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42 ピエール
しおりを挟む負傷者二十名が休む療養所の大部屋では、尊敬する主人が自らの手で部下たちの世話をしている。
見慣れた光景なのだが、閣下が突如として発した言葉に、その場にいた全員が困惑していた――。
『いってらっしゃい。……と言ってみろ』
戦場で敵と対峙している時のような鋭い眼光が、ピエールに突き刺さる。
閣下は普通に話しているつもりだろうが、切羽詰まったような顔付きだ。
重大ななにかがあったのだと察したピエールは、背筋を正した。
――五日前。
花に興味のない閣下に、植物図鑑を用意するように言われた時も、ピエールは心底驚いていた。
しかし、今回はそれを上回る非常事態だ。
通訳のアキレスが不在のため、詳しく説明してくれる者がいない。
皆が戸惑うのも無理はないだろう。
「いいから言え」
「ハッ。いってらっしゃいませッ!!」
有無を言わさぬ閣下の態度に、ピエールは声を張り上げる。
大抵の者には恐れられている閣下だが、命を救ってもらった者たちからは、憧れの的である。
かくいうピエールも、戦場の鬼神に惚れ込んでいるひとりだ。
といっても、閣下とピエールは従兄弟である。
恋心を抱いているわけではない。
「……ふむ。やはりなんとも思わない。次」
「い、いってらっしゃいませぇッ!!」
閣下の望む対応が出来ず、緊張で声が裏返る者が続出する。
だが、少数派の美青年たちが、そわそわと順番を待っていた。
閣下の腕に抱かれたいと願う者たちのアピール合戦が始まる。
「いってらっしゃいませッ♡」
隊の中でも一番可愛らしく、アイドル的な存在のアレクシィが上目遣いで告げた。
両手を組んで、こてりと首を傾げている。
これでもかと可愛らしい仕草をするアレクシィの姿に、緊張していた隊員たちが見惚れている。
きらきらとした空色の瞳は、誰の目から見ても閣下への愛で溢れていた。
(完璧な、いってらっしゃいませだった……)
これなら絶対に満足いったであろう。
誰もがそう思っていたのだが、渋顔の閣下の口から衝撃的な言葉が飛ぶ。
「……やはりなにも感じない」
「――ッ」
半泣きになっているアレクシィ。
思わず抱きしめたくなるピエールだが、なにを勘違いしたのか、閣下は神官を呼んだ。
「傷が開いた。治療を頼む」
「「「…………」」」
真顔の閣下を眺めるピエールは、噂通りの冷酷な男だと思っていた――。
(アレクシィでダメなら、一体誰が合格できるというんだ……)
――結果、全員不合格。
だが叱られることもなく、解散を告げられた。
「ついて来い」
「ハッ」
さっさと大部屋を後にする閣下を、ピエールが慌てて追いかける。
ここ最近、閣下の様子がおかしい。
従兄弟だからこそ気付いているピエールは、敢えて今回の任務での褒美を聞いてみることにした。
「レオーネ領をいただく」
間髪を入れずに答えたことに、驚きを隠せない。
しかも、レオーネ領だ。
これといって重要な地でもなければ、ここ最近の評判はすこぶる悪い。
今まで特に希望するものがなかった閣下が初めて欲したものは、ピエールにとっては理解し難いものだった。
それからピエールが案内された場所は、他の個室から隔離された特別室だった。
王族や、命を狙われている者が利用する場所であり、高貴なお方が療養しているのだと察したピエールだったが……。
「今日から彼女を守ってほしい」
漆黒色の視線の先を追えば、花瓶の水をかえる金髪美女の横顔が見えた。
まったく知らない人だった。
不思議に思いつつ、閣下に続いて部屋に入ったピエールは、ありえない光景に息を呑む。
絶世の美人が、戦場の鬼神に微笑みかけていたのだ――。
「クレム様のご友人ですか?」
「ああ、ヴィオの話し相手にと思って連れてきた。私がいない時には、好きなように使ってくれ。優秀な神殿騎士だ」
閣下にぎろりと睨まれたピエールは、ようやく頭を下げていた。
美女が感動したようにお礼を述べているが、ピエールは背に冷や汗がダラダラと流れていた。
優秀な神殿騎士、つまり、ヴィオという名の美女には手を出すなと警告されたのだ。
(……ただ、俺は神殿騎士じゃないんだけど……)
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