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第六章
130 過去を水に流す
しおりを挟む第一王子殿下の自室では、部屋の主人がさらさらと筆を走らせている。
夏の暑さが峠を越えて、幾分か過ごしやすくなったはずなのに、俺の背はじんわりと温かい。
水浴びでもしたい気分なのだが、緊張のあまり身動ぐことが出来ない。
なにせ俺は、甘やかな香りのする美丈夫の足の間にちょこんと座って、置物になっているからだ。
(少しのふれあいって、手を繋いだりするのかと思っていたんだが……。想定外だ)
クリストファー殿下の吐息が耳にかかって、ぶるりと震えてしまう。
そんな俺に気付いているのかはわからないが、俺の肩に端正なお顔を乗せた美丈夫が、「休憩しようか」と声を掛けた。
待ってましたとばかりに立ち上がろうとする俺の体は、背後から回ってきた腕に囚われる。
「少しでも長く触れ合っていた方が効果的だと思うぞ?」
「っ、だからって、ずっとこの体勢は……」
「フッ、それなら私の方を向くか?」
それはもっと恥ずかしいから却下だと、激しく首を横に振った。
尖っていく俺の口に、マスカットをつんつんと押しつけて遊んでいるクリストファー殿下は、新しく出来た仮の弟に、餌付けをして楽しんでいた。
ギルバート様に励まされた翌日――。
ジュリアス殿下に俺の熱意を伝えると、渋々了承してくれたのだが、禁止事項を告げられた。
『キスとセックスは絶対に許さない』
その発言に、さすがに弟の想い人に手を出さないと、両手を上げていたクリストファー殿下。
軽いスキンシップだけで効果が現れるのかを試してみたい、と話したことにより、現在同じ時間を過ごしている。
そういうわけで、ジュリアス殿下にも、ラファエルさんと一度だけ頑張ってみろと応援しておいた。
ギルバート様で駄目だったのだから、ジュリアス殿下でも期待する効果は得られないだろう。
だってジュリアス殿下は、呆れるくらいに俺を愛しているからな!
そのことをわかっていて申し出ているラファエルさんは、自分の力が弱いことに焦りを覚えているのかもしれないが。
それなら、別の人をあたってくれと切に願う。
俺と同じように力が強くなりませんように、と心の奥底で願っている性悪な俺。
そして公務があるからと、行為を一日でも先延ばしにしようと必死なジュリアス殿下の子供っぽいところは、実に可愛かった。
「イヴ? 私にも食べさせてくれ」
「……自分で食べれますよね?」
「見ての通り、両手が塞がっている」
明らかに片手で持つことの出来る書類を両手に広げるクリストファー殿下は、俺を揶揄うことに楽しみを見出してしまったようだ。
前日にやる気になった俺だが、マウントを取られると、相手が格上であっても反発したくなる。
俺はクリストファー殿下の左手から書類を奪い、目の前で見せてやる。
「これで片手が空きました」
どうだと言わんばかりの顔をしてやると、クリストファー殿下は新しいおもちゃを見つけた子供のように瞳を輝かせた。
「目が疲れたから、イヴが読んでくれないか?」
「……なんで俺が……」
「イヴが喜ぶと思ったんだがな?」
その言葉に、俺に関することなのかと気になって書類に目を通せば、豊穣の神の身内が、国への報告義務を怠ったことに関する内容が記されていた。
ラファエルさんの両親が、我が子が紋章を授かったことを国に報告しなかった理由は今となってはわからない。
そして二人はすでに他界しているため、罪人にはならない。
よって問題となっているのは、ペドロさんだ。
ラファエルさんの両親は、ペドロさんの反対を押し切って結婚したため、絶縁状態だったそうだ。
だからペドロさんがラファエルさんを引き取った時には、すでに重度の火傷を負っていて、紋章を授かっていることに気付いていなかったらしい。
ペドロさんが嘘をついているようには見えなかったため、処罰を受けることはないそうだ。
ただ、金があるにもかかわらず、孫にきちんと治療を受けさせなかったことが虐待だとみなされて、褒美を受け取る資格を剥奪された。
実際のところは、魔物の被害にあった国民を受け入れて大金が動いているし、平和が訪れたときにも復興に莫大な金がかかる。
表向きは、孫を虐待したことで褒美を受け取る資格を剥奪されたとなっているが、ペドロさんの行いをうまく利用したのだろうと容易に想像出来た。
ラファエルさん自身も、コロッと態度を変えた祖父に対して不快感を抱いたようで、特に抗議はしていないそうだ。
