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万延元年(1860年)初夏
第18話 あなたと
しおりを挟む増徳院に男たちが下宿する。それだけのことが何故あんなに腹立たしかったのか。一晩経って落ち着いて、宇賀は自らの怒りに疑問を抱いた。
黒船の時にも、短期間にしろ寺に武士が出入りしていたのだ。しかも松代藩の四百人。当時はさっさと逃げ出したが、あれも激怒しておかしくない状況ではなかったか。
違いといえば、彼らは藩の統制に従い異国に対するために一丸となっていたこと。むしろ人数が多すぎたこと。あとは宇賀も弁天も、アメリカの船に気が逸れていたことぐらいか。
「――私は、我がままになっているのだろうか」
ゆったりと時に身を任せ――つまり惰眠をむさぼり引きこもる弁天のそばにいるのもいいが、最近は共に出歩くことが増えた。
新しい文物を愛で、珍奇なものにはしゃぐ弁天を独り占めしたいとでも思ってしまったのかもしれない。弁天が他の者の目にさらされるのは何だか嫌だ。特に無作法な男の目は。
他所者などいなかった横濱村。こちらも村人のことは赤子の頃から知っていて、全員が弁天を敬っていた。それとは違う、昨日今日横濱町にやって来たばかりで得体の知れない連中と弁天が接することに不安を覚えたのだと気づき、宇賀は自らの狭量を恥じた。
これでも神のはしくれ。新しく来た民も見守ると決めている弁天に寄り添う身として何たる不覚か。
「私は、まだまだあなたに相応しくない」
独り弁天堂を出て、宇賀は夏に向かおうとする風に身をなぶらせた。今日は谷戸を吹き上げる海風が涼しい。
木陰の濃い境内を出ると、敷地のすぐ横を人足がもっこを担いでゾロゾロ歩いていた。まさに蟻の列。この土は、まだゆるい土地を埋め立てて町の地盤を固めるのに使われる。
元町の大通りを、その埋め固められる太田屋新田を見渡す方まで足を伸ばした。
新田と言いつつ今そこに茂るのは葦。その中ほどに作られたのが港崎遊廓と、そこに通じる吉原道だった。灯籠の並ぶそこだけが華やかに浮き上がって見えていて、周囲は堀で囲われている。
江戸浅草吉原と同じ苦界が横濱にもあるのだ。身を沈めた遊女たちが、港に集まる男たちを日本人も外国人もまとめて受けとめている。そんな場所に、宇賀は興味がないが。
「あなたさえ居て下されば――」
宇賀が想うのはただひたすらに、弁天のことだけ。
いつからそうなのかはわからない。寄り添う蛇神として、いつの間にかそこに在った。宇賀はそういうものなのだ。
「宇賀の」
幻が聞こえたかと思った。振り向けば、置いて出て来たはずの弁天が、たたずむ宇賀の後ろに歩み寄る。
「ずるいよ、ひとりだけ町をながめに出るなんて」
「――申し訳ありません。少し頭を冷やしたいことが」
「宇賀のが我を一番に思っているなんて当たり前でしょ? それでいいじゃないの」
けろりと言って隣に並び立つ。宇賀の考えていることなどお見通しだとばかりに微笑まれたが、ならば少しは気をつけてもらえないかと宇賀は文句を言った。
「そうおっしゃるなら独りで歩かないで下さい。あなたは尊い身です」
「日の本には八百万の御柱がいるんだよ、我ひとりなど大したものじゃないって」
「――私には、あなたしかない」
思い詰めたように絞り出した宇賀の言葉に、弁天は目を見開いた。おかしそうに微笑むが、まなざしは透き通っていた。
「そうね。我らはそういうものだから」
「――はい」
「我は人が愛おしい。人のつくる世は面白いし、変わり行くのを見届けたい」
「――はい」
「人も我を見るであろうけど。我を敬う者ばかりではないかもしれないけど。だけど宇賀のがいてくれるから、だいじょうぶ。我はそう思う」
「――はい」
「もう、はいばかり!」
ベチンと宇賀の背を叩き、弁天はコロコロ笑った。そのまま宇賀の袖を引き、歩き出す。元町を増徳院へと戻っていけば、ここもまだあちこち普請だらけだった。
堀川の岸にがっしりと石が積まれていくのは橋のたもとだ。この横に番所も置かれることになる。弁天はまだ架かっていない前田橋から後ろを振り向いた。
「この橋、目の前の山が浅間さんだよ。渡ったらそのまま石段につながるなんて、居留地から異人さんも来るかしらん。半右衛門たら本当にやり手だね」
町割りを決めて道を通すのに、名主の言う事がどこまで力があるのやら。たまたまかもしれない。
だが元町が寺や神社に詣でる人で賑わえば商いもできるようになるだろう。元の横濱村の民は海と畑を取り上げられて生計に困っているのだ。何か別の生き方を与えてやらねばならない。
「石段を造ったら、港を見下ろしにいらっしゃいますか」
「もちろん。宇賀のも一緒に来るでしょ?」
「当然です」
どこまでもそばに、と言葉にはしないが、そんなことは言うまでもない。
「ねえ宇賀の」
「はい」
「この堀川が出来上がったら、言う通り下の宮に行こうね。我も人目を気にしてはゴロゴロしづらいよ」
弁天はそのゴロゴロを改める気はない。だが宇賀の前でなら行儀悪くしていてもいいのだろうか。主を諌めるべきか宇賀は迷った。
突っ掛けた下駄を軽やかに鳴らし、弁天はつつい、と歩む。身のこなしからは愛嬌があふれているのに、小首をかしげて人のいとなみを慈しむ目には、確かに悠久が映っていた。
ここが田舎道だった時のことは、弁天にはついこの間。そして横濱村の民にとっても、ふるさとはまだ鮮やかに心に刻まれている。
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