上 下
1 / 3

*1* 量産される刺繍入りハンカチの正しい使い方。

しおりを挟む

「誰があんな刺繍しか特技のない地味な成り上がり女と婚約したいと思う? 家のために仕方なくに決まってるだろ。まぁ、どれだけこっちが罵っても文句も言えない気弱なとことかは、結婚した後によそで遊べて良いと思うけどな」

 それは夜会の熱気に当てられて、外の空気を吸おうと出た庭園の片隅で耳にした言葉。聞き間違いようもないその声に、婚約して以来ずっと我慢していた何かがプツッときてしまいました。

 声の主はエドモント・ゴーティエ様。背中で結わえたダークブロンドに、女性に人気のある色気溢れるエメラルドの瞳に、均整の整った顔立ちと体躯。やや乱暴な物言いも、騎士団に籍を置く理知的な長男の対になっているようだと、周囲から容認されています。

 酒精が弱い気の抜けた麦酒色の髪と、どこにでもありそうなダークブラウンの瞳の、上にばかり伸びて丸みに欠けたパッとしない私とは大違い。

 そんな彼はゴーティエ子爵家の次男であり、今から十年前の七歳の頃から私とは婚約関係。我が家は商売で成り上がり、お金で男爵位を買った新興貴族。

 彼の実家のゴーティエ家は度重なる事業の失敗で財政が傾き、持参金の多そうな我が家……フェルディア家の長女たる私、テレサ・フェルディアに白羽の矢を立てたのでした。

 ちなみに彼の兄は五歳上のとても武骨でまともな方で、騎士としてお城に勤めていますが何故か婚約者はまだだとか。ちょうど同じ歳だったという理由と、次男という立場で弟であるエドモント様があてがわれましたが、人間的にはお兄様の方がずっと魅力的だと思います。

 そしてご家族が金策にお忙しくする中で、幼い彼に寂しい思いをさせたとの後ろめたさから、エドモント様は甘やかされたお坊っちゃんに成長したのです。まともな親の元でも極稀に現れる本物のモンスター。これぞマジモンですね。

 婚約者である相手のことを欠片も知ろうとしなかった彼は、今夜この時に至るまで気付かなかったようですが、本当のことを言えば私、刺繍は大嫌いです。ええ。幼い頃からチマチマしたことが嫌いで本来は大雑把。

 それでも彼が友人達に大きな顔をしてそんなことを吹聴できるくらいには、婚約してから今日まで頑張って練習して参りました。

 最初のうちは指を刺しているのか布を刺しているのか分からないほど、何度も刺繍針で思いきりよく指先を刺しては、血痕で汚れて渡せなくなってしまったハンカチを作ったものです。まさに血の滲む努力。

 どうせなら男に生まれて『世界を股にかける商売人に俺はなる!!』と、夢見がちなことをのたまって飛び回る兄について、海や山を越えて旅をしてみたかった。我が家の父は気の優しい入婿で、兄は豪胆な母にとても良く似ている。

 家のため? そんなのこっちだって同じです。私も家族は大好きですから。

 十年前、兄にはすでに将来を約束した義姉がいましたので、母が『これからは本格的に貴族相手に商売ってのも悪くないね』と言った時に、折よくゴーティエ家から打診があったのでそれに否はありませんでした。

 今年で十八歳になる彼の学園卒業を機に式を挙げる予定で……私も彼と学園に入学することもできたけれど、母曰く『貴族の行く学園なんて○ソ』で、父曰く『お前が行っても辛い目に合う』と反対されたことを思い出します。

 実際に彼の話を聞いて笑っているご学友達の会話を盗み聞けば、両親の心配は当たっていたようです。

 私もせめて一応貴族の子女らしくあれるよう刺繍を練習したり、学園を卒業した家庭教師をつけてもらって去年全ての学科の課程を修了したりと、結婚するからには貴族の流儀を学んだのに……どうやら無駄だったみたいだわ。

