開国横浜・弁天堂奇譚

山田あとり

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嘉永七年(1854年)春

第1話 春風は嵐となるか

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 しっとりと薄暗いお堂の中から木戸を開けると、スウと沈丁花が香った。
 春の気配に弁天堂の主のなよやかな頬はほころび、声がはずむ。

「風がぬるんできているねえ。宇賀うがの、来てごらん」
「私の方が外の様子は知っています。放っておくとあなたは何か月も引きこもる」

 宇賀、と呼ばれた男は冷ややかに応じた。
 若く涼やかな顔立ちに相応しい、キリリとした紺の着物姿。背まである黒髪は月代さかやきを剃らない総髪で、後ろに低く結って垂らしてある。

「出掛けるならついて行きますよ。弁財天さまを一人にしておいては危ないですからね」
「ひどぉい。子どもじゃないのに」

 見た目は二十歳そこそこの女性のような弁天が眉をひそめて言い返した。言葉に反し、ぷくぅとふくらませた頬が子どもっぽい。

「これでもわれがこの寺に来て二百何十年。洲干島しゅうかんじまに祀られてからで言えば、もう七百年ぐらいだっけ」
じゃないですか」
「弁財天としてならば、はるかいにしえよりる我ぞ?」

 偉そうにのたまってみせた弁天に、宇賀は表情を動かさなかった。

「あなたはあなたです。各地の弁財天さま方も、御本地ごほんじより身を分けて生まれたものながら同じではない」
「それは、宇賀のもそう」

 コテン、と頭を傾げた弁天に、宇賀はかすかに微笑みそうになった。

 弁天堂があるのは増徳院ぞうとくいんという寺の内。
 雑木の茂る丘の谷戸やとに抱かれているが、実は海も間近だ。風のある日に耳を澄ませば潮騒が鳴る。江戸湾の波はおおむね穏やかだった。

「どこか行きたい所は? どんな身分に扮しましょうか」

 ちらりと振り向いた宇賀が尋ねた。
 弁天は濃淡のあかねの衣を重ね、薄紅のをまとっている。肩には萌葱もえぎ領巾ひれを掛けあでやかだが、つまり古の装いだ。
 慣れていて楽なんだもんと弁天は言うが、このままでは村人の前に出られない。

「海が見たいな。浜をぶらぶらしようか。弁天詣でのような出で立ちで」
「あなた自身がご本尊でしょうに」
「そうだよー。我は横濱よこはま村の総鎮守たる弁財天、民の暮らしは見守らないとね」

 弁天はのほほんと笑った。
 横濱村は海に突き出す砂洲だった。その付け根にあるのが海龍山かいりゅうざん本泉寺ほんせんじ増徳院。弁財天の本尊が祀られるうえの宮だ。
 砂洲の先端は洲干島と呼ばれ、しもの宮として前立まえだちの弁天社がある。そこに神奈川宿や野毛のげの浦から舟で訪れお詣りするのは江戸名所図会にも描かれる遊びだった。その遊客になりすますことにする。
 宇賀はまばたきするだけでスルリと姿を変えた。藍鼠あいねず棒縞ぼうじまの着物に黒羽織。

「こんなので良いでしょう」
「地味」
「いや、目立ってどうします」
「……では我は」

 弁天も目を閉じ、開ける。そこにいたのは藤色に四ツ菱模様の着物で丸髷まるまげを結った若妻だった。

「……菱の色使い、白と牡丹は奥方としては華やかで」
「なら肩掛けで少し隠そうか」
高髷たかまげに結えば嫁入り前です。鉄漿おはぐろも入れていないし、その方がいい」
「宇賀のと逢い引きみたいね」

 確かにこの格好の弁天と宇賀が並ぶと、婚前の男女のようだ。シュルリと髪型を変えた弁天を見つめ、宇賀は「別に、構いませんが」とつぶやいた。


 姿をととのえた二人はお堂を出た。
 境内には弁天堂の他に寺としての本堂と僧坊、それに薬師堂もある。古びた本堂は静まりかえっていたが、裏の庫裡くりの前に老いた僧侶、清覚せいがくの姿があった。

「おや弁財天さま、お出掛けですかな」

 村人から分けてもらったと思しき菜花なばなを抱えたまま軽く頭を下げられた。

「春めいたからね。浜でも眺めてこようと思う」
「浜――は、おやめになった方がよいやも」
「うん? 何かあった?」

 問い返した弁天に、清覚は眉をひそめて答えた。

「アメリカとかいう異国の船が近くにいるのだとか。江戸まで行かせろ、それはならぬと押し問答だそうで」
「なんと、異国の!」

 弁天の目が丸くなり、きらきら輝いた。横目でそれを見た宇賀が仏頂面になる。そんな珍しくて面白そうなこと、弁天が食いつかないはずがないのだ。

「それは大変、我が直々に確かめてみようっと」
「はしゃぎ過ぎですよ」

 宇賀はたしなめてみたが、無駄とわかっている。弁天はもう駆け出しそうだった。清覚もため息をつく。

「弁財天さまは、いつまでも小娘のようで」
「何を爺むさい」
「もう立派な爺ですわい」

 言われてやっと気づいたように、弁天はまじまじと清覚を見た。

「……本当だ。そうか、和尚もトシか」
「トシですぞ。まったく、傍若無人な物言いをなさる」

 笑い出した清覚に、弁天は眉尻を下げた。

「仕方がなかろ――我は人では無いゆえ」
「左様ですな」

 清覚に見送られてゆるい石段を下り、竹垣に囲まれた寺を出る。門前には何軒かの集落があるが、あとは畑が広がるばかりで村は一見のどかだった。
 しかしすぐ近くの石川家の方から当主の徳右衛門とくえもんが来るのが見えた。ここいらの名主をつとめる男だ。
 それと共に歩くのは羽織袴に二本差し――武家の者たちだった。

「物々しいですね。その異国の船のことで来たのでしょうか」

 立ち止まって見ていたら、彼らは寺に入っていく。何用だろう。徳右衛門がいるのだから大丈夫だろうが、清覚が気がかりだった。

「――まあ、寺には何もしないよね。それより浜をうかがってこなくちゃ」

 弁天もさすがに浮かれ気分がしぼんでしまった。
 だが、ならばなおさら海の様子を知らなければならない。二人は連れだって歩き出した。

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