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藍色の彼女
しおりを挟む私が振られた二日後から、彼女は二週間学校を休んだ。
なぜ、とざわめくクラス。担任の女の先生は、ご両親が亡くなって、と目を伏せて告げると途端に居心地の悪さに静まり返った。
彼女の両親の事件は、新聞にもニュースにも載っていたから、すぐにみんなが知ることとなった。
彼女が帰宅すると、叫び声と怒鳴り声が聞こえたのだという。
それから悲鳴と、雄たけびのような野太い声。
彼女が二階に駆け上がると、夫婦の寝室で、母親は腹から血を流し重体、父親は自ら首を切って、すでに亡くなっていたらしい。
真っ赤に染まった血だまりの中、母親の呻き声に気付いた彼女はすぐさま救急車を呼んだ。
異変を察知した隣人が駆け付けたとき、彼女はスマホ片手に血だまりの中崩れ落ち、過呼吸を起こしながら泣きじゃくっていたらしかった。
夕方のニュースで、警察に保護されるよう、囲まれて家を出る彼女が、マスコミの頭の隙間から僅かに映ったのを見た。ひどい顔で、泣いていた。驚きばかりを感じていた私の心は、それを見た途端、心臓をぎゅっと抓られたように傷んだ。
マスコミのインタビューに、鼻から下しか映っていない隣人は、この家からはよく男のヒステリックに叫ぶ声がしていた、とやたらと変に加工された、高い声で言っていた。割とどうでもよかった。
次の日の朝、ニュースで、彼女の母親は、搬送された集中治療室で、亡くなったことが報道された。
痛ましい事件に、その日の朝礼はもの凄く空気が重たかったが、当の本人もいないためか、放課後になる頃には、生徒たちはすっかり通常運転を取り戻していた。
みんな、自分と関係ないことには、あまり興味がない。そういう風潮は、たぶん生まれた時からずっと、毎日世界のどこかで起きている悲しい事件を、おいしい晩ごはんを食べながら、ただぼんやりと流行りのドラマを待ちながら見ているからかもしれなかった。
だが、二週間後、彼女が登校してきたとき、その空気はまた、重苦しいものに一変する。
明らかに前よりやせ細った彼女は、目の下に濃い隈を作り、足音も立てないような歩き方で教室に入ると、黙って席に着いた。
カバンからペンケースだけ出し、彼女は彼女の机の上の虚空を見つめるようにして、動かない。
廊下の外から笑い声が遠く聞こえてきたが、クラスのみんなは石のように固まり、誰も動けず、ただじっと彼女を見つめたまま黙り込んだ。
隣に座っていた私は、頭の中が揺れる思いで、何かに、クラスのこの変な空気に、酔ったのか、混乱していたんだと思う。
ぐらぐらする。そう思った時には、彼女の白い手袋を嵌めた手を、無理矢理掴んでいた。
びっくりしたのは、たぶん彼女と、固まっていたクラスメイトだ。
私は行くよ、と短く告げて彼女を引っ張る。
目を見開いて驚いていた彼女だったが、すぐさままた光のない目に戻ると、力なく、されるがままに私に引きずられるようにして歩き出した。
背中で感じたクラスの空気は、安堵の溜息のように感じた。私はそれに、安心した。
保健室の先生はいなかった。入口の扉には職員室、と書かれた文字の上に、赤いマグネットがつけられていた。
私は窓際のベッドに、無理矢理彼女を放り込んだ。
彼女は黙ったままで、横になって枕に頭を預けると、また窓枠の下あたりの虚空を見つめ出した。
私は丸い椅子を足で引き寄せて、彼女の見つめる虚空の、少し足元側に座る。
光のない目は、死んでいるみたいだった。感情が読み取れない。たぶん、空っぽで何も考えていないのだ。だけど時折瞬きをするのに、あの長いまつげが動く。
さぁ、と風が吹いて、窓の外で木々がさざめいた。気持ちのいい風だったが、今はいらない。その音を消すかのように、カーテンを閉める。カーテンは、私の後ろで、波打つようにゆらゆらと揺れた。
本鈴はとっくに鳴っていたが、私はまだ丸い椅子の上で、変わらず虚空を見つめる続ける彼女を、見つめていた。
