼いても焼いても、死者が運ばれてくるらしい。のどかな村だった頃にはあり得なかった景色だった。
「我はね、何もしてやれないけれど。薬師ちゃんが可哀想」
「あの方にも出来ることは、あまり。人は死ぬものです」
「そう言っちゃうとさあ」
ばっさりと真実を口にする宇賀の態度に弁天は力なく笑った。
弁天も薬師も神仏とはいえ、人の命を永らえさせたりはしない。生き物の理を曲げるなど愚かなことだ。祈られればそれを聞き、苦難に立ち向かえるようにと笑んでやるが、それだけだ。それでよいと宇賀は思うのだが。
「――救いとは、それぞれに違うものだよ、宇賀の」
おだやかに御仏の手を求めた清覚和尚のように皆がなれるかといえば、それは違う。
「――そうですね」
宇賀とてそれはわかっていた。これでも弁天とともに人の世を見てきている。いや、寝こける弁天を残し表に出ることも多かったので、むしろ人の機微には敏い。
「かと言って、ひとりひとりには如何とも」
「薬師ちゃんが心を掛けるのは、死ぬ者だけじゃないから」
忙しく働く元町の人々に柔らかなまなざしをやり、弁天は微笑んだ。
店を開いている家の前では、夏の陽を除ける布が張られていた。重石をくくった紐をピンとさせ、そよ風にはためく色とりどりの布。荒物屋、飯屋、湯屋など暮らしに欠かせない店が続々と出来ている。
だがここに暮らす元の横濱村の民はもう少ない。以前増徳院の檀家だったうちの半数ほどが商うことに馴染めず他所へ移っていた。それが弁天は、少し寂しい。
弁天たちが帰り着いた時に増徳院にいたのは、新しく元町にやって来た住民の一人だった。
本堂への階段でへたり込む女。その横で困り顔の小僧が立ち尽くしている。弁天は気楽そうに声を掛けた。
「どうしたの、平助」
「あ、べ――沙羅さま」
弁財天さま、と言いかけて危うく言い直したのは、玉宥の弟子、平助だった。
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