開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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閑話 いい音色だね

ここで一曲

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 細かい雨が降りしきっている。木々の幹まで黒く濡れる中、宇賀と一つの番傘に入った弁天は増徳院ぞうとくいん僧坊に顔を出した。たまには雨を感じるのもよいものだ。
 上がりかまちで水を払う宇賀の横で、弁天は藪から棒に清覚せいがくに訊いた。

「ねえ、もうアメリカとやらの船は来ないのかなあ」

 横濱村をあげての大騒ぎの末にペリーは江戸湾を去っていた。
 弁天も総鎮守として村の無事に安堵したものの、つまらなく思うのも正直なところ。だって、結局異国の楽器には手を触れられなかったから。

「いや、そんな話はどこからも聞いておりませんが」

 暇つぶしに来ただけの弁天に律儀に返答し、清覚は引っ込む。雨漏りし始めたので、少し急いでいるのだ。いくつも皿や桶を持ってうろうろするのに弁天はついていった。
 今朝からしとしと降り出した雨。昼を過ぎればもう水が漏る。いつも雨が垂れる数ヶ所に桶を置き、このままでは屋根が腐れてしまうと清覚はため息をついた。まだ梅雨のはしりだが、これからどうしたものか。

「黒船などより古家の漏りの方が恐ろしいですわい」
「ふふ。寝ている時に顔にピチョンときたら悲鳴を上げるね」

 弁天はおかしそうに言うが、暮らしている清覚にしてみれば笑い事ではない。気の毒そうに宇賀が後ろから口を挟んだ。

徳右衛門とくえもんにでも寄進をお願いしては。僧坊の屋根ぐらいなら大したこともなく直せましょう」
「そうだよ、この間はさんざん間借りさせてやったんだから、それぐらい」

 黒船がいる間、警護する松代藩の本陣となった増徳院だ。おかげで弁天が下の宮に逃げ出す騒ぎになった。

「ああいえ、そのぶんの金子きんすはお奉行さまより頂いております」
「なんだ。ならそれで直すといい」
「はあ。ですが貯めておかねば、そのうち本堂もあやしくなりそうで」

 眉を下げて清覚は言った。自分が濡れるのも困るが、本堂に桶が並ぶのはもっといただけない。だが弁天はケロリとしたものだ。

「先のことを考えても仕方がないよ。迷ううちにここが崩れて清覚がつぶされてしまったらどうするの」
「ひどいことを仰いますなあ」

 清覚は苦笑いだが、言い方はともかく気づかってくれているのはわかった。まずは今の問題を何とかするべきだとの助言には、ありがたく従うことにしよう。順調に雨は屋根を傷めているのだから。

 ピチン。
 ポトン。
 パタン。

「……なかなか面白い音じゃない?」

 桶の底を叩き、少しずつ水が溜まり出す。耳をとめた弁天は、ふふ、と微笑んだ。清覚が目をぱちくりする。

「弁財天さまは雨漏りなどご存知ありませんかな?」
「そうだねえ。我はこれでも神仏だし、大事にされてきたんだよ」

 神の社。仏のお堂。どちらにあれど村人の祈りを集める弁天だ。雨漏りの憂き目に会ったことはない。
 弁天は垂れてくる水滴と桶の中とを楽しげに見比べた。ふわりふわりとしたその足取りで、身の内にがくが溢れてきたのではと宇賀が危惧したとたん、弁天はクルと振り向いた。

「うん。清覚、木魚をお持ち」
「は?」
「木魚。ぽくぽく鳴らしてよ」

 そう言うと弁天は手のひらを合わせる。スウと開くと、その腕に琵琶が抱えられていた。
 ばちを握り、ベン、とひと鳴らし。
 宇賀が眉間を押さえて通訳した。

「申し訳ありません清覚和尚。弁財天さまは雨垂れに合わせ奏でるおつもりです」
「ほう、それはありがた……え、私に木魚で加われとおっしゃる?」

 天上の音色を聴けるとの喜色から一転、清覚は青ざめた。自分も木魚は叩くが、それは読経。楽の心得ではないのだ。

「いえいえ、私など不調法者で」
「そんなことないよ。いつもの調子でやっちゃって!」

 弁天は言い切った。勢いに圧された清覚は木魚を取りに飛んで行く。
 考えてみれば弁天は元々川や水の神。雨垂れとは仲良しなのだった。水滴が拍子を取ってくれるとあらば、合わさいでか。

 タン、ポチョン、と落ちてくる水音。弁天はルリリリと弦をはじいた。
 主の気まぐれに呆れ気味の宇賀だったが、琵琶の音には心なぐさめられた。隅に控えて聴く体勢になる。

「木魚、とはちも念のため持って参りましたぞ」

 あたふたと戻ってきた清覚が差し出す仏具に、弁天は思案顔になった。

「うん、いいね。宇賀の!」

 ――唐突なとばっちりに、宇賀は目を剥いた。鈸担当のご指名だった。

 ベベン。ルリルリリ。
 ぽくぽく。
 ポタポタン。
 バジャアァン。

「ふうむ。これは面白いよ、いい音色だね」

 ……どこがだろうか。
 冷や汗の清覚と虚無の境地に至った宇賀を付き合わせ、弁天の楽の追及はしばらく続いた。


 ※鈸はシンバル状の仏具です

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