途中、保健室の先生が戻ってきて、担任の先生を連れてきたが、大人二人は黙って私たちを保健室に二人きりにする。
彼女のための大人な判断だ。
切り取られたような時間。微かに風に乗って、誰かが教科書を読む声が、窓から流れてくる。
虚空を見つめたままの、彼女の薄い唇がゆっくりと開いた。
その口元で力なく置かれた手に、私の目は吸い寄せられる。手袋が、新しいデザインのものに変わった。サイドの縫い目の二本線が、一本減った。
「…授業、さぼっちゃったね」
力なく言った彼女は、笑っていた。苦笑するような笑みだ。まだ虚空を見つめていて、目は合わない。
「昨日まで休んでたんだから、一日くらい変わらないよ」
「…ふふふ、そうかもしれないね」
私が鼻から長い息を吐くと、彼女はまた力なく笑った。
よくこんな状態で学校に来たものだ。いや、むしろ、家にいたくなかったから、学校に来たのかもしれない。
私が、寝なよ、というと、彼女は小さく、うん、と眠たそうな声で頷いた。
虚ろな目が、ゆっくり私に移る。何故か、少しだけ、鳥肌が立った。
少しだけ身じろいだ彼女の、茶色く透けた横髪が流れ落ちた。
「…後ろから、光が差して、とても綺麗」
私は椅子を回転させて振り返ると、飛び込んできた太陽の眩しさにうわ、と声を上げて目を瞑った。
眩しいなぁ、と独り言を言いながらカーテンを閉めに立ち上がる。
私の作った灰色の影の中、小さな寝息を立て始めた彼女のほうが、やっぱり綺麗だと思った。
今日は雨だ。濡れた紺色の靴下が気持ち悪い。
湿気で暑いし蒸れるし、嫌だなぁと、私は昇降口でお気に入りの傘の雫を、傘を左右に振って落としていた。
彼女の両親が亡くなってから、一か月が過ぎた。
ニュースはもう何も言わなくなった。全国では日々痛ましい事件が起こっている。調査に進展のないニュースは、私たちの記憶の闇に葬られる。
季節はもう六月の半ばに差し掛かった。今朝、雨合羽を着た美人なお天気お姉さんが、梅雨入りを告げていたから、たぶん今週はずっと雨だ。
私は傘立ての角に傘をしまうと、すれ違う友達たちに挨拶をしながら、教室に向かった。今日はなんだか、運動部が多い。
「おはよう、朝練、潰されちゃったよ」
ソフトテニス部の友達。その机の横には大きなテニスバックがかけられている。
運動部の朝練は早い。あまり濡れていないそのバックが、今日はただの重荷となってしまったことに、友達はうんざりしたように溜息を吐いた。
「家出る前に降ってればよかったのにね」
「残念。小雨だったら、やるときもあるんだよねぇ。でもさすがに今週は無理そうだなぁ」
私がそういうと、友達はだらしなく手を伸ばして机に伏せた。
白いシャツから伸びる、私より日焼けした腕のせいだろうか。動物園の暑さにやられたパンダみたいだな、と苦笑した私は、そのショートボブを撫でくり回してから、自分の席に向かった。
その日、彼女はめずらしくもう席にいた。もしかしたら今週はずっと早いのかもしれないと思った。
彼女は雨の日、いつもより早く登校する。湿った気持ちの悪い靴下も、片側だけやたら濡れたカバンも、これは想像だけど、濡れていたはずの手袋も、彼女とは無縁だった。
誰も見たことがないし、誰も知らないが、たぶん彼女は、朝早く学校に来て、それらを排除することに時間を費やしている。
でなければ、誰もが透明な人形を肩ぐるましているような姿勢をする中、あんなに涼し気に読書などしていられないだろう。
おはよう、と私は言いながら、彼女とは反対側の机のフックにリュックを下げて、席に着いた。
おはよう、と彼女は涼し気な顔で笑う。私は保健室でのあの日から、彼女とよく会話をするようになった。
白い手袋を嵌めた指先が、本のページを捲った。小説だろうか。
「昨日は筋肉痛でさ、ずっとぐうたらしてたよ」
いてて、と私はまだ少し軋む腕の筋肉を伸ばした。
彼女は読んでいたページを開いたまま、静かにこちらに顔だけ向けて、笑う。
