開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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嘉永七年(1854年)春

第5話 薬師如来

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 下の宮弁天社に現れた、増徳院薬師堂の薬師如来やくしにょらい
 ふう、とひと息ついて胡坐をかく姿が神々しいのはもう、長年にわたり身に染みついている気配とでもいうべきか。ふと頬に寄せる右手が施無畏印せむいいんになり、しかも薬指だけ曲げがちなのは癖なのでどうしようもない。

「弁天ちゃんったら、別宅に行くなら私も誘ってくれればいいのに。冷たいわ」

 薬師は低く柔らかな声で文句を言った。大きいが、男でも女でもない体。仕草と言葉はなよやかに優しい。衆生しゅじょうを癒したいと願う心の具現だ。
 誘えと言われ、向かい合ってぺたりと座った弁天は首をかしげた。

「薬師ちゃん、お出掛けしたかった?」
「そうじゃなくて、お寺が騒がしいのよ」
「こもって寝てればいいって、清覚せいがくが言ってたじゃない」
「寝ていられないぐらい、人の出入りがあってね」

 これまでは静かな村の寺にすぎず、弁天などはしばしば惰眠をむさぼっていたものだが。
 この数日は松代藩の兵らがガチャガチャと歩き回り、近くにこしらえた厩では馬がいななき、落ち着かないことこの上ない。しかも明日には異人の葬式までするのだとか。

「え。黒船の人の?」
「そう。船で亡くなった兵がいるんだそうで、増徳院の墓地に葬ることになったんですって」
「こんな異国で……」

 アメリカがどこだか知らないが、たぶん遠いのだろう。連れて帰ってやれないほどに。
 故郷を離れ、見知らぬ仏に見守られ、いったい安らげるものなのか。だが薬師は微笑んだ。

「異人さんなりの儀式をやるみたいだから。その横でお経もあげるけれど」

 寺としては、墓を作らせるだけで供養をしないわけにもいかないのだ。異人の神と日の本の仏に迎えられるその兵はどんな気分になるのだろう。落ち着かないのではと宇賀は考えたが口には出さなかった。

「異人さんと一緒にお葬式かあ。清覚たいへんじゃない」
「ううん、宝生寺ほうしょうじから偉い人が来るんだそうよ。増徳院は末寺にすぎないし、そんな大舞台を任せておけないんでしょう」
「ふええ?」

 寺にも僧侶にも格付けがある。増徳院の上に立つ磯子いそご堀之内ほりのうちの宝生寺から阿闍梨あじゃりが出張ってくるのだとか。
 なんか面倒くさそう、と弁天は肩をすくめた。だが続く薬師の言葉にピクリとなる。

はちとお経だけならまだしも、異人の音曲もはねえ。私しばらく寝不足だし、こちらに寄せてもらいたいのだけど」
「音曲!?」

 食いつかれて薬師はのけぞった。弁天の目が輝き、鼻の穴がふくらんでいる。
 弁天が芸事を好むのは、薬師も当然知っていた。だが何ともわからない異国の音楽にまで熱狂するのか。

「そ、そうよ。墓地まで亡骸を運ぶのに、楽を奏でるんだとか」
「ほんと!? 我、見に行く! いや聴きに行く!」

 叫びつつ夢見るように宙を見上げた弁天の頬は桃色に染まっていた。
 これはまた、明日は大騒ぎ必定。先ほどまで歌われていたアメリカの曲が耳鳴りのように脳裏をめぐり、宇賀はげっそりした。



 翌日の午後、弁天は宇賀を連れて洲干島しゅうかんじま弁天社を出た。砂洲の先の下の宮から増徳院までは半里二キロほどあるが、葬儀にはゆっくり間に合う。
 今日こそはかぶりつきでアメリカの楽器を見、聴きたい。早めに行き、葬列の道筋で良い場所を取る気満々なのだった。

「こういうのはかみげないとか言うのでしょうか」
「うるさいな。神や仏なんてね、わりと好き勝手にしてるものなの」

 大人げないと宇賀が苦言しようとも、これは弁天も譲れないところなのだ。弁財天が知らない音にはしゃいで何が悪い。
 音楽にあまり情熱を持たない薬師は留守番を決めこんでいたので置いてきた。今ごろは人の別宅で優雅に寝そべっていることだろう。それが少しうらやましい宇賀だった。

「何故私は見知らぬ兵の葬列待ちなどするはめに……」
「宇賀の。良い音のためならば、少々の時をかけるぐらいなんだというの。我らが共に過ごしてきた日々を思えば、まばたきの間のようなものだよ」
「何か良いこと風に言うのはやめて下さい」

 これはただ、弁天の趣味だ。

「……だってぇ。一人で待っていてもつまらないし。宇賀のがいてくれれば安心だし」
「――」

 宇賀は二の句が継げなくなる。この甘えたを弁天は心底から言っていた。ずるい。
 二人は黙って歩いた。
 何も言わずともいい、それが主従の重ねてきた時。一体とも言われる弁財天と宇賀神なのだから、大きく離れるなどあり得ないのだった。

 村を行けば左手に応接所、右は耕された麦畑だった。土壁や板壁に藁を葺いた家々の前には漁網が干され、村人が幾人か集まり話している。道端には椿の花が白く赤く鮮やかに咲いていた。
 この豊かな暮らしは異国の船が来たことで変わるのだろうか。

「ここらでどうですか」

 海からの道が寺へと曲がる所。やって来る葬列を迎え、見送ることができる。
 宇賀の提案にうなずいて弁天は立ち止まった。まだあまり人は出ておらず、これならばよく見えそうだ。

「いいんじゃない。やっぱり宇賀のは頼りになるよ」
「私があなたのためになるのなんて当たり前です」

 むっすりと言う宇賀だったが、機嫌は悪くないと弁天は思った。
 それはそうだろう。もうすぐアメリカの楽隊を間近に見られるのだから。宇賀自身はあまり興味がないかもしれないが、弁天が喜ぶことならば宇賀も嬉しいはず。
 弁天は斜め上の信頼を寄せ、浮き浮きと葬列を待った。

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