さようなら、初めまして

れい

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私が興味を持たないような、話

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そういえば、好奇心は猫をも殺す、と最初に言ったのは誰だったんだろう。かの人はどんな体験を経て、それを説いたのだろうか。
朝から雨が降る、そんな日曜日だった。




「行ってくるね」

そう言った彼女を、私は行ってらっしゃい、と見送った。彼女は月に一回日曜日に、二時間ほどどこかへ出かける。前回は五月だった。別に詮索する気はなかった。一緒に暮らし始めてから、それは当たり前だった。
実はここまで伏せていたのだが、もう一つ、詮索する気がなかったことがある。
彼女の両親が使っていたという、寝室だ。
たぶん私だけではないと思うのだが、彼女の母親が腹を刺され、父親が自ら首を切った現場に、入ろうとは言う気は一度も起きなかった。
別に、入ってほしくない、と彼女が言ったのではない。私なら入ってほしくないと思うから、彼女もきっとそう思うだろうと思って、私は入ろうとすらしなかったのだ。

たぶん私たちは、少し似ている部分がある。今はもう本当に、見た目だけならそっくりだ。
だけど私は思い出した。元々彼女のことは、上下の対極ではなく、裏表の対極のように感じていたのだ。

彼女は、このヒエラルキーとは違う次元で生きている。
それがもし、あの41人の、小さな階層組織なんかよりも、もっと大きなものの裏側だったなら、どうだろう。

私は開かずのドアを開けた。彼女が入っていくところも、見たことがなかった。たぶん事件があったときみたいに、消えない血だまりの跡があることを私は覚悟していた。
だから、目の前に広がる現実に胸を撫で下ろした。血だまりもない、下手なホテルより綺麗な一室だ。大きなベッドと、一台のデスクトップパソコンがあって、その横に家庭用プリンターが、銀色の小さなラックに乗せられていた。生活感のない、簡素な部屋。遺品の整理とかは、たぶんとっくの昔に終わっていたのだろう。
私はそこで、止めればよかったのだ。だけど、愚かなこの手はもうクローゼットの取手を引いていた。
軽い音がする。足元に転がってきたのは、少し大きな、注射器。
私はそれを目で追って、初めて自分の立つ床の色が、さっきより濃いことに気付いた。
消えない血だまりは、やっぱり消えなかったのだ。褪せた床は、薬剤で血だまりを消した跡だ。
そしてクローゼットの中には、彼女が着なさそうな、大人な色っぽい女性が着そうな服と、男性物のワイシャツ、スーツがかけてあった。
普通のクローゼットに見えたが、ざっ、と音を立てて服を掻き分けると、下にはカラーボックスが、何個も並んでいた。
中身は本だ。題名を追う。
医学のすべて、総合医学、医療への道、よくわかる人体構造、人体解剖学、血液疾患について、血液細胞形態学、標準採血法…。
読む前から分かる、難しい本だ。なんだかすごく頭が痛くなってきた。彼女は医学部に進学するのだろうか、だから理系に進んだのか。その疑問が間違っているのを、私は分かっていた。
まとまらない思考で、背表紙の書かれていない、黒いファイルを取り出した。
紙の下に、やたら長ったらしいURLが、最後まで表記されずに印刷されている。インターネットから、拾ってきた情報だ。
血液の基礎知識と、近所の献血の日程表、献血について、献血後の注意、採血のやり方。
さっき転がってきた注射器を見る。奥にもう一つ、箱がある。膝に黒いファイルを抱えたまま、開けた。空の注射器と、使い捨ての針と、チューブ、透明なプラスチックの保存袋。
ああ、なんだろう、嫌な想像しか出来なくなってきた。あの保健室の先生のせいだ。
ファイルには、まだ続きがあった。
物質の引火点と発火点、熱可塑性樹脂の基礎知識、身近な化学物質、第一石油類一覧、アセトン、アセトアルデヒドについて。私は紙を捲る。
紙質が変わった。インターネットの情報ではない。携帯番号と、発信時刻、着信時刻が列になって並んでいる。興信所、という単語が浮かんだ。携帯番号の違う箇所だけ、妙に浮き出て見える、不思議な現象。さらに次のページには、男と女が抱負を交わす写真が大きく映っている。誰だろう。この女は、一番古い記憶の彼女によく似ていると思った。でも今の彼女とは似てないと思った。まだページは続く。紙はルーズリーフに変わった。

