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★13★ 鏡に向けた殺意。
しおりを挟む――市街地の警邏を終え鍛練場で部下に訓練をつけていた最中、不意に視界に赤が散った。咄嗟に痺れの走った頬に触れると、指先を鉄臭い赤が濡らす。
右腕に構えていた模擬剣が微かに震えていることから、何かを反射的に払ったのだと遅れて情報が脳に届いたものの、それがどういう経緯で飛んできたのかが分からない。
久々に見る自身の血液を不思議な心持ちで拭っていると、遅ればせに少し離れた場所から、薄い金属が地面に叩きつけられるような音が響いた。
何かの正体は部下の誰かが弾かれた模擬剣らしい。刃引きがしてあるとはいえ、勢いを持った状態で掠ればこうなる。
こちらに気付いた数名の部下達が狼狽える姿に集中するよう手を振り、訓練に集中するよう注意しようとしたそのとき、騒がしい声と足音と共に顔色を失くした部下二人を連れた副長が現れた。
「誰かいまので負傷した奴いるかー……って、げっ、隊長! 大丈夫ッスか!?」
「これくらい問題ない。問題があるとすればお前のその口調の方だ副長。改めろとは言わんが、もう少しどうにかしろ。他の者達もこうならないように、手にした得物はしっかり握れ。そこの二人も気にせず訓練を続けろ」
「だそうだ、お前ら。模擬剣の回収したら元の場所に戻って打ち合いしとけ。あ、ただ始末書は出せよ。オレは読まねーけど一応決まりだからな」
副長のダルクは【適当】という言葉を人形にしたような男ではあるが、部下達からの信頼は厚い。俺を前にすると萎縮しがちな新人の研修もこの男の仕事だ。
平民出身者であることもそうなのだろうが、人柄が取っ付きやすいのがいいのだろう。半面というか、当然のように時間や物事には【適当】だ。
「さっきの、ほぼ改めろってことじゃないッスか。よその部隊の奴等がいるときは心がけて……ますよ。にしてもらしくないですね、避けきれないなんて」
「ああ、ぼんやりしていたらしい」
「そりゃ寝不足が響いてるんですよ。隊長の婚約者の方を悪く言うのは気が引けるんですけど……彼女のために動き回るのは、もう止めにしませんか? 少し休んだ方がいいですって。美人でしたけどあれは自業じ――、」
気付けば、副長の身体を地面に組伏せて喉に模擬剣の切先を当てていた。
今度は先程までのようなざわめきは起こらず、周囲の部下達は声もなくその場に立ち尽くしている。その瞳には一様に困惑の色が見てとれた。
「……何を見ている。各自訓練を続けろ」
困惑など、俺が一番している。片腕と呼べる部下を相手に一瞬でも殺意に近しい感情を抱いたことに。
「お前もだダルク。彼女の事件についてのお前の見解は分かった。あとは俺が追う。現在バートン家に見張りにつけている部下達にもそう伝えてくれ。以上だ」
呆然と地面に仰向けに倒れる副長の上から退き、自身の執務室に向かう間も胸の内に燻る殺意の靄はなかなか晴れなかった。
***
十六日目の深夜十二時。
ベッドに横たわっていると、徐々に手足の指先が冷たくなる感覚に彼女の訪問を感じ取り、目蓋を持ち上げる。するとそこにはやはり今夜も距離感のおかしい彼女の姿があった。
しかしその紫水晶の瞳には、毎夜見られる輝きがない。そのことに一瞬疑問を感じていると、彼女の透ける指先が頬に……触れたか、どうか。ヒヤリと冷気が撫でたそこに視線を落としたまま紅い唇を開いた。
『ねぇ……この頬の傷はどうしたの?』
「午後の訓練中に少しな。大したことじゃない」
『誤魔化さないで。貴男が訓練中に油断したりするはずがないでしょう。答えて、可愛い貴男。どこの誰にやられたの?』
柔らかな笑みすら含んだその問いかけに、ザワリと背筋が粟立つ。あの二人の部下と副長の顔が浮かんだが、すぐにその思考を打ち切る。
だが彼女は僅かなこちらの逡巡を感じ取ったらしく、肉体があれば鼻先が触れ合う距離まで顔を近付けて『いま、誰を思い浮かべたの? 私にも人が呪い殺せるか試してみるわ』と。慈愛に満ちた表情で、狂気に満ちた言葉を吐いた。
『呪い殺せまではできなくても、ベッドで横になったまま金縛りにかけ続けて、食事ができないようにすれば衰弱はするわよね?』
両手を合わせて微笑みながら口にする無邪気なその一言に、現在の自分の立場の危うさを感じた。確かにそういう使い方もできる。
だというのに毎夜こうされていて、一度も命の危険を考えたこともなかった自分と、パッとそんなことを口走る彼女の迂闊さに呆れた。
「俺が自分につけられた傷の仕返しを、君に頼む腰抜けだと思うのか?」
『……いいえ』
「なら誰も死人を出さなかったこの傷は、ただの俺の不注意が生んだ傷だ」
『じゃあ、聞き方を変えるわね。不注意というからには、心ここに在らずだったわけでしょう? 何か考え事をしていたのね。誰のことかしら。昨日教えてあげた彼女のこと?』
どうやら返答内容が気に入らなかったのか、言及の手を緩めずに彼女が鼻先で尚も言葉を重ねる。その姿がどこか急かされているように見えて、彼女の身に迫る残された時間を思った。
「いや、強いて言うなら君のことだ」
『そう、私の……って、え……え?』
「君のことだ」
その瞬間、慌てた様子で身体を離した彼女の頬に朱がさした。霊体のくせに頬に朱がさす仕組みは分からないものの、そうとしか評する言葉がないほどに鮮やかに。毒婦だ妖婦だと社交界で蔑まれた徒花は、まるで野に咲く菫のように楚々として見えた。
『そ、そう……そうなのね、ふぅん。朴念仁な貴男にしては悪くないわね。昨日の女性を射止める授業の成果が出ているようだから、今夜も教えてあげるわ』
ツンと形の良い顎を反らしてこちらを見下ろす彼女を見上げ、理解した。あのときダルクに向けた殺意は、自分自身に向けたものだと。
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