開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

文字の大きさ
上 下
18 / 57
万延元年(1860年)初夏

第16話 実食!

しおりを挟む

「さて。ようやく食べられるよ」

 増徳院弁天堂に戻って、弁天はふう、と息をついた。富田屋を出てすぐに味見したかったのに、行儀が悪いと宇賀に叱られたのだった。それはそうだ、道端でパンにかじりつく女など人目を引いて仕方ない。

「まあこれが、異国のご飯」

 せっかくなのでと誘われた薬師やくしが楽しそうにパンをのぞき込む。ふんふん、と匂いをかいで、何ともいえない顔だ。

「お饅頭、のような――でも甘くはないし。少し酸いけれど、腐っているのではないのね?」
「こういうものだって言ってた」
「ふうん。私たちならお腹を壊したりはしないけど」

 宇賀は吹き出しそうなのをこらえた。御仏が異国の食べ物にあたるなどあってはならない。しかも薬師如来が倒れるなど前代未聞だろう。
 だが小さく切り分けて、宇賀は毒見をかって出た。念のためだ。

「まず私が、一口」
「いいや宇賀の。せーの、でいこう」
「あらあら、そんなに構えなくてもだいじょうぶよ」

 一拍置いた弁天を尻目に、ひょいと薬師がひと切れ口に運んでしまう。

「あーっ、ずるい薬師ちゃん!」

 さっさとモグモグする薬師は大らかだ。慌てて追随する弁天にも遅れて、宇賀が結局最後になる。この方々は、と宇賀はいろいろ諦める心持ちだった。

「まああ」
「うん……」
「ほう」

 三者三様に口を動かす。中の様子は確かに海綿のように穴だらけで、外側の硬さから思うよりフワフワしていた。口中から鼻に抜ける香りは酸味が薄れ、豊かに香ばしい。

「これは、小麦の匂いなのかしらねえ。噛んでいると甘くなるのはお米と同じだわ」
「……悪くはないけど。口の中が乾く」
「お茶をどうぞ、弁財天さま」

 す、と勧められた茶を含みながら、弁天は兵吉に言われたことを思い出した。

「おかずと食べるんだったね。どんなおかずかな?」
「そうだったの。じゃあ煮物とか? お米もぶっかけ飯にしたりするけど、そんな風に食べるのかしらね」

 フランスのおかずなど、まったく想像ができない。半右衛門が乗り込んだ黒船はアメリカのものだったが、そこで出されたのは何だったか。

「アメリカでは、汁物と芋と肉と酒を、こういうのと一緒に食べるって半右衛門が言ってた」
「汁物はわかるけど……芋? 里芋……長芋……これと?」

 いつも物柔らかな薬師が、さすがに眉根を寄せた。弁天も腕組みしてしまう。
 ねっとり、ほっくり、とろとろの芋。そして、パンはもそもそ。どう合わせろと。

「謎は尽きないね――」

 とりあえずお茶と一緒に食べた。パンそのものの味は悪くないな、と弁天はうなずく。今後おかずの詳細が判明したら、それと合わせてまた試すことにしよう。すると気のつく薬師が言い出す。

玉宥ぎょくゆうたちにも一切れずつ差し入れましょう」
「そっか。もしお腹を壊しても、うちの寺には薬師ちゃんがいるから平気だし」
「あらあ、そんなに信用されても困っちゃうわ。人ってわりと弱いんだもの」
「我らにできるのは見守ることだけだしね」

 玉宥たちが聞いたらしょんぼりしそうなことを言いながら、紙に包み直したパンを持って僧坊に行ってみる。中で人の声がしたので裏からそっと入ると、寺に来たばかりな小僧の平助へいすけが頭を下げて止めた。

「町会所からおきゃくさまなんです」

 すまなそうに言われる。
 町会所とは、運上所の隣にある横濱町の役所。総年寄の石川徳右衛門も出仕している場所で、つまり来客はお上からなのだ。

「徳右衛門か誰か?」
「伯父上もいますが、ほかの方がごいっしょなので」

 徳右衛門を伯父と呼ぶ、この平助は半右衛門の息子だ。数え七つという幼さながら、頭の良さを見込まれて玉宥のもとで学ぶことになったのだった。
 気ままに過ごす弁天たちだが、そうそう誰にでも姿を見せるわけにはいかない。しかもここは寺の内、どう見ても女人の弁天が我が物顔に居ついているのは好ましくなかった。

「そうか、じゃあ退散するよ。宇賀の」
「はい」

 宇賀は包みをそっと渡した。

「フランスの、パンというものですよ」

 後で皆に、と言っていたら、ざわざわと人の気配が動く。客が帰るようだ。様子をうかがうと座敷が空になる。
 勝手知ったる僧坊、さっさと入って待っていたら平助に言われた玉宥が飛んで戻って来た。

「弁財天さま、お耳が早すぎやしませんか」
「……何のこと?」

 慌てる玉宥に、弁天たちは首をかしげた。こちとらお裾分けにきただけなのに。その反応で玉宥はしまったと舌打ちする。だがもう遅かった。

「まずいことをやらかしたの? 玉宥」
「い、いえいえ、私は何も」
「でも何かあったんだよねえ?」

 さあぁっと血の気が引く玉宥に、これは結構な事があったなと宇賀は瞠目した。
 弁天が荒れたら、それを抑える役目は結局宇賀にかかってくるのに。弁天の目はもう冷ややかだ。

「徳右衛門たちは何て? さっさとお言い」
「はあ……」

 やや青ざめつつ肚をくくった玉宥は、町会所からの頼まれ事を伝えた。掘っている運河に架ける橋と、そのたもとの番所のことだ。

 元町の陸側の端で砂洲に沿って曲がっていく中村川という川がある。その流れを変え、真っ直ぐ海に注ぐようにするのが新しい堀川だ。
 運河を掘って、中ほどに前田橋、増徳院の近くに谷戸やと橋を架ける。元町には二つの橋と番所ができるのだった。
 番所を置いて、人と帯刀を改める。ということは番所に詰める者が必要なわけで。

「その者らを増徳院に下宿させることに」
「お待ち下さい」

 反応したのは宇賀だった。鋭くなった目が、蛇の本性のまま縦長に開いたように見えて玉宥は息を呑んだ。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。 甲斐の国、天目山。 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。 そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。 武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。 コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

処理中です...