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安政六年(1859年)夏
第12話 旅立ち
しおりを挟む近頃の弁天は、清覚が寝ついている部屋にやって来て無駄話をすることがある。今日もそうだ。もちろん宇賀も黙って斜め後ろに控えていた。
「ケチとおっしゃいましても」
ロシア人の葬式を見られなかったとこぼされたのだが、清覚は何を言われてもホ、と小さく笑って聞いていた。弁天はただ傍らにいてやろうと訪ねているだけだし、清覚もそうとわかっている。穏やかな時がそこにあればいいのだった。
「玉宥はケチではありませんぞ。金の遣い所を知っておりますからの」
「まずはドンと薬師堂に突っ込むんだもんね。そのうち大黒くんとか布袋くんあたりを勧進するのではない? 我よりも頼りになるとか言って」
「そのように拗ねなさるな」
弁天とて冗談で言っているのだが、どうにも愛らしい。女児を見るように感じる清覚は自分が老爺になったのだとしみじみした。若い頃には弁天のことを「なんとまあ綺麗な女人か」とときめいたものだが。そう考えると寺の内を弁天がうろつくのは修行の邪魔かもしれない。
だがもう清覚にはそんな気持ちはない。ある意味悟ったのか。とても平らかだった。
この世の何もかもが愛おしいが、ただ愛でていればそれでよい。すべての執着を置き去った心持ちがするのは修行の賜物などではなく、身近に在られた神仏のご加護だろうと思う。間もなく旅立つ身を慈しんでか、こうして常よりも顔を出してくれるのも身にあまることだった。清覚はそれに少し甘えた。
「他に、何ぞ異人さんたちの話はありましょうか」
「そうだねえ」
清覚に水を向けられ、弁天はにこにこと話し出す。
「この頃は彼ら、元村にも来るでしょう。何が面白いのかと不思議だったんだけど、この間、箕輪坂を下りてくるのに出くわして」
「ほう。山の上まで行くのですな」
「それが手に、キジをぶら下げてるの。鉄砲を担いでてね。鳥を撃ちに行ってたみたいだよ」
清覚は目を丸くした。
「異人さんもキジを食べますかの。キジは異国にもいるのでしょうか」
「さあね。鳥なら何でもいいのかも」
元村に添うように連なる丘は、村人の畑と雑木林と藪になっている。さまざまな鳥や狸が棲んでいるはずで、そんな狩り場をさっそく見つけるとは異人もなかなかやるものだ。
弁天たちは知らないが、この時異人たちは日本で新鮮な肉が手に入らず泣いていたのだった。かろうじて少しいる牛は役牛で、ここらに豚は飼われていない。彼らが精を出すのは遊びの鳥撃ちではなく、食べるための実益の狩猟なのだ。
船で持ち込んだ干し肉や塩漬け肉には飽き飽きだ。居留地の店には鳥類も並ぶが、どうせなら自分で獲ってもいい。元村の上の崖は鳥の宝庫として各国の商人に有名だった。
「どうやって食べるのかなあ。我も異国の物を食べてみたい」
「弁財天さまは好奇心旺盛でいらっしゃる」
「おや、清覚は食べたくない?」
清覚ははて、と考えた。
「殺生はいたしませんが……豆や野菜も日の本とは違うものなので?」
「さあ、どうだろう。きっと料理の仕方が違うんじゃないかと思うんだ。店を出してくれないかな、我が買ってきたら清覚にもつまませてやろうね」
「あらあら、弁天ちゃんは食い意地が張ってるわ」
言いながら顔を見せたのは薬師だった。こちらも清覚の様子を気にしてしばしば訪れている。こんなに恵まれた病人もそうはいるまいと清覚はむしろ困っていた。頂いたものを来世で返しきれるだろうか。
「えー、薬師ちゃんは興味ない? 音曲も服も全然違うんだもの、食べ物だってきっと面白いって」
「面白いのと口に合うのは別だからねえ」
ふふふ、と微笑む薬師は清覚の額に手をかざす。それだけで体の強ばりがとれ、ふと楽に眠れる気がした。薬師の顔は柔らかく優しく、この御手にすべてをゆだねればよいのだと思えてくる。
「清覚はもう、慣れぬ物は口にしない方がいいのよ」
「そうか。お腹が驚くね」
「では、そういう面白い食べ物は、次に生まれるまで待つといたしましょう」
清覚は淡々と輪廻にのぞむつもりだ。ここにいる誰もがそれを当然のこととして、哀しみはどこにもない。
食べられない物が増え、できないことも増え、それはまるで赤子に戻るよう。御仏の元に行くだけなのだから、待ち遠しいくらいだった。
「弁財天さま」
「ん、なあに?」
清覚は一つ、お願いしてみることにした。
「弁財天さまの琵琶をお聴かせ下さいませぬか」
そんな天上の音色を所望するなど不遜なのだが、浅からぬ付き合いに免じて。とはいえそう思うのは人間である清覚の方だけで、弁天にとっては数十年などまばたきのようなものだが。
「ん。いいよ」
それでもあっさりうなずいて、弁天は手のひらを合わせた。スウと開くと、そこには愛用の琵琶が現れる。
弁天は撥をかまえ、ルリルリと弦を鳴らした。清らかな音が室内を満たし、清覚の目が潤む。そう、雨垂れと木魚とこの琵琶を合わせたこともあった。
ひなびた海辺の村と村人に交わり小さな寺を守ってきた清覚は、僧侶としての位もないようなもの。それが自分のために弁財天が琵琶を奏でてくれるなど、果報が過ぎて空恐ろしい。ありがたくてありがたくて胸が詰まる思いだった。
それから数日後、清覚は静かに息を引き取った。
秋風の立つ、のどかな日だった。
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