6 / 8
オレンジ色の炎色反応
しおりを挟む結果として、期末テストの私と彼女のお泊まり勉強会はやって良かった。主に私にとって。
私も母親も、彼女に朝の電車はさすがに無理だと判断したので、彼女はその未知なる地獄を体験することなく、我が家でのお泊まり期間を終えた。それは母親のテスト期間だけよ、という学校までの計二時間の送迎がなければ、到底無理だった。この上なく有難い。
七月の下旬、赤いペンが付け加えられた私の答案用紙たちは、いずれも平均点を優に超えて戻ってきた。現代文だけ平均点を僅かに上回るだけだったのは、私に勉強を教えていた彼女も、そのくらいの点数だったからだ。
休み時間の度に点数を聞いてくる友達たちに、私は少し誇らしげに点数を見せた。実は二年生で勉強の出来は、ぐんと開く。苦手な人は、苦手な分野の点数をとことん落とす傾向にあった。その傾向が、彼らの文理選択を後押しする。
「どうしたの、中間よりも調子いいじゃん」
私の点数を見て、バレー部の友達は驚いていた。夏の大会を控えた友達は、中間よりも全体的に点数が下がっていた。部活に精を出す人は大概そうだ。夏休みにある各部の大会は、大事な青春。勉強よりも、手を抜きたくないものなのだ。
帰宅部だもんねー、とからかってくる友達にうるさいなぁ、と悪態づく私は、それでも口角を上げたままだ。実はね、とにやける口元に手を当てて、目を細める。
「優秀な家庭教師が、勉強を教えてくれたんだ」
「えー、何それ、ずるい」
本当にずるいと思っているのかはともかく、私の両肩を激しく揺らしてくる友達にも、今日は寛大だった。
たぶん油性ペンで顔に落書きされても、今なら許せる。いや、嘘だ。額に肉と書かれるのはさすがにやっぱ許せない。
教室の左前に座る彼女と、目が合った。小さく指でV字を作った私を、彼女はとても満足げに眺めている。
ありがとう、と小声で言ったのは、聞こえたのだろうか。
「打ち上げ、あそこでいい?駅前のファミレス」
「あ、二組がそこ行くって言ってたからやめたほうがいいかも」
「じゃあカラオケにするかー」
テストの返却も終わって、夏休みの前日。なぜかクラスで打ち上げをするのは、学年問わずの、非公式行事だった。部活のある人も、この日はみんなで補導時間ギリギリまで、ただくだらない話をしたり、公園を幼稚園児さながら無駄に走り回ったりする。解放感に身を委ねて、煙のように肺にたまって燻っていた鬱憤を、誰もが吐き出したがっているのだ。だから普段は数人のグループに分裂していても、その日はみんな謎の団結力を見せる。
いいよー、と複数のグループから声が上がると、手際のいい委員長は予約電話を入れ始めた。
六時半に南口ねー、と委員長が言い終わる間もなく、部活勢は元気よく教室を飛び出す。部活動禁止期間も合わせて約二週間、鈍った体を動かしたくて、しょうがないようだ。
その背中に元気だねぇ、と呟くと、小さくそうだねぇ、と彼女は返した。
「行かないんでしょ?もう帰る?」
「行かないけど、暇つぶしには付き合ってあげるよ」
夏休み前だしね、と彼女は言った。これは少し意外だった。感情をあまり見せない彼女だったが、夏休みとなるとさすがに気が緩むのだろうか。浮き足立って見える。
向かった図書室は私たちのような暇人で溢れていた。私だけ本を借りて、教室に戻る。彼女は自分の席に、私はその隣の男子生徒の席に勝手に横座りして、彼女の方を向きながら本を開いた。この間終わった、医療ドラマの原作だ。きっとドラマを見ない彼女だが、本だったら読むかもしれないから、面白かったらおすすめしてみよう。
私はページをめくりながら、目の前の、少し目を落として自前の本を読む彼女を盗み見た。気持ち悪く肌を撫でる温い風も、私より長い彼女の髪を揺らすのなら、悪くない。
ふと、彼女はどんな小説を読んでいるのだろう、と思った。通路一つ分の距離を隔てていた時も、教壇の前から見上げていた時も、小説の話をしたことはない。だって私は、普段漫画しか読まないから。小説には興味が無い。図書室の本を自ら借りに行ったのは、今回が初めてだった。
遠く蝉の声が鳴く。はしゃぐような笑い声と、水の音が中庭でしていた。遠いどこかで、運動部がランニングするときの、あの謎の掛け声が響いていた。
ねぇ、と私が声をかけると、彼女は、ん?と、視線を上げる。どうしてだろう、私は、ダンス部の友達といちごフラペチーノを飲んだことを、思い出した。
「いつも、どんな本読んでるの?」
これまで彼女の本に興味を示したことがなかったからだろうか、少し驚いてから、彼女は何故か、悲しそうに笑った。
「あなたが興味を持たないような話、だよ」
逆光の中なのに、笑う彼女の瞳が僅かに光った。
彼女の言葉はとても不思議な力を持つことがある。悲し気に、でも優しく笑ったそのひと言で、私は口から自然と、そうなんだ、と呟いていた。胸に沸き上がっていた興味は、彼女に溶かされて風がさらっていった。
