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★3★ わたしのために贈られる刺繍とこれから。
しおりを挟む五歳下の弟は本当に困った愚か者だと思う。それを本当の意味で実感したのは一ヶ月前の夜会があった日のことだった。
あの日は五ヶ月後に控えていた弟の式の打ち合わせのために、まったく気乗りはしなかったものの、再三の呼び出しを受けて実家に戻っていたのだが……まだ打ち合わせを始めてそう経っていない時分に弟を乗せた馬車が戻ってきたのだ。
驚いた両親と共に玄関ホールまで出迎えに行くと、何故か弟は頬を腫らして盛大に鼻血を出していた。慌てて暴漢にでも襲われたのかと問いただした両親に向かい、弟は『あの地味で刺繍以外に能のない女に殴られたんだ!』と喚いた。
その言葉を弟の口から聞いた直後、思わず脊髄反射で無傷だった側の頬を殴り付けていた。今までは兄弟喧嘩も口でしかしたことがなかったのに、だ。
あまり身体を鍛えていない弟は壁際まで吹き飛び、頭をぶつけて気絶した弟を前に母は悲鳴をあげ、父は深い溜息をついて『まさかここまで愚かだったとは』と呟いた。
最初こそ身分差をお互いに感じていた両家の関係が、この十年の間に軟化して良好なものに変わっていったことに油断していたのだ。子爵家と男爵家。家格は違えども対等だと教えていたのに、弟はいつの間にか選民意識に毒されていた。
そこからは挙式の話ではなく、婚約を破棄されるだろうことについての謝罪と賠償の話に切り替わった。当然こちらがフェルディア家に対して全面的に賠償する側としてだ。
弟も昔はどこに行くにも後をついてくるような甘えたで、家が傾いて大変な時も家族の心を癒してくれるような存在だったのに……いつの間にか他者の心を何とも思わない人間に成り下がっていた。
しかしそのことについては弟のせいばかりではなく、諌められなかったわたし達家族にも罪がある。
二人とは五歳離れていたので当時わたしはすでに学園に通い、寮で生活していたせいでテレサ嬢との交流は薄かった。時々遊びに来ている姿を見かければ挨拶もしたし、弟と一緒に彼女と庭でお茶を飲んだりもした。
でもそれだけの関係で。どこかいつも眠たげな表情や、たまに見せる可愛らしい笑顔に温かい気持ちになりはしても、たまのわたしの帰宅にはしゃぐ弟との扱いに差はなかった。
いつ頃からか彼女は刺繍を嗜むようになり、時々金運を運ぶ蛇の脱け殻といった斬新な刺繍を披露してくれるようにもなった。
どちらも可愛い弟と妹のようなもの。その思いに嘘偽りはなかった。
ただそれもすでに没落しかけているにもかかわらず、両親の子爵家であるという意地で、長男のわたしとの婚約にならなかったという事実に気付くまでで。何が切っ掛けだったかは忘れたが、気付いてしまってからは、一刻も早く彼女の家に援助してもらっている金銭を返さなければと思った。
時は流れ、学園を卒業したわたしは騎士団に入って弟の学費を稼いだ。弟と彼女の歪な関係が少しでもまともな婚約者として世間に見られるようにと焦った。それは両親にしても同じことで、誰もその間の二人のことを見てはいなかったのだ。
――思えばあれが誤りであったのだと思う。
学園で誰に何を吹き込まれたのか、自身を担保にフェルディア家から金を借りていると勘違いした弟は、次第にわたし達の話を聞かなくなった。それでも彼女だけは弟に寄り添おうと刺繍を贈り続けてくれていた。
蛇の脱け殻がバラになり、蝉の脱け殻が獅子になる。それはまるで小さかった蕾が綻んで大輪の花を咲かせるように艶やかに。
しかし彼女の成長に合わせて段々と様相を変える刺繍達は、荒んだ生活を送る弟の目に止まることはなかった。そのことに兄としての情が揺らぎ、男としての嫉妬が勝った時には、激しい自己嫌悪で吐き気を覚えた。
刺繍を贈り続ける彼女の姿を見るのが辛く、ほとんど屋敷に戻らず宿舎で過ごすようになり……結果としてあの夜の事件を引き寄せたのだ。一連の婚約破棄騒動は、一族揃っての犯行だったと言っても過言ではないだろう。
挙げ句、事件の翌日にこちらから謝罪に訪れようとするより前に、フェルディア家から婚約破棄の書類を持ち込まれる不手際。