そこに手書きで書かれた文字は、まだ二割くらいにしか満たないこの人生でもたぶん、私が一番多く目にしている文字、私の名前だった。
これは私のプロフィール。
身長、体重、趣味嗜好、健康診断の結果、体力測定結果、高校時の交友関係、中学時の交友関係、小学四年生から六年生までの交友関係。
何なら小学四年生以降の、所々穴あきの自分史だと言ってもいいほど、それは詳細だった。それ以前がないのは、私が小学四年生の時に転校したからだと、直感的に思った。共通の知り合いがいない中、わざわざ自分にしか分からない記憶を誰かに話す機会なんてなかった。ページをまだ捲る。ルーズリーフの端で指先を切った。丸い血が紙についたが弾かれる。文字の筆圧が少し濃くなった。
それは私が彼女にしか話していない、小さい頃の自分の記憶だった。泊りで勉強会をした日の、夜中に布団の中でした話だった。まだある、まだページを捲る。
高校一年生の頃の、クラス分け表。名前に丸をつけられている人は、私も知っている人の名前だった。ちがう、私が知っている人間にだけ、丸がつけられていた。
特別仲のいい友達は、別紙で記録がつけられていた。
あの日先に帰った彼女が、何故私がダンス部の友達と、いちごフラペチーノと、抹茶フラペチーノを飲んだことを知っているのだろう。
あの日期末テストの打ち上げに来なかった彼女が、何故私がアイドルグループの歌を、振り付きで踊ったことを知っているのだろう。

ガチャ、とドアの開く音がした。

私は大きく肩を揺らす。
ファイルを開いたまま、私は振り返る。
まだ一時間くらいしか経っていないと思ったのに、彼女は首を傾げて、綺麗に笑って、私を見下ろしていた。
いつもと変わらないその様子だったが、少しだけ見覚えがあった。
あの体育祭のツーショットの写真と、同じ目をしている。

「ねぇ、少し歩きに行こうよ」

雨が降っているよ、と私は拒めなかった。変な引力に導かれるようにして、差し出された、私の財布とスマホと、彼女の家の傘を受け取る。
行こう、とドアを開けた彼女の手に、いつもの白い手袋がないのが、とても目に付いた。






「私はね、とても汚れていたんだって」

ラジオの雑音のように打ち付ける雨音の中、彼女はいつもより少し大きい声で話し始めた。私は相槌もせず、その横顔を見る。彼女は本を読んでいるかのように、私を気にもとめず話し続けた。

「母親の浮気は二度目だった。私は、一度目に生まれたんだ。
父親はね、……あぁごめん、自分で首を切った人のことね。あの人は、私が幼稚園の頃から、汚い汚いってずっと言っててね。私も私を汚いんだって思ってた。母親はもっと汚いと思ってたけど。小学生の頃くらいかな、父親はひどく酔っ払うようになって、お酒が入るとね、あの人は母親に、次浮気したらお前を殺して俺も死ぬって、ずっと言ってた。作り物のお話の中の、台詞みたいだよね。でもまさか、本当に自分で首を切れる人だとは、私も思ってなかったんだよ?私としては警察行きでも、精神病院行きでも充分だったんだけど」

ふふふ、と彼女は笑う。いつもと何も変わらない。私は雑談をするかのようなその横顔から、目が離せなかった。

「火事はさ、あれは半分ラッキーだったんだよ。学校にあって燃えやすい物質ってアセトンかアセトアルデヒドしか私、分からなくて。
油と混ぜた後にどんな風に燃えるかも分からなかったし、いざ混ぜてみたらなんかちょっと変な臭いになっちゃってさ。
でもあなたの母親、マニキュアとかしないでしょ?だから除光液みたいな匂いには鈍感だといいなって。だからあの日、晩ご飯が揚げ物だったのは助かったよね。簡単に火がついたみたい」

母親は食品加工のパートだった。当然マニキュアは禁止されていた。
くるくる、と彼女は楽しそうに傘の柄をいじる。小さな水滴が雨の中斜めに飛んだのが見えた。
彼女はまだ続ける。

「あなたもラッキーだったのは、両親どちらも一応まだ生きていることだよね。それは私の、アンラッキーだ。じゃああなたにとって、一番アンラッキーなことって、何だったのかな」

前ばかり見て話す彼女と、ようやく目が合った。心の中を、見られていると思った。彼女は私のことを何でも知っているよ、という目をしていた。
アンラッキー。私は自分の直近の出来事を振り返って行く。あの開かずのドアを、開けなければよかったのか?あの夏休み、彼女の家に行かずに、叔母の家に行けばよかったのか?彼女にLINEをしなければよかったのか?期末テストの後、クラスの打ち上げに、彼女を無理に連れて行けばよかったのか?そもそも行かなければよかったのか?その前に、彼女を家に呼ばなければよかったのか?進級した時、彼女に声をかけなければ、よかったのか?落ちたペンケースを、拾わなければよかったのか?
過去へ過去へと記憶を遡る。だけどどの分岐で道を逸れたら、今彼女と雨の中歩いている現実が無くなるのか、分からなかった。どこで逸れても、ここに辿り着いてしまうように感じた。
あのファイル、見終わったんだよね、と彼女は首を傾げて問う。反応を確認していた。私はうんともううんとも言わなかったが、彼女は満足げに、目を細めて笑う。いつもの笑い声は、上げなかった。
知ってる?と聞いてくる彼女はとても意地悪だ。その先に続く情報を、私が知らないのを彼女は知っている。

「人間の体重ってさ、1/13が血液なの。8%もないんだよ。だからあんまり意味ないかなって最初は思った。それに私もあなたもお互いちょっとずつしか血は抜けないからさ、私の体内のあなたは8%なんかよりも全然薄くなっちゃうんだけど。だけどね、そうすると少しだけ、物理的にあなたに近付けたような気がして」

照れ臭そうに、彼女は笑った。男子高校生がデートに誘うのに失敗したような、ちょっとした気恥ずかしさを覚えるような顔だ。
私も彼女に、そんな顔を向けたことが、確か一度だけある。

「あ、そうそう、勘違いしてたかもしれないけど、今日は献血センターに行ってないの。最後に行ったのは体育祭前だったかな?」

と彼女は恥ずかしさに話題を変えようだった。今日の彼女はやけに饒舌だ。出会った頃、いつも話しかけていたのは私だったのに、立場が逆になったみたいだ。
色んな表情で笑う彼女を、私は知らなかった。いつも彼女は同じ顔で、綺麗に笑っていたから。
彼女の表情が、話し始めた時のものに戻る。ああ、この顔は、別に彼女の笑顔ではなかったのか。

「私はさ、汚い自分が嫌いだったの。だから綺麗だと思ったあなたを選んだの。
でも、このままあなたの血をもらってもさ、やっぱり私は私でしかなくて。
綺麗なあなたにはなれないんだよ」

寂しそうだった。しょんぼりしている。思わず慰めたくなるほどに。
でも私は、自分の中の欲を優先した。知りたいという欲、純粋な好奇心。
ねぇ、と私は、外に出てから初めて彼女に語りかけた。

「私のどこを綺麗だと思ったの?」

予想外の質問だったのか、彼女はただただ瞬きを繰り返す。相変わらず、まつげが長い。
彼女は、可笑しそうにふふふ、と、小首を傾げるようにして笑った。
目を細めて笑う彼女の表情は見たことないものだった。そう、適切な言葉は、たぶん、恍惚として。

「自分の汚いところも、きちんと知っているところだよ」

小さく、さようなら、と聞こえた。私が見とれていた横顔は、少しずつ、スローモーションのように遠ざかる。
勘違いでなければ、何かに足を引っかけたんだと、思う。私のアンラッキーは、そのまま道路側に倒れたことだろうか。倒れた顔面に、大型トラックの太いタイヤが迫ってきたことだろうか。だぶん、どちらでもない。私は知っていた。この道は、大型トラックの往来が多い、国道だ。
赤い何かの隙間から、歩道で転び、座り込んでいる彼女の顔が見えた。
ああ、その顔知ってる。ニュースで見たよ。マスコミの隙間から撮られてたの、知ってる?

最後に見えた彼女は、雨の中傘を差すこともせず、ひどい顔で、泣いていた。
だけど、それはとても綺麗だった。

残酷で、無邪気で、純粋な彼女は、切り取った芸術みたいに、とても美しかった。




『次のニュースです。
昨日午前、国道○号線にて、女子高生が大型トラックに轢かれる事故が起きました。
警察は、一緒に歩いていた友人の証言と身分証により、被害者をーーーさん(17)であるとし、捜査を続けています。


次のニュースです。
△△動物園に、新しいパンダの赤ちゃんがーー』





八月の、ひどく蝉がうるさい日。
私は二年四組の教室にいた。
机を探していた。厳密に言うと、左下に細く刻まれたバカ、の文字をだ。
いつも正面か、右側からしか私を見ない彼女は、きっと知らなかったはずだ。彼女の机の、右上に細く刻まれた文字を、私が真似して、対極に刻んだことを。
でも私は知らなかった。あの二文字はしょんぼりしていた彼女が刻んだんだと、私は勝手に思い込んでいたのだ。
もう知らない下級生のものとなっている机なのだが、それはあまり関係なかった。机は教室の真ん中の位置にあった。私がバカと刻んだ日、彼女が座っていたのと同じ場所。やっぱり運命だと、思った。
健常な新陳代謝の場合、古い細胞が新しいものに変わるまで、三か月がかかるという。
私の中の彼女は、たぶんもう残っていない。だけど、それもあまり関係なかった。
これは単なる、私の、私による、私のためのだけの、儀式だった。

私はそっと、自分の机だったものの上に、一輪の彼岸花を添えた。

「さようなら、初めまして。私の名前はーーー」

語るように胸に当てた手に、もう白い手袋は必要ない。
そりゃそうだ、彼女となった私は、もう潔癖症ではないのだから。
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