医療ドラマの原作への興味も、溶かされてしまったのだろうか。確かに数時間、文字を目で追って、ページを捲っていたのに、中身はドラマと同じ部分しか覚えていなかった。
私にとっては、今この高校二年生こそが、いわゆる華の女子高生、大学生という大人になるまでの小休止だった。
よく人生を一日の時計で表す人がいる。百歳まで生きるとしたら、十七歳はまだ朝の四時だ。ふかふかのお布団の中で、朝焼けを迎える前だ。
そこから先が下り坂になっているだなんて、思うわけがないじゃないか。
その夜は、とても長かった。
彼女以外の、クラスのほとんど全員と暢気に打ち上げして。叫びに叫んでタンバリンで遊んで、長い順番を待っては時折歌って、馬鹿みたいにドリンクバーで作った変なハイブリッドジュースを飲んで。
補導時間ぎりぎりの22時に、私は帰宅した。
空がやけに明るいな、と思ったんだ。夏で日が延びたせいにしたけど、違った。22時だ、冷静な頭で考えれば、そんなわけがなかった。
藍色の空はなぜか私の家の方向だけ、綺麗なオレンジ色の二等辺三角形を残していた。
頬を撫でた生温い風に、焦げるような臭いが混ざっている。
ああ、嫌な予感がする。どうして、普段は閑静な住宅街のくせに、今日はこんなにも人が多い。
家までの近道になる、細い脇道を通ったくらいで、頭は考えることを止めた。人間には、たぶん必要以上のストレスを与えられると、思考を停止するシステムが備わっている。
耳鳴りって、初めてではないか。すごく頭が痛い。
私は少し離れた人混みの中で、ただ茫然とその鮮やかなオレンジ色を見ていた。
何かが弾ける音とともに、オレンジ色が揺らぐ。黒くなった、屋根みたいな、柱みたいな、よく分からないけど、何かが崩れた。
綺麗だなって思ったから、よく覚えていた。化学の実験で、カルシウムを燃やした時と同じ色だ。的外れな感想だ、と、自分でも思った。
風で流れてきた煙を吸い込んで、私は思わず咳き込む。
喉に絡んだ痰を飲み込んで、私の頭は少し判断力を取り戻したようだ。
私は一回り小さくなったオレンジ色を見て、ずっと鳴り続けている耳鳴りが、サイレンの音だったことに気付いた。
実はあんまり覚えていなくて。
なんでこんな真っ白の部屋にいるのかも、窓際に彼女がいるのかも、私はよく分かっていなかった。
歯車の噛み合わない頭は、彼女を保健室に連れ出した日を再生する。ああ、今日は立場が逆だね、って呟いていたのか、そうだね、と彼女は困ったように笑った。
彼女とのLINEのやり取りによると、「家が燃えた」とだけ送った私は、その後連投されてきた彼女の言葉を全部既読無視していた。
「よく、病院が分かったね」
特に何も考えていなかった。横になった私はあの日の彼女のように、窓枠の少し下の、虚空を見つめていたと思う。
見ていなかったから、その時の彼女の表情は分からなかった。119番したら搬送先として可能性が高い病院を教えてくれたよ、と彼女が言う。そうなんだ、と、あんまり内容は聞かずに、私は返していた。
相槌というのは、思考がまとまらなくても、割と適切なタイミングで返せるものらしい。たぶん、身体が覚えているんだろう。何年もしているそれはもはや習慣に近い。
医師との話は、私と、後日病院に来てくれていた叔母と、彼女の三人で聞いた。
本当は親族にしか話してはいけないらしいのだけど、見舞いに来てくれていた彼女の手を、どうしても私が離さなかったらしい。叔母がそう言っていた。
結論から言うと、出火は台所からだったらしい。よくある火元の不注意だとされた。家にいた母親と父親は、辛うじて命を取り留めた。
だけど、母親は顔に重度の火傷を負い、記憶がなくなっていた。父親は発見されたとき、母親を庇うようにしていたらしく、腕と背中に火傷を、それから煙の吸い過ぎで、意識はまだ戻っていない。母親はたぶん失明していて、父親はこのまま目を覚まさない可能性の方が高いと、医者は言った。
そうなんだ、と思ったけど、あんまり実感はない。その後、回らない頭で少しだけ思考を整理して、ふわふわした、変な気持ちで彼女と向かった病室では、包帯で顔の見えない、誰かが眠っていた。叔母が窓際に、見舞いの花を置く。あれはたぶん、母親だったんだと思う。あの包帯が取れても、あの人が母親だと言えるのか分からないと思うと、私は途端に怖くなって、視界が暗転した。気付いたら、また病室のベッドの上だった。
私は一週間くらいで退院した。意識はまとまらないまでも、体自体は至って健康体なのだ。病院のベッドは、もっと相応しい人間がいる。そう言ったけど、本音は毎日両親の容態を伝えてくる医者から、逃げたかったからだ。
叔母は、叔母の家に来ることを迫ったが、私は頑なに拒否した。彼女にLINEをした。家に行ってもいいかと。彼女は二つ返事で、いいよ、とだけ短く返してくれる。わざわざタクシーで迎えに来てくれた彼女を、金持ちだななんて思いながら、彼女は電車にもバスにも乗れないんだということを、思い出していた。