あの時は流石に謝罪に行く前に兄弟揃って死んで詫びるべきか本気で悩んだが、今となっては死を覚悟した上で恥を忍んで訪ねて良かったと思う。謝罪と告白というわけの分からない行動を取ったわたしを、フェルディア家の人々は赦し、彼女との婚約まで認めて下さった。
放心状態のわたしが持ち帰った得難い僥倖に両親は泣き、自身のこれからの処遇を聞いた弟は違う意味で泣いた。今は訓練が地獄と名高い第二騎士団でしごかれている。本当に馬鹿な奴だ……と。
待ち合わせに指定された場所で色々と考え込んでいる間に、いつの間にか時間になっていたらしい。街角に一台の馬車が停まり、そこから降りてきた待ち人の姿に慌てて姿勢を正す。
通りを渡ってこちらに歩いて来るのを待てずに迎えに行けば、彼女は嬉しそうに微笑んで待っていてくれた。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんオーランド様。今日はこちらを刺繍してみたのですが、よろしければ受け取って頂けますか?」
そんな前置きと共におずおずと手渡されたハンカチには、雄々しく翼を広げた鷹の姿が刺繍されている。相変わらず見事な出来映えだ。
「いや、わたしも今来たところだが……ありがとう、テレサ嬢。しかし君から贈られる刺繍なら喜んで受け取らせてもらうと言っているのだから、毎回そう付け加えないでくれ」
「そう仰って頂けるのは嬉しいですけれど、それならオーランド様もです。もうすぐ式を挙げるのですから、どうか私のことはテレサとお呼び下さいませ」
やや頬を染めて早口に告げられた内容に、思わずこちらまでつられて赤面しそうになった。確かにもうあと四ヶ月もしないうちに、本来は弟と挙げるはずだった式の予定をそのまま流用した結婚式がある。
彼女も少しは楽しみにしてくれているのだろうかということと、彼女の口から敬称を付けずに名前を呼んで構わないという許しが出たことに、年甲斐もなく浮かれそうになる自分がいた。
「あ、ああ……そうか、そうだったな。すまない、テレサ。ではわたしからもこの刺繍のお礼に何か贈らせて欲しい」
何とか平常心を保ってそう答えれば、彼女は「それでは、新しい鉄扇を贈って下さいますか?」と可愛らしく小首を傾げてわたしを見上げる。その拍子に肩にかかる色素の薄いブロンドの髪が流れ、暖かみのあるダークブラウンの双眸が微笑みの形に細められた。
思わず髪に触れたくなる衝動を理性で殺し、会話の内容に集中するために彼女の言うアイテムを思い浮かべてみる。
「鉄扇というと……弟を殴って折れたというあれか。護身用ならもう少し使い勝手の良いものを贈るが」
「ふふ、あれは護身用ではありませんわ」
「では何故鉄扇を?」
「お笑いになりませんか?」
「我が剣に誓って」
そもそも鉄扇に笑いどころがあるのか疑問ではあったが、彼女は本気で笑われることを心配しているのか、少しだけ躊躇いがちに唇を開いた。
「あの……厚物に刺繍を刺すのは、結構力が必要になるのです。ですから鉄扇を開閉させて指を鍛えていたのですわ。本当はあの夜に不要になるものだと思っていたのですけれど……今後は活躍しそうだと思いまして」
理由が可愛らしすぎて心臓が不整脈を起こしかけた。軽く眩暈がする。おまけに自殺行為だと分かっていても確認したいことが一つあった。しかも拗らせきった醜い感情である。ただ、どうしても彼女の口から直接聞きたかった。
「それはその、わたしのために、だろうか」
こちらの言葉に一瞬何を問われているのか分からないという表情になった彼女を見て、急に臆病風に吹かれて“今のは忘れてくれ”と言いかけた直後――。
「他にどなたのために刺繍を刺すとお思いなのです? 私はオーランド様のおかげで初めて刺繍を心から“好き”だと言えそうなのに」
初めて刺繍を憎らしく感じると同時に、これ以上ない幸せを噛みしめながら無言で彼女に腕を差し出せば、テレサは柔らかく微笑んでその腕を絡ませてくれる。
「愛している、テレサ。これからはわたしだけに貴女の刺繍を纏わせて欲しい」
柄にもない愛の言葉で自家中毒を起こしかけたわたしに彼女がくれたのは、刺繍を生み出す十の指先の感触と、頬に触れる柔らかな唇の温度だった。
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