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◆三年生◆

*4* ケンカするのって初めてだ。

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 昨日まで二日間降り続いた雨のお陰で大気が洗われてお日様キラッキラ。春の日差しが惜しげもなく降り注いで、街路樹の葉を伝う雨の雫を輝かせている。

 そんな本日は“四月二十七日”。もう若葉もしっかり開いた木々は、その柔らかい黄緑色が今の私とは違ってとても瑞々しい。ハリと潤いが違う。

 チラリと隣を歩く推しメンに視線をやるけれど、ムスリと引き結ばれた口許に怖じ気づいて、とてもじゃないが言葉をかけられない。不機嫌だと原画に表情が寄っちゃうんですね? ひえぇ、周囲の空気が帯電しているのかと感じるくらいにピリピリしていらっしゃる……。

 この現状にはちょっとした認識の違いが、アレしてアレなことになったんだけど、取り敢えず今は約束の時間があるので二人並んでもそもそ歩く。

 コツコツと地面を叩く石突きの音がやや刺々しいと感じてしまうのは、気のせいではないだろう。

 さて訪れた先はラシードが勤める雑貨屋さん。接客中だったラシードは私達が入店したことに気付くと、お客さんに「ゆっくり見ていって頂戴ね」と声をかけてこちらへ出迎えに来てくれた。

 するとラシードが背を向けた途端に、今まで接客を受けていた女性達からの値踏みするような視線が私に突き刺さる。しかし彼女達を怖いと思ったのもほんの一瞬。お姉様方はすぐに“こいつは敵じゃねぇ”とばかりに鼻で嗤って、視線を商品棚に向けてしまったからだ。

 敵認定されなくて助かったけど、これはこれで傷付くわぁ……と、溜息を吐いていたら「あら、もう渡しておいたハンカチ全部に刺繍し終わったの? 随分仕事が早いわねぇ。アタシは助かるけど、アンタちゃんと勉強もしてる?」と傷に塩を擦り込むラシードの攻撃が私を襲う。

 ――くそ、これが俗に言うフレンドリー・ファイアーか! 効果は絶大だ!

 なんて内心では馬鹿なことを考えながらも、約束のブツを肩かけ鞄の中から引っ張り出す。それをラシードに手渡せば「ちょっと検分するわね」と言いながら、早速その場で包みを開いて検分を始めた。

 勤め始めてまだ二月くらいなのに、店員さんが板に付いているなぁと感心してしまう。背後の推しメンは店内に興味があるのかないのか、判別し難い表情で見回している。ここに来るまでの威圧感が少しだけ和らいだかな?

 そのことにホッと胸を撫で下ろしていたら「ん、大丈夫そうね。普段がさつなアンタとは思えない丁寧な仕事ぶりよ」と褒めてるのか、貶しているのか分からない合格サインを頂いた。

「そ・れ・で、これだけ“息抜き”の仕事が早かったってことは……ちゃんと勉強してるんでしょうね?」

「えー……はは勿論ですよぉ。神話の原本の解釈クソ面倒とかちっとも思ってませんよ? 星詠み何て勘と生まれ持った物で済ませちゃ駄目なのとか少しも考えてませんってば嫌だなぁ」

「うわ、出たノンブレス。アンタのそれ本当に怖いから止めてよね。あっ、おまけに目の下におブスなクマが出来てるじゃない! ちょっとちょっと、アタシが卒業した途端に気を抜きすぎなんじゃないのぉ?」

 ラシードがそう言いながら私の頬をワシッと大きな掌で包んだ瞬間、商品棚を眺めていたお姉様方の美しいお顔が修羅のように歪む。ひええええ……!

 違うんですお姉様方! これはブサカワ系な小動物を愛でる感覚に近いといいますか、決して女として見られているとかではありませんから! 断じて同じ土俵に上がろうだなんて思いも……って。

 不意に後ろに引っ張られたて「うおっ?」と色気のない声を上げた私に、またまたお姉様方から失笑が飛ぶ。いや、でも待ってよ。普通にいきなり後ろに引っ張られたら、どんな美人だって十人に八人はこんな声を出すから!

 心の中でお姉様方に向かってファイティングポーズを取る私の目の前で、ラシードが「あら、お熱いわね」と悪戯っぽく笑う。

 一体何のことだろうと首を捻れば、頭上から「お前がルシアの反応を面白がって余計な真似をするからだ」と呆れた声が落ちてくる。その声に視線を落とせば腰に回された腕が。視線を上げれば至近距離に推しメンの横顔が。

 あ、成程、腰に腕を回して引っ張られ……。

「ちょ、おおおいクラウス!? 乙女の腰回りは、場合によっては胸より触っちゃ駄目な部位だから!!」

 咄嗟に腰に回された腕と腹の間に自分の手を挟み、もたれかかっていた背中を浮かせて、クラウスへの抗議の為に後ろへ身を捩った。しかし。

「アンタの場合胸よりお腹周りの方が柔らかそうだもんねぇ……」

「な、んだと……あんまり失礼なことをしみじみ言うなよ、ラシード? 流石に胸の方がまだ柔っこいですから」

「へぇ、本当かしらぁ?」

 聞き捨てならない台詞に振り返って反論すれば、ニヤリと意地悪く笑うラシードがいつの間にどこから取り出したのか、その手にメジャーを握って再びジリジリと寄ってくる。

 こんなところで侘しすぎるスリーサイズを公開なんて冗談じゃない!

 ――と、またまたグイッと引っ張られた。せっかく逃れたと思ったのに! そもそもまだステッキで身体支えないと駄目な人が、こんな不自然な姿勢取ったらいけないと思うよ!

