開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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安政六年(1859年)夏

第9話 寺門隆盛

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 開港場の弁天社から戻った弁天と宇賀は、古びた竹垣と門を通り過ぎて増徳院ぞうとくいんの境内に入った。

「おや、お早いお帰りで」
「ただいま、玉宥ぎょくゆう

 ちょうど外にいて迎えてくれたのは壮年の僧侶。この玉宥は本寺である宝生寺ほうしょうじから、若い僧たちを連れて移ってきていた。開港場目当ての移住者のおかげで檀家が激増し、手が足りなくなったからだ。
 そしてまた、これまで細々と寺を支えてきた清覚せいがくの体調がすぐれないからでもある。住持の職を玉宥にゆずり療養する老僧の容体を、さすがの弁天も気にした。

「清覚はどうしてる?」
「弱ってはおいでですが、痛み苦しみなどはないとか」
「そこは薬師やくしちゃんの加護かもしれないね」
「……弁財天さまも薬師如来さまも、こんな風に顕現されていらっしゃるとは……ありがたいことですが、ここに来た時は仰天しましたぞ」

 玉宥は苦笑いする。おとなしく祀られていない本尊など初めて見た。実は、と先任の清覚に引き合わせられて腰が抜けるかと思ったものだ。

「あはは、ごめんてば」
「――それ、その軽さが何とも」

 情けない顔をされるのは、やはり神仏としての威厳が足りないと思われているのかもしれない。
 だが人の世をながめるのは面白い。見ていれば、たまには人とも話してみたくなる。身を明かすのは限られた相手だけにしているが、それで騒ぎになるようなことがあれば数十年引きこもればいいと思っている弁天だ。どうせ人など、それぐらいの時が過ぎればいろいろなことを忘れてしまうから。
 誰かに思いを掛けても、人の生は疾く過ぎ去るのが必定。だからこそ一歩下がっているのに、軽いと言われるのは心外だった。そこは宇賀が言い添える。

「この軽やかさこそが弁財天さまですから」
「宇賀さま……後学のためお聞かせ願えればと思いますが、ご本地ほんじを含め弁財天さまというのはこういう御方なのでしょうか」
「……そうとも言い切れません」
「こら宇賀の! 我が変わり者みたいに言わない!」

 弁天はぷんぷんしながら境内の端にある弁天堂へ戻っていった。そっと頭を下げる玉宥に目礼し、宇賀は何も言わずに付き従う。弁天も本気で怒っているわけではなかった。
 お堂で姿を衣裳きぬもに戻した弁天はひょいと片膝を立てて座った。最近の着物はこれができないから好きじゃない。正座なんて疲れるじゃないか。
 対して宇賀は着替えるわけではなかったがストンと胡坐をかき着物の裾を脚の間に突っ込んだ。男の身ならそれができるし、弁天の前で堅苦しくすることもない。
 主従として過ごしているがずけずけと遠慮のない宇賀は、正直なところを伝えた。

「あなたはあなただから、良いのです。どうぞ思うようになさっていて下さい」
「――わかってる」

 つーん、と答える弁天を見つめる宇賀の瞳は穏やかだった。
 二人が落ち着いたのを見計らうようにホトホトと戸が叩かれた。薬師の声が弁天を呼ぶ。

「――おかえり、弁天ちゃん」
「あれえ薬師ちゃん、何かあった?」

 戸を開けて勝手に入ってきた薬師は口もとだけで微笑みながらふわりと座った。
 男のような大きな体、豊かな肉置ししおき。頭頂で丸くまとめた髷と、低く柔らかな声。男でも女でもない姿は、どう見ても薬師如来でしかない。寺に来てみたらこんな御方がいた玉宥たちの驚きはいかばかりだったろう。

「こちらは何があったわけでもないわね、清覚は日々弱っているだけだし。人が集まる分、開港場で妙な病なんて出てないか心配になっただけよ」
「ああ、みんな元気に働いてたよ。風邪や小さな怪我ぐらいはあるけど」
「そう。去年のコロリほどのことにならなければ、もういいわ」
「あれはずいぶん人死にが出たよね」

 三日でコロリと死んでしまうと言われた、コレラという病。去年、江戸で大流行した。港を開くことが決まった横濱も人の往来が増え、それに巻き込まれたのだった。
 この数年は大きな地震も続いたし、人の心は揺れている。開国開港などするからだと幕府に対する不満も噴出しているようだった。
 だが、しょせんここは漁村をやめたばかりの横濱村だ。天下国家を論じる気はない。ただこの土地に暮らす者たちの安寧が、弁天や薬師の願いだった。

「新しく来た人々も、私たちの民ですものねえ」
「うん。皆まとめてドンと来いだよ」

 増徳院がある丘裾も横濵村だったのだが、今は元村と呼ばれている。ここいらも移住して来る者が増え、増徳院の檀家となり、境内にある弁天堂や薬師堂にお詣りする人の数もうなぎ上りだった。
 玉宥が「寺門隆盛の好機!」と鼻息荒くしていたが、その気持ちはすごくわかる。今まではとにかく寂れた寺だったから。

「なんだかお堂の建て直しをしたいって言ってたわ。だけどどこもかしこも傷んでるし、どこから手をつければいいやら、て」
「あ、それで表をウロウロしてたのか」

 上を向いていたのは空を眺めていたわけではなく、屋根の修繕に悩んでいたらしい。薬師は静かに言った。

「だけど――清覚を落ち着いて送ってやってからかしらね」
「そうだね。普請してる中じゃおちおち寝てられないよ」

 威勢のいい声と槌音が響いていた開港場を思い出し、弁天も微笑んだ。
 長くないだろう清覚のことは、そっと看取ってやりたかった。

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