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025 荻野睦月という男(その4)
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彩未が最初に目にしたのは何故か、睦月が腹筋している場面だった。
「……なんで腹筋しているの?」
「最近運動不足なんだって~」
その疑問に答えたのはこの部屋の住人ではなく、また食料を集りに来ていた弥生だった。
彩未が聞いたところ、弥生はまた仕事で、その後はそのまま放浪するからと一度睦月の家に来たらしく、テーブルの上に戸棚の中身を(勝手に)並べていた。
彩未を(勝手に)中に入れたのも、同じく弥生の仕業である。
もし冷蔵庫の中であれば姫香からの容赦ない攻撃が飛んでくるだろうが、戸棚の中身は調理前か睦月の個人用の買い置きのみ。そして弥生が分別して持ち帰ろうとしているのは、もちろん後者だった。
「ボクが来た時にはもう始めていたよ。夕飯までまだ時間があったから、食前に運動しているんだって」
「ふ~ん……あ、弥生ちゃん。お土産食べる?」
「やた~!」
スクールバッグ(に近い鞄)から彩未が取り出したのは、無添加の牧場プリンだった。弥生に一つ渡した後、未だに腹筋を続けている睦月達の方にも一声。
「お土産の牧場プリン、二人の分もあるからね~」
「ぼくっ、じょっ、……プリン?」
最初から黙り込んでいる姫香を置いて、睦月は腹筋中でも会話に参加してくる。始めたばかりなのか、それともまだ体力に余裕があるのか……その声には身体を動かしている最中の息遣い以外が混ざっている様子はなかった。
「おまっ、がくっ、ぶっ、じょっ、ほうぶじゃっ、なかっ、たかっ?」
『お前、学部情報部じゃなかったか?』
睦月はそう言おうとしていた。しかし何が言いたいのかは大体分かっていたので、彩未はテーブルに突っ伏しながら答えてくる。
「その牧場にライブカメラを設置して、放牧中の動物や対不審者用の見回り要員を減らせないかっていう研究に参加して、きた、ん、だけど、ねぇ~……」
彩未が参加した研修旅行は、農業の人手不足を解消する手段の研究として、宣伝目的のライブカメラの設置場所の調整やレンズの種類を変更することで、別の用途に使えないかを調査している研究チームを見学するものだった。
カメラを設置する知識や経験や、現地で実際に使用した際の性能が本来の仕様から離れていないか、そして目的外に使われる可能性についての調査活動を見て学ぶのが、研修旅行の趣旨である。
の、だが……そのことを話し続けるにつれ、彩未の肩にドッと疲労感が圧し掛かってきた。
「実際はただの使いっ走り~、牧場のあちこちにあるカメラの位置を変える為に走り回ってさ~……そして結論は『即応性に欠ける』だもん。嫌になってくる…………」
「分かる分かる~、ボクも外国の大学で現地調査に参加した時は、普通に息切れしてたもん」
「……普通に体力有ると思ってた」
弥生もまた、睦月と同じ地元の出身なのだ。彩未にとっては二人の運動量は同等か、そこまで離れていないと思い込んでいた。しかし、実際はどうも違ったらしい。
「外国の土地が広すぎた、ってのもあるけどね~……」
「そりゃっ、そうだっ、ろっ……」
会話しつつも腹筋を続ける睦月だが、姫香の方がプリンに気が行くせいで、限界に近いようだった。
だから睦月の目の前にぶら下げた餌を扱う姫香の手も、徐々におざなりになってきている。
「……そろそろ終わるか、っぷ!」
手に持っていた餌、姫香が穿いていた下着を顔に投げつけられた睦月は、刺繍で彩られた赤い布を摘まみ上げると、それを横に置いてから立ち上がっていた。
「でもなんで、下着を餌に腹筋していたの?」
「『ただ鍛えるのは面倒だ』って言ったら、姫香が勝手に脱ぎ出してぶら下げてきたんだよ……実際、人参位の効果はあったけどな」
「我が幼馴染ながら情けない……」
しかし残念かな、そう発言したのは精神病質者である。
微妙に説得力に欠ける弥生の言葉に、睦月はどこか納得がいかないとばかりに、苦虫を噛み潰したような顔で彩未たちの元へと歩み寄ってきた。