「昨日のうちに来たの?若いね、私は今朝来たよ」
同い年のくせに、と言えば、彼女はそれもそうだね、とおかしそうに笑って、また顔を元の位置に戻すと本の世界へ帰って行った。
「おはよう!見てみて、ほらこれ一昨日の写真」
勢いよく、私の右側から女子が三人飛び込んでくる。まだ靴下が湿っている私とも、湿気とは無縁な顔をした彼女ともかけ離れたテンションだ。
元気だな、と思いながら、おはよう、と返した私は、勝手に机に広げられた写真を手に取った。
一昨日は体育祭だった。だから帰宅部の私も彼女も、珍しく今日は筋肉痛に苛まれている。女子合同の綱引きのせいだった。なんで綱引きなのかは分からない。男子の騎馬戦よりは安全だからなんだと私は思っている。ネイルをした爪や、伸ばした髪でやる騎馬戦は、もしかしたら昼下がりのワイドショー並にドロドロになるかもしれない。心と、関係性が。
机に広げられた写真は、そんなどす黒い感情など孕んでおらず、炭酸水のように爽快な、でもしっかりとあの熱気を再び彷彿とさせる臨場感溢れるものばかりで、私は感嘆の声を上げた。
「わぁ、これとかセンスあるね、すごくいい」
赤色の鉢巻をした男子が、頭上高く白い鉢巻を掲げて、ガッツポーズをしている写真を見て、言った。あの時聞いた叫び声が、脳裏で響く。
紅組の騎馬戦の団長だ。上半身裸の、野球部で鍛えられた筋肉に、汗が光っている。
彼にピントがしっかりあった分、下で支えている馬役の人は滲んでぼけていたが、水色の青空が、とても爽やかな差し色になった一枚だ。
たぶん、いや、間違いなくその写真を撮ったであろう友達は、でしょでしょと興奮した声で、両手の拳を胸の前で騒がしく上下に振った。
「この人!前から言ってた野球部の先輩!やっぱかっこいいっしょ?」
「かっこいいって言ったら怒るくせに…あぁ嘘だよ嘘、かっこいいよ、うん、かっこいい」
友達の前で激しく動いていた両拳が、私のこめかみに当てられたので私は慌てて否定した。
恋する乙女は難しい。好きな人を、否定も肯定もされたくない微妙なお年頃なのだ。
「ねぇ、これクラスLINEにアルバム作ってよ。そしたらみんな見れるし」
「写真は現像したものがいいのに~分かってないなぁ」
所謂、カメラ女子というやつであるその友達は、やれやれと呆れたように首を振った。
でも結局、外の二人にも後押しされて、後日無事写真はみんなに共有されることとなる。
私は、校庭の階段で、彼女と並んで座っているのを斜め下から盗撮されている写真だけ、保存した。
校庭を指さす私を、横顔の彼女が眺めている。光のきらめく彼女の瞳は、私がまだ見たことのない無邪気さに輝いて見えて、新しい彼女を見つけた気になった。
先月両親を同時に亡くした彼女だったが、ここ一か月で、思いの外早く元気になっていた。
その代わり、学校では、いつも私の近くにいる。私も、少なくとも距離は、彼女の傍にいるようにしている。
保健室に連れ出した瞬間を見ていた友達には、彼氏みたいだねなんてからかわれたりもした。自分でも、出会って約二か月で随分と懐かれたなぁとは思っている。
彼女と会話するのは面白かった。それは小さな穴の空いた、障子の向こうを覗くような感覚。彼女を覗こうとする私にだけ、彼女は私に、その心の片鱗を見せてくれていた。
四月の初め、私と彼女は、この小さなヒエラルキーで対極に位置すると思っていた。
傍から見れば確かにそうだ。私の周りには、いつも誰かがいる。彼女の周りには、私がいなくなれば誰もいなくなる。
だけど私と彼女だけが知っていた。たぶん私たちは、少し似ている部分がある。それはここ一か月で、少し増えたようにも思う。一緒にいると人は似てくるし、類は友を呼ぶものなのだ。
上下の対極ではなく、裏表の対極のように感じていた。実は彼女は、このヒエラルキーとは違う次元で生きているのではないか。
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