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◆二年生◆

*24* 推しの変化が尊すぎて怖い。

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 本日は“八月十二日”。

 夏期休暇の間は学園内のカフェテリアも閉まっているけれど、一応テラス席は自由に使うことが出来る。大きく張り出したひさしと、緑化の為に植えられている木々のお陰で、真夏日の今日もそれなりに涼しくて快適な日陰を作り出してくれていた。

「もうさ――……尊すぎて知らない間に死んだのか、もしくは深夜の予習復習しながら寝落ちしたのかと思った」

 思わずそう言いながら、テーブルの上で祈りの形に組んだ私の手を、目の前に座る懺悔室のシスターというにはゴツ過ぎるラシードの手が無慈悲に払いのける。オマケになんと眉間に強めのデコピンまでセット。

 以前悪ふざけをしてリンゴを握り潰せるか実験してもらったことがあったけど、食べ物で遊ぶものではないからと、指をめり込ませるだけに留めていたその指でだ。このオネエさんは友人を指先一つでダウンさせるつもりなのだろうか?

 流石にリンゴに穴を開けた時ほどの威力は込められていなかったけれど、痛みに声もなく突っ伏す私に冷ややかな視線を落として鼻を鳴らすラシードは、傍目にはとんだ暴力衝動を抑えられないイケメンに見えるかもしれない。

 しかし実質それだけのことをされるくらいには、私がしつこくこの話題を振っているので誤解をしないでと周囲に教えてあげたい。

「あのねぇ、ルシア。その話を聞かされるの、もう十回は確実に越えたからキャンセルしても良い?」

「ふふふふ……駄目です! 後生だから、後一回だけ言わせてぇぇぇ!!」

「前世がどうだったか知らないけど、今世でのアンタの後生は多そうだからお断りよ。大体カーサがいない間ずっとそれアタシが聞くの? そんな建設的でない休暇の過ごし方なんかごめんだわ」

「そんなこと言わないで、ね、ね? お願いだから。勉強会が終わったら後で何か奢るしさぁ」

 私は眉を顰めるラシードのゴツい手にすがりついて“この胸の高鳴りを聞いてくれ!”とばかりに懇願する。しかしオネエさんは「アタシの方が一学年上なんだから、この勉強会に出席する意味なんて本当はないのよ」とにべもないお答えを下さった。

 確かに元から頭が良い上に一学年上であるラシードにしてみれば、この勉強会に旨みが全くないので反論出来ない。

 舌打ちはしないまでも、そのきめの細かい頬に人差し指をブスッと突き付けて「ケチかよ~」と不満をたれる。すると私の手を煩わしそうに払ったラシードが「同じ惚気を何回も聞かされるくらいならケチで良いわよ」と苦笑を漏らした。

 それはまあ……反省している。ただどうしても言わせて欲しい。

「だってさ、生で見られたんだよあっちの世界の感覚だったら推しの俳優さんとの握手会みたいなもんじゃない? あの弱気になった瞳の中にある若干の狂気……何あれもう尊すぎて息の根が止まったわ。手許にスマホがあったら接写待ったなしだからね」

 私があの推しメンの尊さをつらつらと喋っていたら、ラシードから「うわ、出た。オタク特有のノンブレス。しかも早口すぎて気持ち悪いわよ」という心無い突っ込みが入ったので、少しだけ冷静になろうかと手許のポットを傾けた。

 女子寮から持ってきたポットの中にはまだ冷たい紅茶が入っていて、私はそれを涼しさを全く感じさせない部室である温室で使っていたマグカップに注ぐ。そこに輪切りにしたレモンを浮かべて傍目にはホットレモンティー、実際はアイスレモンティーというややこしいアイテムを作り出した。

 でも目の前に座っているラシードもマグカップにこれと全く同じ物を注いでいるので、周囲から見られたとしても私一人が頭のおかしい人扱いされることはない。一緒に真夏日に外でマグカップを片手にお喋りをしているだけだ。見た目的に暑苦しいことこの上ないね。

 熱弁を振るって渇いた喉を紅茶で潤し、さて話の続きを――……と思って再び顔をラシードの方に向けたその時、目の前に座ったラシードが「あら、残念。時間切れよ」と微笑んだ。

 その言葉に振り向けば、まだ少し離れているものの推しメンがマグカップ片手に歩いてくる姿が見えた。この夏期休暇が終わったら部費でグラスを買おうかな。

 上級貴族のお宅にあるような薄いワイングラスみたいな物はとても買えないけど、製造の途中で空気の入ってしまったグラスくらいなら何とか買えるだろう。重さがマグカップとほぼ同じだから視覚的に涼しそうなだけのアイテムだけど、季節感は重要だもんね。

 そうこう悩んでいる間にこちらにやってきた推しメンは、断りも入れずに私の隣の席に腰を下ろしてしまった。あの日から何故か正面ではなく隣に座ることが多くなった推しメンの距離感に、未だ慣れない私がドギマギしていると「二人とも待たせてすまなかった。思いのほか領地からの手紙を読むのに手間取ってな」と申し訳なさそうに笑う。

 この表情で“明日世界を滅ぼしても良いか?”とか訊かれても絶対に頷く自信があるね。何なら協力しますとも。残念ながらご大層な能力なんて持ち合わせていませんが。

 真っ黒な思考をした私の肩に、ほわりとした柔らかな真珠色のエフェクトが触れて、ホロホロと淡雪のように解けていく。

「離れた場所からでも楽しげな声が聞こえていたが、何か面白い話でもしていたのか?」

 急にそう話題を振られた私はラシードに視線だけで“余計なことは言うなよ?”と釘を指した。しかしオネエさんはニヤリと悪そうな微笑みを唇に浮かべる。

 経験上あまりよろしくないことを考えていそうなラシードが、何か余計なことを言い出す前に先手を打って「夏用のグラス買いに行かないとだね~って話してたところだよ」と強引な発言をねじ込んだ。