彼女の家で飲んだ、冷たいかぼちゃスープに、おいしいね、と言ったことが、妙に記憶に残っている。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
心霊捜査官の事件簿 依頼者と怪異たちの狂騒曲
幽刻ネオン
ホラー
心理心霊課、通称【サイキック・ファンタズマ】。
様々な心霊絡みの事件や出来事を解決してくれる特殊公務員。
主人公、黄昏リリカは、今日も依頼者の【怪談・怪異譚】を代償に捜査に明け暮れていた。
サポートしてくれる、ヴァンパイアロードの男、リベリオン・ファントム。
彼女のライバルでビジネス仲間である【影の心霊捜査官】と呼ばれる青年、白夜亨(ビャクヤ・リョウ)。
現在は、三人で仕事を引き受けている。
果たして依頼者たちの問題を無事に解決することができるのか?
「聞かせてほしいの、あなたの【怪談】を」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
きらさぎ町
KZ
ホラー
ふと気がつくと知らないところにいて、近くにあった駅の名前は「きさらぎ駅」。
この駅のある「きさらぎ町」という不思議な場所では、繰り返すたびに何か大事なものが失くなっていく。自分が自分であるために必要なものが失われていく。
これは、そんな場所に迷い込んだ彼の物語だ……。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
幸せの島
土偶の友
ホラー
夏休み、母に連れられて訪れたのは母の故郷であるとある島。
初めて会ったといってもいい祖父母や現代とは思えないような遊びをする子供たち。
そんな中に今年10歳になる大地は入っていく。
彼はそこでどんな結末を迎えるのか。
完結しましたが、不明な点があれば感想などで聞いてください。
エブリスタ様、カクヨム様、小説家になろう様、ノベルアップ+様でも投稿しています。
月影の約束
藤原遊
ホラー
――出会ったのは、呪いに囚われた美しい青年。救いたいと願った先に待つのは、愛か、別離か――
呪われた廃屋。そこは20年前、不気味な儀式が行われた末に、人々が姿を消したという場所。大学生の澪は、廃屋に隠された真実を探るため足を踏み入れる。そこで彼女が出会ったのは、儚げな美貌を持つ青年・陸。彼は、「ここから出て行け」と警告するが、澪はその悲しげな瞳に心を動かされる。
鏡の中に広がる異世界、繰り返される呪い、陸が抱える過去の傷……。澪は陸を救うため、呪いの核に立ち向かうことを決意する。しかし、呪いを解くためには大きな「代償」が必要だった。それは、澪自身の大切な記憶。
愛する人を救うために、自分との思い出を捨てる覚悟ができますか?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
魔法の言葉、もう少しだけ。
楪巴 (ゆずりは)
ホラー
もう少しだけ。
それは、私の口癖。
魔法の言葉――……
さくっと読める800文字のショートショート。
※ イラストはあままつ様よりお借りしました。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
手が招く
五味
ホラー
川辻海斗は、所謂探偵社、人に頼まれその調査を代行することを生業としていた。
仕事はそれなりにうまくいっており、手伝いを一人雇っても問題がないほどであった。
そんな彼の元に突如一つの依頼が舞い込んでくる。
突然いなくなった友人を探してほしい。
女子学生が、突然持ってきたその仕事を海斗は引き受ける。
依頼料は、彼女がこれまで貯めていたのだと、提示された金額は、不足は感じるものであったが、手が空いていたこともあり、何か気になるものを感じたこともあり、依頼を引き受けることとした。
しかし、その友人とやらを調べても、そんな人間などいないと、それしかわからない。
相応の額を支払って、こんな悪戯をするのだろうか。
依頼主はそのようなことをする手合いには見えず、海斗は混乱する。
そして、気が付けば彼の事務所を手伝っていた、その女性が、失踪した。
それに気が付けたのは偶然出会ったが、海斗は調査に改めて乗り出す。
その女性も、気が付けば存在していた痕跡が薄れていっている。
何が起こっているのか、それを調べるために。
最終死発電車
真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。
直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。
外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。
生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。
「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる