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万延元年(1860年)初夏
第14話 異国の食べ物
しおりを挟む好奇心旺盛な石川半右衛門は、六年前のペリー来航の時分にもヤンチャ者だった。当時すでに三十代半ば。とうに落ち着くべき年頃なのに。
「夜中に小舟で黒船に乗り付けたなんてね。無鉄砲もいいところでしょ」
「歓迎してもらいましたよ?」
「アメリカ人も大概だなあ」
上陸地点である横濱村の名主補佐として交渉の席に顔を出していた半右衛門。黒船の中の暮らしに興味津々で、隙をみては清国人の通詞と筆談していたらしい。
「来ればいいじゃないかと言うんで、行っただけです」
「普通は行きませんね」
さすがに宇賀も突っ込む。国と国が丁々発止している最中に何をやっているんだ。
だがそこは半右衛門、下男が必死で止めるのを振り切って黒船にたどり着き、食事と酒を振る舞われた上に土産をもらって帰ってきたのだからとんでもない。
「ペリーには会えませんでしたが、写し絵を渡されました。まあ男の顔なぞ、あまり嬉しくもありませんでしたが」
「……奥さんに言いつけるよ」
「いえ、すみません、女の絵だっていりませんから。あとは扇子にアメリカの文字で書き付けももらいました。これがわからない!」
半右衛門はカラカラと笑う。運上所には通詞もいるので持って行けば読んでもらえると思うのだが、黒船に乗り込んだのがバレてはまずいと見せられずにいるそうだ。
大の男がしょうもないが、何とも憎めなくて弁天は笑った。
「あ、その食事ってどんな? 我も異国の食べ物は気になっているのだけど、なかなか」
外国人町には少しずつ、飲み屋や宿屋ができ始めていた。だが客も店主も外国人ばかり。言葉も通じず、お代を天保銭で払えるのかもわからない。弁天が持っているのはお賽銭として箱に入れられる銭だけだ。
「ああまあ、弁財天さまが異人の店に行くのは目立ちますな。そもそも異人の女性があまりいませんし。今はまだ一攫千金狙いの商人と荒くれ船乗りばかりです」
「ではやはり、禁止で」
「えええー、宇賀の!」
勇を奮って行ってみようかと検討する弁天を宇賀が止めていたのだ。
弁天は美しい女性の姿、万が一にも不埒な真似をされては困る。そんなことがあれば大蛇と化してその異人とそこの店を潰す自信が宇賀にはあった。
それはたぶん、幕府的によろしくない。横濵の町が異国から攻撃されたりするのも宇賀としては避けたいところだ。
「ただの食事なのですから、穏便に済ませられなければ駄目です」
「むう。で、半右衛門が食べたのはどんな物?」
「ええと、ブレドという海綿のような物と汁物、あとは芋と、何かわからない肉でした」
「海綿?」
「それと血のような酒」
「血?」
「どれも旨かったですよ」
どうにも美味しそうには聞こえないのだが、思い出しながら言う半右衛門はケロリとしている。困ったものだなと弁天は肩をすくめた。
「まあ半右衛門らしいと思うけど」
「いや、それほどでも」
「それを褒められたと考えるのが駄目なんだよね。奥さん泣くよ」
半右衛門と妻タカ子との間には子が四人いる。さらに今年も産まれる予定だ。少しは大人しくなればいいのにと弁天ですら思ったが、半右衛門は変わりゆく横濵を前に身がうずいて仕方がないらしい。
「タカはいつも笑っています。昨日も堀川の土運びを見に行って、本当に〈蟻の観音詣り〉だと申しておりました」
元町のすぐ脇では、今まさに運河が掘られている最中だ。
人足が集まり、土を削る者運ぶ者がぞろぞろと。もっこを担いで土砂を運び出す男たちが蟻の行列のようだと女子供に評判だった。
川を掘るすぐ脇に観音堂があり、人足の行列は俗に観音詣りと言われている。
「……まあ楽しく過ごすのが腹の子にはよかろうけど」
「子らとタカを笑って暮らさせるために、私はしっかり稼ぎますので」
「今度は何をする気かな?」
呆れる弁天に、半右衛門はあっさり言った。
「私がやるのではなく、町を造りたい者に金を出そうかと」
「……金貸しか」
「目端のきく連中が横濱に集まっているんですよ。並んで競うより、町に役立ちそうな事を選んで伸ばしてやるのがいいと思いませんか」
元より富裕な名主の家だ。地元の名士とあり、地方から参入しようとする商人や諸藩から協業、出資の話が引きも切らないらしい。
「へえ。それは重畳だね」
「こうなれば横濱を世に知れた港にしてみせますから、どうぞそれでご勘弁を」
「……世に知られてからも、皆が笑っていられるようにするんだよ」
真面目な顔で念を押した弁天に、半右衛門は深々と頭を下げた。そんなことは百も承知だが、鎮守である弁財天が見守っていてくれるとあれば心強い。
辞そうとした半右衛門はふと思い出して報せた。
「運上所裏の御貸長屋に富田屋という店が入ったのですが」
「うん?」
「そこの兵吉という者が売り出したパンなる物が海綿のような食い物だと聞きました。私はまだ食べておりませんが、ブレドと似た物かもしれません。フランス船の料理人に習ったという触れ込みでして」
弁天は目を輝かせて乗り出した。
「ではフランスの食べ物なんだね」
「そういうことでしょう。あそこなら日本人がやってますし、弁財天さまも立ち寄れるのでは?」
「でかしたよ、半右衛門!」
立ち上がった弁天は、半右衛門の月代をよしよし、と撫でてやった。
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