 疑り深い推しメンは一瞬だけ視線をラシードに向けたものの、私の意図を汲んだラシードが「そうそう。この季節に外でマグカップってお洒落じゃないでしょ?」と話を繋げてくれる。

 視線だけで“上出来!”と念を送れば“当然よ”と返ってくるこの以心伝心ぶり。流石は私の一番の理解者だ。

 しかし勘の鋭い推しメンは蚊帳の外にあることを察知したのか「成程。素直に教える気はない、か。大方俺に聞かれたくない内緒話だろう?」とふてくされたような表情になる。

 んっ……至近距離でその表情を止めてくれ。何だか推しメンがこの頃ちょっとだけ子供っぽくなってないか? 萌えすぎて不整脈みたいに乱れる心音が、隣の推しメンにまで聞こえそうだ。これじゃあただの変態じゃないか!

「いや、本当に大した話じゃないんだってば。大体私とラシードの間でク、クラウスを仲間外れにしてまでするような内緒話って何なのさ?」

 ――……痛あぁい……大事なところで噛んだ。何とか気合いで最後まで喋りきったけど結構本気で噛んだな、これは。

 そして直後に真向かいのラシードが噴いた。こやつ、絶対に許さん。ただでさえ暑い真夏に自分のミスでさらに体感温度をプラスしてしまった私は、いたたまれなさで顔面に血の気が集中してしまった。

 間抜けさと痛みに涙目になりながら、鉄の味がする舌先を口の中で転がしてラシードを睨み付けていると、不意に隣でふてくされていた推しメンが「その様子だと結構本気で噛んだのか? 見せてみろ」と少し呆れたように笑う。

 いやいやいや、口内を好きな人に覗かれるとかどんな羞恥プレイですかそれは。勿論口を押さえて断固拒否の姿勢を貫けば、推しメンは「本当に大丈夫か?」と心配してくれる。自意識過剰なのは分かってるんだけど、こればっかりは無理です、はい。

 しかしこの状態は拙いぞ。痛みでモゴモゴとやっている間、ラシードが野放しになってしまう。そんな私の内心に気付いたラシードがニタリと笑った。さっきまで感謝した以心伝心ぶりが完全に仇になっている。

「それにほら、この子の誕生日も近いじゃない? だから友人と過ごせる貴重な夏期休暇をここで過ごすより、プレゼントでも買いに行った方が有意義だと思って誘ってたところよ。なのにこの子ったら変なところで強情だから、絶対勉強会するんだ~って。詰め込み学習なんて今時流行らないのに呆れちゃうわぁ」

 こっちが口をきけないのを良いことに、立て板に水の嘘をつらつらと口にするラシードから推しメンの興味を逸らそうとしたのだけれど――……。

「ああ、そういうことか。俺に気を遣ってくれるのは嬉しいが水くさいだろう? 勉強も大切だが“親友”の誕生日ほど重要かと聞かれればそうでもない。明日には俺も領地に帰るから、今日は一日街にでも出かけよう。ただし、プレゼントはまた今度だ。夏期休暇が終わってからでないとベルジアン嬢に悪いからな」

 そう至近距離から微笑みかけてくる推しメンの尊さで、今度こそ冒頭のような死に方をするかと思った。だから、距離が、近いんだってば!! 

 他人と話をする上で目の色がしっかり分かる距離感って、前世ではなかなか味わえなかったからなぁ……。そもそも同僚は普通に黒目黒髪だったから特にそんなことを気にせずにすんだし。たまに色彩の薄い人もいただろうけれど、気にしたことなんてなかった。

 それがこのダークブラウンの瞳には通用しない。吸い込まれるように見つめてしまいそうになる。

 口の中は相変わらず鉄の味が広がっているのに、心の中は砂糖漬けの気分だ。視線だけでラシードに助けを要請すれば、それに気付いた推しメンに「話している時によそ見をするな」と頬を摘ままれる。

 うおぉぉぉ、スキンシップがこんな時だけ外人系なのは非常によろしくないんですが!?

「はいはい、そこまで! 二人してアタシのことを忘れてイチャイチャしないで頂戴。それとスティルマン。アンタは遅れて来たんだからアタシ達に街で何か奢りなさいよ~?」

 パンパンと手を叩いてラシードが助けに入ってくれなかったら、あともう少しで鼻血が出るところだった。圧倒的感謝を視線でお知らせ出来ない以上“この念よラシードに届け”とばかりに真顔になれば、それすら察知した推しメンに「また気が散っているだろう?」と不満を告げられた。

 いや、気にするところはそこじゃないでしょうが。奢りかよとか、イチャイチャしてないとか、そういう突っ込みがいるところだってば。

 しかし結局そのことに推しメンが言及することはなく、その後は紅茶を飲み干してせっかく用意していた勉強道具を自室に置いてから、三人で街へと遊びに出かけてしまった。

 夏の日差しに文句を言いながら推しメンに買ってもらったジュースを飲み、夏期休暇が明けたらカーサも連れてグラスを選べそうな雑貨屋さんを覗いて歩く昼下がりは、とても楽しくて。

 困ったことを挙げるとしたら、やたらと距離感の近い二人に挟まれて歩き辛かったことくらいかな。見上げた先にすぐ推しメンの横顔があって。視線に気付いた推しメンがすぐに「どうした?」と優しい声と微笑みを落としてくれる。

 このままだと新学期には本当に殉職する可能性すら出てきたな――……と。

 そう、思っていたのに。


 その翌日に領地へと帰って行った推しメンは、夏期休暇が終わってから一週間が経っても、学園に戻って来ることはなかった。
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