「しかし本当、一回身体を動かした方がいいかもな……」
「睦月君、最近運動してないの?」
「少なくとも……ここ最近、戦闘とは無縁だったからな」
そもそも運び屋はものを運ぶのが仕事であり、戦闘とは本来無縁の職種のはずだった。しかし、その依頼が一度でも社会の裏側を経由してしまうと、程度はあれど通常業務以上の問題を帯びることになる。
……それだけ裏社会は、危険な場所なのだ。
生半可な覚悟で挑んだ若者が、一山幾らで売られることも日常茶飯事。裏社会の住人の親族でさえ、少しでも気を緩めてしまうと、その辺りの一般人とほとんど変わりがない。
それが、睦月達の生きている世界なのだ。
「大体は運転に専念できたり、『ブギーマン』の時みたいに事前に対処できてたからな。まともに戦闘する機会はないに越したことはない、が……」
とはいえ、いざという時に動けなければあっさりと死んでしまう。
彩未もまた、緊急時用の手段として銃器の類を隠し持ってはいるものの、普段から持ち歩く習慣はない。そもそも自宅に放置したままで、使う方がかえって危険かもしれなかった。
「私も銃、練習しとこうかな~……」
「……辞めないのか?」
問い掛けてくる睦月に対して、彩未はテーブルの上に肘を載せ、頬杖を付きながら見上げた。
「辞めないよ」
睦月の問い掛けに対して、彩未はまっすぐに見返して答える。主語のない会話にも関わらず、二人の間には、その意味が互いに伝わってきていた。
「すぐに殺されるかもしれないし、そうでなくても途中で辞めるつもり。でも……今、『ブギーマン』を辞める気はないよ」
だから今日も遊びに来た、とばかりに微笑む彩未。しかし、姫香や弥生は睦月達の会話には我関せずと、土産の牧場プリンを貪っていた。
「結婚詐欺をしているのは卯都木月偉だけじゃない。それに……それ以外にも救える人が居るのなら、もうちょっと善行を積んでからでも、辞めるのは遅くはないかな、って」
睦月は音を立てずに、静かに息を吐きながら腕を組んだ。
「……犯罪者である事実は変わらないぞ?」
「それ、睦月君が言う?」
『蝙蝠』と陰口を叩かれている青年に対して、今度は彩未が呆れたように溜息を吐いた。
「むしろ、睦月君の方が半端じゃない? こっちは手段以外汚れるつもりはないけど、そっちは違うよね。単に受けない、ってだけで……あたっ!?」
いつの間にか背後に回っていた姫香に、彩未は引っ叩かれてしまった。
……ラップの芯で。
「姫香ちゃん、酷い……」
「でもさ~、実際のところどうなの?」
今度は(睦月の分を食べようとしていた)弥生の頭に芯が振り下ろされるものの、姫香の一撃はテーブルの上にあった鍋置きに防がれてしまう。
「睦月って昔から、善悪とかはあまり考えてなかったよね。自分にリスクが降りかからない限りは傍観するか、気紛れに介入するばかりで」
それを聞いて、頭を摩っていた彩未は思わず口を挟んだ。
「……昔っからこんな性格だったの? 奥さん」
「そうなのよ奥さん。この人妙な拘りでもあるのか、周囲が引っ張らないといっつも自分ルールで勝手に動いちゃって……」
弥生は鍋置きで姫香の攻撃を捌きながら、彩未と軽口を叩き合っている。しかしそれ以上はさすがに対応しきれなかったのか、横取りした牧場プリンはあっさりと睦月の手に戻っていた。
「何が奥さんだ。大体自分勝手に周囲を振り回していたのは……止めとこう」
「うん……ボクも言ってて思った」
どうやら二人して、同じ人物を思い描いているらしい。そしてろくな思い出がないのか、揃って顔を歪めている。
「そんなにやばい人が居るの?」
「唯我独尊過ぎて……ある意味弥生以上の精神病質者がな」
「それボクの前で言う? 言われる自覚はあるけどさ……」
しかしそれでも思い出したくはないのだろう。姫香にラップの芯で首を締められている弥生の腹に足を乗せつつ、睦月は奪われかけた牧場プリンに口を付けながら、コキコキと首を鳴らし出す。
「分かりやすく言うと……弥生が養殖で、あいつは天然だな」
「むかしっ、からっ、がきだいしょっ、きし、つ…………姫香ちゃんギブ」
若干意識を無くしかけている弥生を放置し、牧場プリンを食べ終えた睦月は容器をテーブルの上に置くと、そのまま戻した指で唇を拭った。
「ごちそうさん。うまかったぞ」
「うん。それはいいんだけど……」
彩未は話を続けようとし、
「……預けてた報酬、そのまま持ってて。何かあった時にすぐ、依頼できるように」
……結局は言葉を飲み込んで、どうでもいいことを口にするだけに留めた。
「…………ん?」
今日は気分が乗らなくて、もう家に帰って休もうとしている時だった。
夕食を終え、弥生と共にマンションを辞した後のことである。駅へと向かう道すがら、小型の集合住宅が並ぶ高架下近くを通っていた際、スマホが鳴ったので彩未は足を止めた。
線路の下を利用して設けられた駐車場の脇で、画面を確認する彩未。
「あれ? 珍しい……」
(さすがにすぐ、殺しに来るとは思ってなかったけど……)
それがある人物からの着信だったので、素早く指を伸ばして通話状態にした。
「どうかしたの?」
『写真はいいの?』
挨拶もなく、すぐ用件を告げてくる若い女性の声に、彩未は腕を組みながら答える。
「今は……別にいいかな。前にスマホやネット越しのサーバ漁ってみたけどなかったし、どうせフラッシュメモリに保存して隠しているんでしょう?」
『普通、それを探そうと思うんじゃないの?』
「う~ん。いまさら感あるし……もういいかな、って」
『彩未、あんたさあ……社会の裏側を舐めてない?』
電話の相手は裏社会の住人だからだろう。その言葉が、彩未にはとても重く感じられた。
「そっちこそ……私をただの馬鹿だと思ってない?」
けれども、彩未の覚悟は変わらなかった。
『いや、傍迷惑なウザ絡み野郎だって思ってる』
「……それ、ちょっと酷くない?」
『酷くない』
裏社会で生きることよりも、電話越しの少女と付き合う方が覚悟がいる気がすると彩未は思うものの、それを直接本人に言うことはしない。
特に、自覚がある内容に関しては……
「……大丈夫。舐めているわけじゃないよ」
油断すると気落ちしてしまいそうなので、彩未はどうにか話を戻して、立て直しを図った。
「お互いに無駄な喧嘩はしない、って共通認識があるからかな? 拗れない限りは置いといても問題ないし……最悪、強姦と強請りの件で警察に駆け込んで道連れ、って手もあるからね」
『信用できるの?』
「その疑問……最初からまったく信用してないなら、絶対に出てこないって気付いてる?」
うまく言い返された為に電話の向こう側から、唇を歪めるような音が聞こえて来た気がした。
彩未は人目のない中軽く微笑んでから、先に話を続けていく。
「少なくとも……そうやって疑問が出る程度には、信用しあっていると思っているよ」
睦月が送ってきたメッセージを読めば、似たような気持ちだというのは理解できた。たとえ最初は脅し脅されの関係だったとしても、そこから積み上げたものは、間違いなく存在する。
「だから言えるんだよね……」
……相手の人柄も含めて。
「私は……睦月君のことが好き。今度は、卯都木月偉よりも、ちゃんとはっきり言える」
『……異性として?』
「良くて恋人まで、だけどね~」
それだけは、ずっと前から気付いていた。
「睦月君のことは好きだし恋してる、って自覚はある。でも……彼を愛してはいない。それだけははっきり分かっている」
自分が、一人の親しい異性に対して、どう思っているのかを。
「私にとって、睦月君は気の置けない友達。身体の関係を持つ程度には異性として見ている。でも……彼の生涯にまでは、ついて行けない」
彩未もまた、裏社会の住人としての生活に足を踏み入れた。そして睦月のことを理解する度に、思い知らされてしまう。
その背中を見つめていたいとは思えても、ついて行きたいとまでは考えられない。
だからこそ、今の関係が好ましく……いずれ終わると分かっているだけに尊いと思えてしまう。
「だから姫香ちゃんは、ちょっと尊敬しちゃうんだよね~……たとえ何があろうとも、睦月君について行く覚悟を決めているんだから」
『…………そう』
通話は、そこで途切れてしまう。
頬を緩ませながら彩未はスマホを仕舞うと、睦月達の住むマンションの方を向いた。
