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万延元年(1860年)初夏
第16話 実食!
しおりを挟む「さて。ようやく食べられるよ」
増徳院弁天堂に戻って、弁天はふう、と息をついた。富田屋を出てすぐに味見したかったのに、行儀が悪いと宇賀に叱られたのだった。それはそうだ、道端でパンにかじりつく女など人目を引いて仕方ない。
「まあこれが、異国のご飯」
せっかくなのでと誘われた薬師が楽しそうにパンをのぞき込む。ふんふん、と匂いをかいで、何ともいえない顔だ。
「お饅頭、のような――でも甘くはないし。少し酸いけれど、腐っているのではないのね?」
「こういうものだって言ってた」
「ふうん。私たちならお腹を壊したりはしないけど」
宇賀は吹き出しそうなのをこらえた。御仏が異国の食べ物にあたるなどあってはならない。しかも薬師如来が倒れるなど前代未聞だろう。
だが小さく切り分けて、宇賀は毒見をかって出た。念のためだ。
「まず私が、一口」
「いいや宇賀の。せーの、でいこう」
「あらあら、そんなに構えなくてもだいじょうぶよ」
一拍置いた弁天を尻目に、ひょいと薬師がひと切れ口に運んでしまう。
「あーっ、ずるい薬師ちゃん!」
さっさとモグモグする薬師は大らかだ。慌てて追随する弁天にも遅れて、宇賀が結局最後になる。この方々は、と宇賀はいろいろ諦める心持ちだった。
「まああ」
「うん……」
「ほう」
三者三様に口を動かす。中の様子は確かに海綿のように穴だらけで、外側の硬さから思うよりフワフワしていた。口中から鼻に抜ける香りは酸味が薄れ、豊かに香ばしい。
「これは、小麦の匂いなのかしらねえ。噛んでいると甘くなるのはお米と同じだわ」
「……悪くはないけど。口の中が乾く」
「お茶をどうぞ、弁財天さま」
す、と勧められた茶を含みながら、弁天は兵吉に言われたことを思い出した。
「おかずと食べるんだったね。どんなおかずかな?」
「そうだったの。じゃあ煮物とか? お米もぶっかけ飯にしたりするけど、そんな風に食べるのかしらね」
フランスのおかずなど、まったく想像ができない。半右衛門が乗り込んだ黒船はアメリカのものだったが、そこで出されたのは何だったか。
「アメリカでは、汁物と芋と肉と酒を、こういうのと一緒に食べるって半右衛門が言ってた」
「汁物はわかるけど……芋? 里芋……長芋……これと?」
いつも物柔らかな薬師が、さすがに眉根を寄せた。弁天も腕組みしてしまう。
ねっとり、ほっくり、とろとろの芋。そして、パンはもそもそ。どう合わせろと。
「謎は尽きないね――」
とりあえずお茶と一緒に食べた。パンそのものの味は悪くないな、と弁天はうなずく。今後おかずの詳細が判明したら、それと合わせてまた試すことにしよう。すると気のつく薬師が言い出す。
「玉宥たちにも一切れずつ差し入れましょう」
「そっか。もしお腹を壊しても、うちの寺には薬師ちゃんがいるから平気だし」
「あらあ、そんなに信用されても困っちゃうわ。人ってわりと弱いんだもの」
「我らにできるのは見守ることだけだしね」
玉宥たちが聞いたらしょんぼりしそうなことを言いながら、紙に包み直したパンを持って僧坊に行ってみる。中で人の声がしたので裏からそっと入ると、寺に来たばかりな小僧の平助が頭を下げて止めた。
「町会所からおきゃくさまなんです」
すまなそうに言われる。
町会所とは、運上所の隣にある横濱町の役所。総年寄の石川徳右衛門も出仕している場所で、つまり来客はお上からなのだ。
「徳右衛門か誰か?」
「伯父上もいますが、ほかの方がごいっしょなので」
徳右衛門を伯父と呼ぶ、この平助は半右衛門の息子だ。数え七つという幼さながら、頭の良さを見込まれて玉宥のもとで学ぶことになったのだった。
気ままに過ごす弁天たちだが、そうそう誰にでも姿を見せるわけにはいかない。しかもここは寺の内、どう見ても女人の弁天が我が物顔に居ついているのは好ましくなかった。
「そうか、じゃあ退散するよ。宇賀の」
「はい」
宇賀は包みをそっと渡した。
「フランスの、パンというものですよ」
後で皆に、と言っていたら、ざわざわと人の気配が動く。客が帰るようだ。様子をうかがうと座敷が空になる。
勝手知ったる僧坊、さっさと入って待っていたら平助に言われた玉宥が飛んで戻って来た。
「弁財天さま、お耳が早すぎやしませんか」
「……何のこと?」
慌てる玉宥に、弁天たちは首をかしげた。こちとらお裾分けにきただけなのに。その反応で玉宥はしまったと舌打ちする。だがもう遅かった。
「まずいことをやらかしたの? 玉宥」
「い、いえいえ、私は何も」
「でも何かあったんだよねえ?」
さあぁっと血の気が引く玉宥に、これは結構な事があったなと宇賀は瞠目した。
弁天が荒れたら、それを抑える役目は結局宇賀にかかってくるのに。弁天の目はもう冷ややかだ。
「徳右衛門たちは何て? さっさとお言い」
「はあ……」
やや青ざめつつ肚をくくった玉宥は、町会所からの頼まれ事を伝えた。掘っている運河に架ける橋と、そのたもとの番所のことだ。
元町の陸側の端で砂洲に沿って曲がっていく中村川という川がある。その流れを変え、真っ直ぐ海に注ぐようにするのが新しい堀川だ。
運河を掘って、中ほどに前田橋、増徳院の近くに谷戸橋を架ける。元町には二つの橋と番所ができるのだった。
番所を置いて、人と帯刀を改める。ということは番所に詰める者が必要なわけで。
「その者らを増徳院に下宿させることに」
「お待ち下さい」
反応したのは宇賀だった。鋭くなった目が、蛇の本性のまま縦長に開いたように見えて玉宥は息を呑んだ。
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