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続々・彼女の場合。
しおりを挟む小さな友人に好かれるのは嬉しいけれど、時々彼女たちは人間の身にはあまる贈り物をしてくれる。それがわたしがもって生まれた魅了体質。
そのせいで長く恋愛事から距離を置き、それなのに身に憶えのない修羅場に巻き込まれることも日常的だった冒険者時代。昔から憧れの人と相思相愛になれるだなんて小説か戯曲の中のことで、夢のまた夢だと思っていた。
それがまさか――、
『愛しています、私の魔法使い殿』
あの二ヶ月前に心臓を止められそうになった言葉。絶対に手の届かないと思っていた先生から告げられるだなんて、思ってもみなかった。あの二ヶ月の出来事は、これまでの人生であった嫌な色恋沙汰の有象無象を消し飛ばすだけの威力に満ちていた。
だから一見のお客に卑猥な言葉を投げかけられて、小さな友人達に頼んで“身包みを剥いで自警団の前に置き去りの刑”に処した後の荒んだ心でも、未だに思い出すだけで心の中が浄化される気がするのね……。
その日にあった嫌なことはなかったことに。嬉しかったことは次に先生が来店してくれた時に話そうと思って、もっと嬉しいことに昇格される。例え先生が次に来店してくれる日が分からなくても、今日も今日とて変わらず自分のお城でシェイカーを振るのは前ほど辛くない。
とはいえ本音を言えばドアベルが【ロン】と鳴る度に、内心がっかりして“いらっしゃいませ”と業務用の笑みを張り付けるのは、たぶん《恋》を知ってしまえば仕方がないのよ。
そんな店主としてはどうかと思う言い訳を心の中でしながら、開店前の恒例業務、おつまみ用のナッツをお酒の種類別に仕分けていた時だった。
わたしの周囲で漂っていた小さな友人達の気配がふわりと暖かなものを帯びる。彼女達は昔からこうして、何か楽しいことを報せるために気配で教えてくれるから、今夜も良いことなのだろうとは思っていたけれど――。
たったそれだけでお酒の瓶を覗き込んで、髪型と化粧の確認をするのは期待しすぎかしらと、自分の所作に苦笑してわざと前髪を無造作に掻き上げる。それくらいにわたしの待ち人は姿を見せない人だから、今夜もきっと普段は珍しい団体さんか知人の来訪に違いない。
ホワホワと暖かな小さな友人達の気配に“ふふ、分かってるわ。何か良いことがあるのよね? 教えてくれてありがとう”と声をかけた直後、ドアベルが【シャン】と音を立てた。
その瞬間掻き上げた前髪をサッと直して“お帰りなさい、先生”と弾む声は抑えようがなくて。さっきまでの落ち着きはさっさとかなぐり捨てた。入口付近でこちらを見つめて穏やかに微笑んでくれる先生の姿に、心臓がバクバクと音を立てる。
嬉しいはずなのに、この瞬間に死ぬのではないかと思うくらいに緊張しながら“ほら、先生お疲れでしょう? すぐにカクテルを用意するから早く席にかけて。そうしたら今回の冒険のお話を聞かせて欲しいわ”と椅子を勧めれば、彼はわたしの目の前の席に腰をおろしてくれた。
以前までなら一つ隣の席にかけることが多かったから、これも二ヶ月前の奇跡のお陰かもしれない。緊張で震えそうになる手でナッツを提供し、先生用にブレンドしたお酒を入れたシェイカーをシャカシャカと振る。
耳を傾けるようにしながら、先に出されたつまみのナッツを口に運んでいた先生が、不意に「好みの味だ」と笑うから嬉しくなって“当然ね。だってそれは先生のことを考えて選んだのだもの”と、可愛気を出そうと思ったはずが微妙に小生意気になって。