「そういえば……前に、睦月君が言ってたっけ?」
『人が、誰か何かを信仰するのは、その存在に縋っているからでも、その威光を恐れているからでもない……その生き様に憧れたからだ』
彩未は睦月と付き合う内に、羨望の眼差しを向けることが徐々に増えてきた。実際、周囲にいる他の女性達も同じ気持ちだと思う。それは決して、異性としての魅力があるだけじゃない。見せかけだけの人間に寄ってくる者は、所詮同類だろう。
ただ……睦月の生きる姿勢に一人、また一人と距離を詰めていった結果が、現状なのだ。
そして、その中でも一番の典型であり、最期の時まで共に歩もうとしているのが、久芳姫香という少女だった。
「『裏社会の住人』ではいられても、姫香ちゃんみたいには生きられないからね……」
思わず呟いた言葉を頭で理解すると同時に、彩未は数度横に振った。
そしてマンションに向けて軽く手を振ってから、駅へと再び歩き出していく。
「姫香~、風呂空いたぞ……?」
いつもの下着一丁の姿で浴室から出てきた睦月だったが、その視界に姫香は映り込んでこない。どこかに出掛けたのかと思っていたが、どうやらベランダに出ていたようで、丁度スマホ片手に、室内へと戻ってきていた。
「なんだ、夜風にでも当たっていたのか?」
睦月からの問い掛けに、姫香は少し首を傾げてから、最後に首を縦に振った。
「……なんで腹筋しているの?」
「最近運動不足なんだって~」
その疑問に答えたのはこの部屋の住人ではなく、また食料を集りに来ていた弥生だった。
彩未が聞いたところ、弥生はまた仕事で、その後はそのまま放浪するからと一度睦月の家に来たらしく、テーブルの上に戸棚の中身を(勝手に)並べていた。
彩未を(勝手に)中に入れたのも、同じく弥生の仕業である。
もし冷蔵庫の中であれば姫香からの容赦ない攻撃が飛んでくるだろうが、戸棚の中身は調理前か睦月の個人用の買い置きのみ。そして弥生が分別して持ち帰ろうとしているのは、もちろん後者だった。
「ボクが来た時にはもう始めていたよ。夕飯までまだ時間があったから、食前に運動しているんだって」
「ふ~ん……あ、弥生ちゃん。お土産食べる?」
「やた~!」
スクールバッグ(に近い鞄)から彩未が取り出したのは、無添加の牧場プリンだった。弥生に一つ渡した後、未だに腹筋を続けている睦月達の方にも一声。
「お土産の牧場プリン、二人の分もあるからね~」
「ぼくっ、じょっ、……プリン?」
最初から黙り込んでいる姫香を置いて、睦月は腹筋中でも会話に参加してくる。始めたばかりなのか、それともまだ体力に余裕があるのか……その声には身体を動かしている最中の息遣い以外が混ざっている様子はなかった。
「おまっ、がくっ、ぶっ、じょっ、ほうぶじゃっ、なかっ、たかっ?」
『お前、学部情報部じゃなかったか?』
睦月はそう言おうとしていた。しかし何が言いたいのかは大体分かっていたので、彩未はテーブルに突っ伏しながら答えてくる。
「その牧場にライブカメラを設置して、放牧中の動物や対不審者用の見回り要員を減らせないかっていう研究に参加して、きた、ん、だけど、ねぇ~……」
彩未が参加した研修旅行は、農業の人手不足を解消する手段の研究として、宣伝目的のライブカメラの設置場所の調整やレンズの種類を変更することで、別の用途に使えないかを調査している研究チームを見学するものだった。
カメラを設置する知識や経験や、現地で実際に使用した際の性能が本来の仕様から離れていないか、そして目的外に使われる可能性についての調査活動を見て学ぶのが、研修旅行の趣旨である。
の、だが……そのことを話し続けるにつれ、彩未の肩にドッと疲労感が圧し掛かってきた。
「実際はただの使いっ走り~、牧場のあちこちにあるカメラの位置を変える為に走り回ってさ~……そして結論は『即応性に欠ける』だもん。嫌になってくる…………」
「分かる分かる~、ボクも外国の大学で現地調査に参加した時は、普通に息切れしてたもん」
「……普通に体力有ると思ってた」
弥生もまた、睦月と同じ地元の出身なのだ。彩未にとっては二人の運動量は同等か、そこまで離れていないと思い込んでいた。しかし、実際はどうも違ったらしい。