 結婚に夢がないわけではなかったけれど、貴族なのだから恋愛結婚でないのは仕方がないと割り切って、せめて結婚後に少しずつでも相互理解を深めていければ良いと思っていたのは、どうにも私だけだったのね。

「大体刺繍入りのハンカチなんて何の役に立つんだ? せいぜいトイレで手を洗った後か、汗を拭くくらいにしか使えないじゃないか。ああでも、テレサの刺繍は貴族受けは良いんだよ。おかげで“お針子令嬢”なんて呼ばれてるんだけどな」

 ……お酒で随分と舌が滑らかになっているご様子だわ。いつも私と会う時はつまらなさそうな顔で、口を開けば悪態ばかりなのに。あら、でもこれも陰口という悪態には変わりないのかしら?

「それにあいつ今夜みたいな夜会だと、いつも俺がエスコート終わって離れたら壁際で扇をパチパチさせてジッとしてるだろ? あれも卑屈に見えるっていうか、小心者っぽくて嫌いなんだよな。やっぱり成り上がり一族の者は駄目だな」

 彼の放った心ない最後の言葉で、その場にドッと笑いが起きる。自分のことまでなら平気だけれど、家族にまで侮辱が及ぶのならもう容赦はしない。

 私は物陰から出て大股でエドモント様の背後に近付きながら、長手袋を脱いで片手に持つ。そんな私の姿を見て驚いたご学友達の表情を訝かしんだ彼が、こちらを振り向いたのを見計らってその顔面に長手袋を投げつけ――……。

 手にしていたいつもパチパチと小心者っぽく鳴らしていた特注の鉄扇・・で、強かにその綺麗な顔を張り飛ばした。手首に頬肉の重みを感じた瞬間、薄く伸ばした鉄扇の骨が数本折れた気がするけれど、もう買い直さないでも良いわね。 

 しばらく何が起こったのか分からず地面に蹲っていた彼は、痛みに顔を歪めて私を見上げる。あらまぁ、私ったら……少し強く叩き過ぎたみたいだわ。

「お、おま……な、なんっ……!」

「つまらない刺繍の入ったハンカチを差し上げるのも今夜で最後になりますが、良かったですわねエドモント様。これでこの安っぽい手作りハンカチに、新しい使い道を発見できましたわ」

 骨がへし折れた鉄扇をよく手入れされた芝生に投げ捨て、声だけは優しく、けれど容赦なく鼻血を流す彼の鼻にハンカチを捩じ込んでやると、今度は彼のエメラルドの双眸から生理的な涙が滲む。

 白いハンカチがみるみる鼻血で赤く染まっていくことに満足し、まだ汚れていない部分で涙を拭ってやれば、ほんの少しだけ胸の中のドス黒い靄も治まっていく。ふう、スッキリした。もっと早くこうすれば良かったかしらね?

「エドモント様」

「な、なんだよっ……」

「聞き流して下さって構いませんけれど……厚物に刺繍を刺すのは、とっても指に力がいりますの。今夜の貴男が身に纏うようなものには特に。お別れの豆知識としてお持ち帰りになって下さいませ」

 ジャケットの襟と袖に施した刺繍を撫でてそう教えてあげると、彼はグッと怯えるように身を引いた。ああ、この人には言葉の痛みも物理の痛みも実地で教えてあげる必要があったのね。もう私の役目ではないけれど。

「お前……婚約者で子爵家の俺にこんなことをして、ただで済むと思ってるのか」

「ええ、勿論無料タダとは思っておりません。こちらは貴族の顧客も増えましたし、そちらも十年前とは違ってお家も傾いてはおりません。ですので今夜の慰謝料と婚約破棄に必要な書類は明日にでも手配致しますわ。それでは皆様ご機嫌よう」
 
 何も言えずにいる男性陣の前で拾い上げた長手袋をつけ直して、さっさと馬車で屋敷に戻り、両親に夜会での経緯を説明した。その後婚約破棄の書類と慰謝料を都合してもらうことができたので、何年ぶりかに大嫌いな刺繍をしないでぐっすりと休んだのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約者の姉に薬品をかけられた聖女は婚約破棄されました。戻る訳ないでしょー。