久々のそんなやり取りに何となくお互い気恥ずかしくなり、先に視線を外した先生が店内照明を見上げた。ダークブラウンの髪に淡い照明の灯りが落ち、眼鏡の縁が冷たい輝きを放つ。横顔を見るのも好きだけれど、そのことを少しだけ残念に思ったのもつかの間で。
すぐにこちらへと視線を戻してくれた先生と視線がぶつかり、慌てて誤魔化すように微笑んでしまった。
すると先生はシェイカーを振るわたしにもよく見えるように、カウンターの上に今回の採取で持ち帰った戦果を一つずつ並べて見せてくれる。前回は少しでも長く先生を店に引き留めようと喋り続けるだけだったから、肝心の採取結果についてのことをほとんど聞いていなかったもの。
思わず“素敵な気配がする欠片ね、先生?”と、子供っぽい興奮を抑えて訊ねれば、彼は生徒に質問された教師の如く前回と今回の二度立て続けに訪れたという、大昔に滅んだ国の廃城に眠る古代魔術について語ってくれた。
そこで目にした数々の古代魔術について、先生が立てた考察を交えながらもお酒で滑らかになった舌でスラスラと語る。その耳朶を心地よくくすぐる低い声音に、彼が帰って来たのだという幸福感が胸の内を締め付けた。
その内の幾つかについては、実際に先生が呪文として組み立てたものを実演して見せてくれ、わたしは彼が紡ぎ出す術式の一つ一つに目を奪われる。けれど憧れの中に眠る魔法使いとしての知的探求心が、彼の作り出す幻術の魔術構成を暴かせようとする。
勿論先生もそんなわたしの思惑に気付き、その唇が緩く弧を描く。心地良い緊張感が店内に満ち、わたしを取り囲む小さな友人達が楽しげにさざめく。すると先生は、最後まで触れていなかった石版の欠片をカウンターの上に置いてなぞり、目にも鮮やかな夕陽を描き出してくれた。
抽象的な表現であるにも関わらず一目で夕陽だと分かったのは、わたしが一番彼の存在を捜す時間帯だったからかもしれない。店を開ける少し前に空を見上げて、今頃先生がどこを旅しているのか……そんなことを考えている時間帯。
それは街中から見えるどんな夕陽とも違い、ここではないどこかへの望郷の念にも似た感情を呼び起こす。深い深い紺色はともすれば恐ろしくすらあるのに、目を見張るような鮮やかな朱色が浸食されていく様は、互いに思慕を含んでいるかのようで。
逃れられずに塗り潰しあって一つになることが、当然であり、必然であるような美しさだった。賞賛の言葉を述べようと開いた唇からは、けれど“……綺麗……これは夕焼けね、先生?”という子供っぽい感想で。
自分の語彙の少なさに歯噛みしていると、カウンター席に座った彼が照れくさそうに「ありがとう」と微笑んでくれたから。
朱色に輝く夕陽の余韻を感じながら“どういたしまして”と口にするのがやっとだった。見守る先で宙に溶けて消えた夕焼けの幻影から、先生が視線をカウンターの上に並べられた石版の欠片に落とす。
慈しむように目を細めて見つめられる欠片達が羨ましくて、つい“わたしも先生とこんな夕焼けを見られたらいいのに”と口から零れてしまう。本当にそれはただのうっかりで、間違っても子供じみた我儘のためでは――……なかったと信じたいのだけれど。
うっかりだろうと言ってしまったものは仕方がない。運が良いことに先生の注意は石版の欠片に向いているのだから、子供っぽいわたしの独り言なんて聞き流してもらえたかも?
――と、そんなことを考えて何でもない風を装っていたら……。
「今の話を整理すると……ドロテアさんは、私と一緒にどこかに出かけたい、と。そう思ってくれていると解釈すれば良いのかな?」
そう、ポツリと。本当に小さく先生が口にした言葉にそぐわないほど、大きく心臓が高鳴る。ねぇ、先生。どういう気分でその言葉を口にしてくれたの? もしかして子供っぽいと呆れている? 遊びで出かけているんじゃないと怒ったかしら?