「おい、悪ふざけが過ぎるぞラシード。ルシアも、急に腰を抱えたのは悪かったが、仮にも子女が店内で馬鹿なことを叫ぶな」

「か、仮にも……」

「今のうちに騒ぐのを止めて、大人しくすると言うなら子女だな」

 涼しい顔で腰に回していた腕を解いた推しメンが薄く笑う。ただ若干嘲りを帯びたその笑みが、何となく自分に向けられたものではない気がして店内を見回した私の視界端で、商品棚に隠れるさっきのお姉様方の姿が見えた。

 単なる思い上がりかもしれないけど、この騒ぎはもしかして彼女達を牽制してくれたんだろうか? ……なんて、そんな乙女ゲームみたいな理由の訳がないか。

 その後、店の奥から店長さんが現れて“とっとと休憩行って来い!”的な指クイを見せてくれたので、逃げ出すように店を出た。ステッキをつく推しメンの歩幅に合わせて隣を歩くけれど、せっかく和らいだと思った気配は、またピリピリとしたものに戻ってしまっている。

 そんな私達の距離感に気付いたのか、ラシードが空気を……この場合読んだことになるのか分からないけれど「アンタ達、何だかいつもより距離が遠い気がするんだけど。喧嘩でもしたの?」とぶっ込んで来た。

 その瞬間ゴツッと。一際重く抉り込むような石突きの音に僅かに息を飲んでしまった私の肩を、隣に並んだラシードが抱き寄せる。情けない話だけれど、私はそんなラシードの行動が少しありがたかった。

「俺は手紙を出して先に寮に戻る。ああ、それと……さっきハンカチが一枚足りないことに目を瞑ってくれて助かった。その一枚は俺が買取るから、後でルシアに値段を伝えておいてくれ。後日支払いに店を訪ねる」

「元から練習用に多目に頼んだんだから、別に一枚分の代金くらい構わないわよ? あの生地はアタシの買取だし」

「きちんと仕事と公私の区別を付けないのは好きじゃない。後日必ず支払う。……ハンカチ以外の物も含めて。それよりもラシード、すまないが今日はルシアを頼む」

 そう言うと重い溜息を一つ残して、推しメンが人波に紛れて遠ざかって行く。その背中を見送りながら泣きたい気分になった私を、ラシードが「取り敢えずどこかのカフェに入りましょ」と促してくれた。


***


 推しメンと別れた後、客席の間に間仕切りが多いカフェを探して腰を落ち着けた私は注文したケーキセットを待つ間、ラシードにさっきの推しメンの不機嫌な理由を掻い摘まんで説明した。

 ……要するにことの発端はこうだ。

 ちょっと帰りが遅くなった日が数日続いた時に、暗がりで私の首飾りが光らないことに気付いた推しメンが“最近首飾りをしているところを見ないがどうした?”と聞いてきた。

 あの推しメンがトラウマを持ちそうな救出劇をさっさと封印したかった私は、咄嗟に金属アレルギーになったと馬鹿な言い逃れをし、その場では一旦引き下がった推しメンに、後日普通に金属製のポットに触れていることを指摘されて逃げ場をなくす。

 これ以上下手な嘘を重ねて嫌われるのが怖くなった私は、ギリギリまでラシード達にお金を借りたことや、犬ゾリの代金の出所をぼかしつつ話そうとしたんだけれど……推しメンの追い込みの前に、隠しておきたかったことを全て暴かれてしまったのだ。

 けれど推しメンが一番怒ったのは、足りなかった代金の代わりに首飾りを親父さんに渡したことでも、ラシード達にお金を借りたことでもなく――。

 私が仕送りを全部使ったことと、今回請け負った刺繍の売上金が、全てラシード達に借りたお金の返済に充てられることだったのだ。

「やっぱりねぇ。こうなると思ってたから、最初にお金の返済なんてしないで良いってアタシもカーサも言ったでしょう。スティルマンは元々自分に厳しくて人に頼るのは嫌いだもの。それをよりにもよってアンタに助けられるなんて……男としてショックだったんでしょうね」

 “よりにもよって”の部分にグサッと来て俯いた私の顎を「そういう意味じゃないわよ」と、ラシードが人差し指で持ち上げる。全く、このイケオネエは息をするようにこういうことするよなぁ。

「第一アタシのあのお金は実家からの手切れ金だし、カーサのあれはお小遣いよ? アタシもカーサもなくても困らないし、アンタの捻出した雀の涙とは重みが全然違うの」

「でもラシードのあのお金は将来の蓄えになるだろうし、カーサのお小遣いだって親御さんから一人娘への援助なんだよ? ただ独りよがりに推しメンに幸せになって欲しいだけで課金する私とは訳が違うじゃんか」

 話の途中で運ばれてきたケーキセットのイチゴタルトに、勢い良くフォークを突き立てた私を見たラシードが、呆れたように「課金って……もう少し言い方があるでしょう、このお馬鹿」と私のケーキからイチゴを一つ取り上げる。イチゴの代わりに載せられたチョコレートの花をフォークで口に運ぶ。

「……やっぱり謝った方が良いのかなぁ」

 ビターチョコが舌の上で溶けてなくなった後に私がそう呟くと、ラシードは「謝るような悪いことをした気なの?」と訊ねて来た。一瞬その問の意味を考えたけど、それは違うと内側から強く反発する自分がいる。だから首を強く横に振った私を見て、ラシードは「でしょうね」と笑った。

 そうしてコーヒーを一口飲んだラシードは、ふと明るい声音で思いがけないことを言ったのだ。

「それじゃあ一回とことん逃げて、逃げて、逃げ回れば良いのよ。あの頑固者も頭が冷えてまともになれば、すぐに向こうから謝ってくるから」

 ニイッとチシャネコのように細められた、その夕日を思わせるオレンジ色の目に宿る魔力じみた色気に、私は小さく頷いた。
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