「なにせ、彼は褒美を受け取らずとも、今後の未来は明るいからな。紋章を授かる者の待遇を少しばかり教えてやったら、すぐに了承してくれたぞ?」
悪人面のクリストファー殿下に、俺は苦笑いする。
(もしきちんとした治療を受けさせていれば、その時に孫が豊穣の神だと知ることが出来たし、ペドロさんは大金持ちになっていたかもな……)
マテオさん達にざまぁみろと笑われて、現在ペドロさんは大人しくなっているらしい。
今後はラファエルさんがいなくなり、田畑は本来の状態に戻るだろうし、村でもきっと針の筵だ。
元々態度が大きかったし、規模の小さな村だからこそ、生きにくい生活になるだろう。
より苦労することになる未来が想像出来て、少しだけ可哀想にも思えた。
「今は後任を選出しているところだから、彼はまだ村長だが、直におろされるだろう。イヴはマテオを案じていたのだろう? 喜ばしい報告だったんじゃないのか?」
無言でいると、クリストファー殿下が書類を見つめている俺の顔を覗き込む。
「そうですね……。でも、村長は続けるべきだと思います。彼の残りの人生はそう長くはないかもしれませんが、心を入れ替えて頑張って欲しいです。それが、亡くなった娘さんとラファエルさんへの贖罪になるかと」
俺の返答に、どうしてかクリストファー殿下は呆気に取られていた。
「いくらペドロさんが傲慢な人間だったからって、みんなでやいやい言うのは違うかなって……。文句を言えるのは、ラファエルさんだけだと思います」
「…………」
「別に、いい子ぶってるわけじゃないですよ? もしそれでペドロさんが心を病んで、自殺でもしたら後味が悪いと思っただけです。やり直す機会を与えてあげた方が、ペドロさんだけでなく、みんなのためになると思います。……どんなに素晴らしい人でも、間違えることはありますから」
遠回しに、俺達の過去を水に流そうと告げる。
瞠目した様子のクリストファー殿下が、俺の顔を凝視して固まっていたが、ゆっくりと頷いた。
「今ならわかるな」
「え?」
謝罪されるのかと思いきや、何かを呟いたクリストファー殿下に背後から包み込まれる。
なんて言ったのかと聞き返したが、答えてくれなかった。
俺の首筋にクリストファー殿下の頬が触れて、ちょっと距離が近すぎる、とも思うのだが。
なにやら様子がおかしい気がする。
「どうしたんですか?」
「いや……。もっと早くに出逢いたかったな」
過去を後悔しているのか、クリストファー殿下が自嘲気味に笑った。
エリス様がいなくなって、心の拠り所がなくなってしまったが、代わりに弟との距離は確実に縮まったと思う。
クリストファー殿下の周りには支えてくれる人達が大勢いるが、俺もそのうちの一人になれたらいいな、と思いながら、ゆっくりと頷いた。
「っ、イヴ……」
優しく包み込んでいた腕の力が僅かに強くなる。
おずおずと手を動かした俺は、意外と逞しい腕をそっと撫でた。
「今からでも、仲良くなれると思いますよ?」
「…………そう、だな」
煮え切らない返事だ。
まだ過去を引きずっているのかと、俺はうじうじしているクリストファー殿下の腕を外した。
「……イヴ?」
振り返れば、捨てられた子犬ような目をした王子様がいた。
お前もか、と俺は笑ってしまった。
行き場を失ったかのように中途半端に上がっている腕を取り、手の甲に口付ける。
「ッ!!」
癒しの力を使えば、目が見開かれた。
目尻がじわりと赤くなり、クリストファー殿下の心が癒されたことが確認できた。
だが、なんとも言えない空気が流れる。
調子に乗ってやらかしたな、と俺は視線を彷徨わせた。
「あ……。キスにカウントされるかな」
無言に耐えきれずに呟くと、フッと柔らかな笑い声が聞こえた。
「いや。挨拶みたいなものだろう」
そう言って、指先に触れていた手が、指を絡ませて握り直される。
恋人がやるような繋ぎ方に、ドキリとする。
「だが、二人の秘密にしておこう」
やけに甘い声で囁くクリストファー殿下に、俺は小さく頷いて微笑みかけた。
その後は、他愛もない話をしているうちに、あっという間に時間が過ぎており、クリストファー殿下の仕事の邪魔をしていたことに気付いて、平謝りすることになった。
「仕事、しなくていいんですか?」
「ああ。徹夜する」
「……ええ」
徹夜が確定しているにもかかわらず、笑顔のクリストファー殿下は、繋いでいる手をなかなか離してくれなかった。
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