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安政六年(1859年)夏
第10話 建立するのは
しおりを挟むある日、玉宥に呼ばれた弁天が清覚の部屋に行ってみると、そこには薬師も来ていた。
清覚の具合が悪くなったのかと思ったが、部屋の主は顔色もよく落ち着いている。何用だろうね、と弁天はその枕元に座った。
「弁財天さま、薬師さま、お集りいただきまして恐縮でございます」
口火を切ったのは玉宥だった。この集いの言い出しっぺだ。
「実は、まず薬師堂を建立したいと思いまして。お住まいを騒がせることになる皆さまにお許しをいただきたく」
「――は? 薬師堂を?」
弁天はぽかんとした。最近の玉宥が悩んでいたお堂の再建とは、寺の本堂のことではなかったのか。薬師本人も聞いていなかったようで首を傾げている。
「私のお堂を、とは――それはまあ、かしいでいるほどだし、そうしてくれるなら嬉しいけれど」
「また大きな地震があって崩れてしまっては一大事ですから」
境内にはいくつかの建物がある。本堂に庫裡、僧坊。それに弁天堂と薬師堂、お地蔵さまだってひっそりと立っていた。つまり村人が敬う何でもかんでもを持ち込んでしまったのが増徳院だ。村に一つの寺などそんなものだった。
その中でまず薬師堂をと玉宥が決めたのには理由があった。
「建物がもう危ないというのもありますが、やはり薬師如来さまは現世での絶対的ご利益がございます。人が増え、病が流行りやすくなっている今の横濱村、元村で求められているのは、おすがりできる薬師さまかと」
滔々と述べたてられて弁天は唖然とした。当の薬師はふむふむとうなずき、ふと頬にやる手を施無畏印にしながらため息をついた。
「本当に。コロリには皆、怖れをなしましたからね」
「左様でございます。その他にもタチの悪い風邪を引いたと言っては薬師堂、腹が痛むと言っては薬師堂。こうなると今にも壊れそうなお堂のまま放っておくことはできません」
「ちょ、ちょっとお待ち玉宥。我だって水主や船の荷主たちから篤い帰依を受けているんだよ?」
弁天はとりあえず自分にもご利益はあると主張してみた。風浪を治めんと海辺水辺に祀られる弁財天として、そこは言っておきたい。
「船だけじゃないしね。海に波止場だの台場だのを築くものだから、今は石工や大工まで我に祈りに来る」
「おかげさまで寄進も頂いております」
玉宥はうやうやしく手を合わせ頭を下げた。
港を開くにあたり、水辺での工事も多かった。砲台を置く神奈川台場や、開港場の波止場と岸。海を拓く者たちは、波が穏やかであれと弁天を頼る。
「港になったんだから、まだまだ船の出入りが多くなるしね。そうしたら弁天堂に詣る者だってわんさかだよ」
「そうでもありましょうが、今ぜひにと言われておりますのは薬師堂の方でございまして」
「ええー」
弁天はぷうと頬をふくらませた。弁財天の存在意義を問われたような気がして、納得いかない。
「我だって村の鎮守なのに」
「弁天ちゃんたら。それはあなたは浜の守りだけどね。でも今、慣れない暮らしに倒れる者も多いのよ」
「だって薬師ちゃあん」
だってじゃない。そんな言い草だから尊崇を集められないのではないかと宇賀は思ったが、それを言うと本気でへそを曲げそうだ。主の立場をなくすわけにはいかないので、控えめにたしなめてみた。
「弁財天さまにすがる者も多いのは真のこと。なれど波と離れた暮らしをする女子供はまず薬師さまにお詣りしたいものですよ」
「その通りですなぁ」
寝ながら話を聞いていた清覚がホ、ホ、とおかしそうに笑った。つい少女のように我を張ってしまう弁天を愛おしげに見る。
「こんな寝ついた爺にも、あると嬉しいのは薬師さまのご加護ですからの。弱き者をお救いくだされ、弁財天さま」
「――ん。そりゃもちろん、そうするけど。我だって薬師ちゃんちの隙間風は気の毒に思ってたんだ。あれはすぐにでも直した方がいい。だけど清覚、普請をするとうるさくなるからね。ゆっくり眠れないと体に響くよ?」
「なに、すこしくらい賑やかなのもいいものですわい」
清覚はいたずらっぽく玉宥に目をやった。彼ならば揺れるご時世にも寺を守ってくれるに違いない。
「この玉宥は参拝者を増やす考えに長けておるで。そこは頼ってやってくだされ、皆さま方。先立つものができましたら、弁天堂も直せましょう」
「ううん、我のところはまだしっかりしてるからいいってば」
さっき反論していたのは新しいお堂がほしいからではない。神仏としての本質的な話だ。それが拗ねているだけのように見えてしまう弁天の可愛らしさに、清覚は目を細めた。
若くして増徳院に来てもう何十年だろう。こうしてのほほんと過ごしてくれる弁天たちのおかげで、ずいぶんと楽しかった。現世にあるうちに御仏の手のひらを感じられるとは何と過ぎた幸せか。
「それでは、薬師堂の次には本堂を再建してもよろしいですかな? 少しばかり雨漏りが」
「まあ玉宥、そうなの? なら私のお堂より先に本堂を」
「いえ、本堂を建てるほどの金子はまだございませんで――弁天堂を立派にしますれば、きっとお布施も寄進も」
「こら、金の亡者になってはいけないよ!」
神仏と跡継ぎの住職がやいのやいの言い合うのを聞き、もうすこし彼らの行く末を見ていたいものだと清覚は思った。
――もうだいぶ生きたし、贅沢ではあろうけれども。
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