開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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万延元年(1860年)初夏

第15話 日本人のパン屋

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 パンなる物が食べられると聞いて、弁天はさっそく出掛けてみた。目的地は開港場中心部、運上所のすぐ裏に並ぶ御貸長屋だ。
 そこは外国人商人用の仮家だったが、一画には日本人もこまごました店を出している。港で働く土方や船頭、仲士なかしたちのためだ。一膳飯屋や蕎麦屋、飲み屋が主だったが、その内の一軒がパンを売っているらしい。それは行ってみるしかなかろう。

「異人の姿も増えましたね」

 隣を歩く宇賀が目を配りながら言った。
 港が開かれた頃には横濱に住む外国人など数十人しかいなかったのだが、今はずいぶん目につくようになった。落ちくぼんだ目と高い鼻、たまに肌が真っ黒い者などもいて見慣れない。
 船がひっきりなしに出入りしているので、歩いている彼らが居留民なのか訪問者なのかはわからなかった。運上所の近くにはYOKOHAMA HOTELという宿もでき、町は少しずつ形を成してきている。

 当初の横濱は「神奈川に港をという約束と違う」と各国公使に嫌われていたが、東海道神奈川宿よりも広い土地と波止場があり、商売に便利だと商人たちには好評だった。本格的に商館を建築したいという陳情に公使側が負け、今年からは正式に居留地として認められている。異人町の建設も急速に進んでいた。
 日本人町の本町通りや弁天通りには江戸の呉服屋の支店や生糸商人が軒を連ねる。海岸通りの方は運送業者とその大きな倉庫が並んでいた。開港場には昔のおもかげはあまりない。

「富田屋といったっけ」
「はい。あそこでしょう」

 役宅の威信のためだろうか、御貸長屋は小商いの店も土蔵造りだった。黒漆喰の一階と黒い瓦屋根に挟まれて、二階の縦格子窓だけが白く潔い。外国人に貸し出された店には、弁天がわからない異国の文字の看板が立て掛けられていた。
 その中で富田屋と染め抜かれたのれんをくぐってみると、「いらっしゃい!」と普通に迎えられた。

「こちらでという物を売っていると聞いたのだが」

 宇賀が尋ねると店の男がニコニコと答える。これが兵吉だろうか。

「はい、フランス人に教わった最新の食べ物でさあ」
「それは、どういう……?」
「小麦の粉で作る、あちらの握り飯みたいなもんです」
「うどん粉で、握り飯?」

 よくわからなくて弁天がつぶやく。聞きつけた兵吉が苦笑いした。

「こねた粉を丸めて焼くんです。茹でないんで、うどんとは違った物になります。おかずと一緒に食べるそうですよ。日本人はあまり買っていきませんが、試してみますかい?」
「ほう、異人たちが買うのか」

 それは正しく異国風なのではないか。宇賀が感心していると、兵吉は首を横に振った。

「フランスのパンと同じにはできないんですが、他に食うモンがなくて仕方ないみたいです。異人さんたちも食べ物には苦労してますからね」
「苦労?」
「本国で食べてた物がこっちにはないそうで。肉も野菜も牛の乳も、手に入らないかと血まなこです」

 なるほど、と弁天はうなずいた。キジを撃っていたのは見かけたが、ということは他の肉も食べるのだろう。というか、牛の乳とはまた珍妙な。

「こちらがパンです」

 どん、と丸い塊を兵吉は見せてくれた。盆と懐紙の上に鎮座するのは、焼き色のついた大きな団子か饅頭のような物だ。

「……不思議な匂いだね」
「やや酸いような」

 ふわりと香る初めての匂いに二人は鼻から息を吸い込んだ。兵吉が肩をすくめて恐縮する。

「この匂いが日本人には受けが悪くて。一きんで銀二もんめですし、まあ無理して買うもんじゃありません。異人さん用に作ってますんで、お気になさらず」
「いいや、買ってみようよ」

 きっぱり言う弁天に、宇賀は笑ってうなずいた。そのために来たのだし、このまま逃げ帰るわけにはいかない。二匁といえば大工の日当の半分にもなるが、弁天たちは普段食事などしない。たまにはよかろう。
 財布から銭を出す宇賀に兵吉は頭を下げ、パンを包んでくれた。物好きだと思われているかもしれないが、作っている本人の方がよほど物好きと言える。何故パンを作ろうと思ったのかと訊いてみたら照れ笑いされた。

「小麦をこねた食べ物は日本にはないのかと言われたんですよ。私は父親が菓子屋でして、饅頭を蒸かすみたいにしてみたんです。そしたらこれは違うとフランス人に怒られました。その人は船の料理人らしいんですが、焼かなきゃだめだと。今は焼き芋窯で焼いてます」
「本場のやり方とは違うんですか」
「そうらしいですねえ。清国人の通詞を挟んでやり取りしたんで、ほんとのとこはわかりませんや。でもね、金がたまったら異人の使ってるような窯を買って店を出してみようと思ってます。異人の家とか領事館コンシュルで働いてる日本人は、そう思ってる連中も多いんじゃないですかね」

 そうか。異人の暮らし方や食べ物に直に接している日本人もいるのだと、弁天の瞳が輝く。彼らがきっと、パン以外の店も出してくれるに違いない。そうしたら食べに行こう。
 期待に胸ふくらませる弁天を横目で見て、宇賀は小さく笑った。
 もうこれはとことん試すまで放っておくしかないのだろう。主が満足するまで付き合うにやぶさかではないが、あまり危なくないといいと少しだけ心配だった。

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