十条沙良
恋愛
いくら謝っても無理です。

いじめられ続けた挙げ句、三回も婚約破棄された悪役令嬢は微笑みながら言った「女神の顔も三度まで」と

鳳ナナ
恋愛
伯爵令嬢アムネジアはいじめられていた。 令嬢から。子息から。婚約者の王子から。 それでも彼女はただ微笑を浮かべて、一切の抵抗をしなかった。 そんなある日、三回目の婚約破棄を宣言されたアムネジアは、閉じていた目を見開いて言った。 「――女神の顔も三度まで、という言葉をご存知ですか?」 その言葉を皮切りに、ついにアムネジアは本性を現し、夜会は女達の修羅場と化した。 「ああ、気持ち悪い」 「お黙りなさい! この泥棒猫が!」 「言いましたよね? 助けてやる代わりに、友達料金を払えって」 飛び交う罵倒に乱れ飛ぶワイングラス。 謀略渦巻く宮廷の中で、咲き誇るは一輪の悪の華。 ――出てくる令嬢、全員悪人。 ※小説家になろう様でも掲載しております。

公爵令嬢の私を捨てておきながら父の元で働きたいとは何事でしょう?

白山さくら
恋愛
「アイリーン、君は1人で生きていけるだろう?僕はステファニーを守る騎士になることにした」浮気相手の発言を真に受けた愚かな婚約者…

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

婚約者が私の妹と結婚したいと言い出したら、両親が快く応じた話

しがついつか
恋愛
「リーゼ、僕たちの婚約を解消しよう。僕はリーゼではなく、アルマを愛しているんだ」 「お姉様、ごめんなさい。でも私――私達は愛し合っているの」 父親達が友人であったため婚約を結んだリーゼ・マイヤーとダニエル・ミュラー。 ある日ダニエルに呼び出されたリーゼは、彼の口から婚約の解消と、彼女の妹のアルマと婚約を結び直すことを告げられた。 婚約者の交代は双方の両親から既に了承を得ているという。 両親も妹の味方なのだと暗い気持ちになったリーゼだったが…。

[完結]婚約破棄、またですか?今度は私の妹……それはまぁ御愁傷様 

日向はび
恋愛
「俺はアデリーナのことを好きになってしまった。だからリレイナ……お前との婚約、破棄させてもらう!」そういつものように言ったのは私の婚約者。彼は恋する人で度々婚約破棄を言ってくる。しかも今度の相手は妹のアデリーナ。「その子で本当にいいのですか?」「くどい!」人の話を聞かない彼。そして満足そうに笑う妹。ああ、知らないですよ。どうなっても。

婚約破棄されたショックですっ転び記憶喪失になったので、第二の人生を歩みたいと思います

ととせ
恋愛
「本日この時をもってアリシア・レンホルムとの婚約を解消する」 公爵令嬢アリシアは反論する気力もなくその場を立ち去ろうとするが…見事にすっ転び、記憶喪失になってしまう。 本当に思い出せないのよね。貴方たち、誰ですか? 元婚約者の王子? 私、婚約してたんですか? 義理の妹に取られた? 別にいいです。知ったこっちゃないので。 不遇な立場も過去も忘れてしまったので、心機一転新しい人生を歩みます! この作品は小説家になろうでも掲載しています

氷の王弟殿下から婚約破棄を突き付けられました。理由は聖女と結婚するからだそうです。

吉川一巳
恋愛
ビビは婚約者である氷の王弟イライアスが大嫌いだった。なぜなら彼は会う度にビビの化粧や服装にケチをつけてくるからだ。しかし、こんな婚約耐えられないと思っていたところ、国を揺るがす大事件が起こり、イライアスから神の国から召喚される聖女と結婚しなくてはいけなくなったから破談にしたいという申し出を受ける。内心大喜びでその話を受け入れ、そのままの勢いでビビは神官となるのだが、招かれた聖女には問題があって……。小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

処理中です...