――それとも、それともよ、先生?
もしもわたしの勘違いでなかったら……その言葉に頷けば、貴男はここから連れ出してくれるのかしら、なんて。本当はとっても言いたいけど、言い出せるわけがないじゃない。
でもせっかくのチャンスを気付かないふりをするのも勿体ないと、しばらくは手にしたシェイカーをクルクル弄んでいたのだけれど……やっぱり黙っているのなんて無理だわ。
ここは勇気を出して素直に言うのよドロテア!
――と、意気込んだのに。ようやく口から出せたのは“その、先生が研究でお忙しいのは分かっているのよ? でも、それは……い、一緒にどこかに行けたら良いなとは、思っていて……子供みたいよね、ごめんなさい”という、もう少し踏ん張り切らないと伝わらないような内容で。
だけどまさか先生の口から「ああ、いや――……そうではなくて、こんなオジサンの私と出かけたいと思ってくれるとは、と。少し年甲斐もなく嬉しくなってしまってね」なんて言葉を聞いてしまったら、もう……!
腰砕けになってカウンター内にしゃがみ込んだわたしを心配してくれたのは嬉しいけれど、その後の怒濤の無自覚な褒め殺しに、危うく天に召されてしまうところだったわ。
極めつけは「では、どこか行きたいところはあるだろうか? 私は朴念仁だから若い女性が楽しめる場所は知らないんだ。だから出来ることなら、君の楽しめる場所を教えてくれるとありがたい」という言葉で。
わたしはこの幸運を今度こそ逃してはいけないと思って、なけなしの素直さをありったけはたいて“それなら……どこだって大丈夫だわ。だって先生の好きな場所が、きっとわたしの好きな場所だもの”と答えた。
そうして勇気と素直さを完全消費したわたしに、先生は「それなら是非、さっきの夕焼けを一緒に見てくれますか?」と、眼鏡の奥の瞳を和らげてそう告げてくれたのだ。
***
先生にお願いして準備期間を三日取ってもらったわたしの最後の仕事は、カウンター席が七席と、ボックス席が一席だけのわたしの小さなお城に《店主、三ヶ月間の冒険旅行に出かけております》という、ここでお店を開いてから初めての長期休暇の案内をかけることと。
小さな友人達の《お留守番》組を選抜してお城の守りを固めてもらうことだ。そのどちらを片付けても、まだ先生との約束の時間まではだいぶ時間が余っていたものの、わたしは弾む足取りで玉石造りの階段を駆け上がり、待ち合わせ場所の広場に向かおうとしたのだけれど――……。
「あ、いや……まだ約束の時間に早いのは分かっていたのだが……何となくこちらに足が向いてしまってね。私はこのまま街の散策をしてくるから、君もゆっくり準備を済ませて来てくれ」
階段を上ってすぐに鉢合わせてしまった先生は、わたしを見てほんの僅かに気恥ずかしそうな微笑みを浮かべてくれた。これは、三日前に引き続いての自惚れかもしれない。
だけど最近前より素直に言葉にすることでもらえるご褒美に気付いたから、勇気を出して“わたしも、もう準備をすっかり済ませて暇を持て余していたの。だから、あの……いつでも、い、今すぐにだって出発出来るの、よ?”と提案してみたら。
どうしたって小生意気な始まり方をするわたしの言葉に、先生が「そうか。では……早速旅の同行を申し込んでも?」と、大人の対応をしてくるのがちょっとだけ悔しくて。
随分と昔、籠の鳥であった時にそうしたように、スイと手を伸ばして“では、エスコートして下さる?”と、内心何やってるのと焦りながら微笑んで見せれば。彼はそんなわたしに向かって「勿論、私でよければ喜んで」と応え、差し出した手の甲に口付けを落としてくれた。
――仕掛けたはずが、返されて。
懲りずに顔を覆ってしゃがみ込むわたしのことを心配してくれる先生は、本当はとても悪い魔導師なのかもしれないわ。
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