「外国の土地が広すぎた、ってのもあるけどね~……」
「そりゃっ、そうだっ、ろっ……」
会話しつつも腹筋を続ける睦月だが、姫香の方がプリンに気が行くせいで、限界に近いようだった。
だから睦月の目の前にぶら下げた餌を扱う姫香の手も、徐々におざなりになってきている。
「……そろそろ終わるか、っぷ!」
手に持っていた餌、姫香が穿いていた下着を顔に投げつけられた睦月は、刺繍で彩られた赤い布を摘まみ上げると、それを横に置いてから立ち上がっていた。
「でもなんで、下着を餌に腹筋していたの?」
「『ただ鍛えるのは面倒だ』って言ったら、姫香が勝手に脱ぎ出してぶら下げてきたんだよ……実際、人参位の効果はあったけどな」
「我が幼馴染ながら情けない……」
しかし残念かな、そう発言したのは精神病質者である。
微妙に説得力に欠ける弥生の言葉に、睦月はどこか納得がいかないとばかりに、苦虫を噛み潰したような顔で彩未たちの元へと歩み寄ってきた。
「しかし本当、一回身体を動かした方がいいかもな……」
「睦月君、最近運動してないの?」
「少なくとも……ここ最近、戦闘とは無縁だったからな」
そもそも運び屋はものを運ぶのが仕事であり、戦闘とは本来無縁の職種のはずだった。しかし、その依頼が一度でも社会の裏側を経由してしまうと、程度はあれど通常業務以上の問題を帯びることになる。
……それだけ裏社会は、危険な場所なのだ。
生半可な覚悟で挑んだ若者が、一山幾らで売られることも日常茶飯事。裏社会の住人の親族でさえ、少しでも気を緩めてしまうと、その辺りの一般人とほとんど変わりがない。
それが、睦月達の生きている世界なのだ。
「大体は運転に専念できたり、『ブギーマン』の時みたいに事前に対処できてたからな。まともに戦闘する機会はないに越したことはない、が……」
とはいえ、いざという時に動けなければあっさりと死んでしまう。
彩未もまた、緊急時用の手段として銃器の類を隠し持ってはいるものの、普段から持ち歩く習慣はない。そもそも自宅に放置したままで、使う方がかえって危険かもしれなかった。
「私も銃、練習しとこうかな~……」
「……辞めないのか?」
問い掛けてくる睦月に対して、彩未はテーブルの上に肘を載せ、頬杖を付きながら見上げた。
「辞めないよ」
睦月の問い掛けに対して、彩未はまっすぐに見返して答える。主語のない会話にも関わらず、二人の間には、その意味が互いに伝わってきていた。
「すぐに殺されるかもしれないし、そうでなくても途中で辞めるつもり。でも……今、『ブギーマン』を辞める気はないよ」
だから今日も遊びに来た、とばかりに微笑む彩未。しかし、姫香や弥生は睦月達の会話には我関せずと、土産の牧場プリンを貪っていた。
「結婚詐欺をしているのは卯都木月偉だけじゃない。それに……それ以外にも救える人が居るのなら、もうちょっと善行を積んでからでも、辞めるのは遅くはないかな、って」
睦月は音を立てずに、静かに息を吐きながら腕を組んだ。
「……犯罪者である事実は変わらないぞ?」
「それ、睦月君が言う?」
『蝙蝠』と陰口を叩かれている青年に対して、今度は彩未が呆れたように溜息を吐いた。
「むしろ、睦月君の方が半端じゃない? こっちは手段以外汚れるつもりはないけど、そっちは違うよね。単に受けない、ってだけで……あたっ!?」
いつの間にか背後に回っていた姫香に、彩未は引っ叩かれてしまった。
……ラップの芯で。
「姫香ちゃん、酷い……」
「でもさ~、実際のところどうなの?」
今度は(睦月の分を食べようとしていた)弥生の頭に芯が振り下ろされるものの、姫香の一撃はテーブルの上にあった鍋置きに防がれてしまう。
「睦月って昔から、善悪とかはあまり考えてなかったよね。自分にリスクが降りかからない限りは傍観するか、気紛れに介入するばかりで」
それを聞いて、頭を摩っていた彩未は思わず口を挟んだ。
「……昔っからこんな性格だったの? 奥さん」
「そうなのよ奥さん。この人妙な拘りでもあるのか、周囲が引っ張らないといっつも自分ルールで勝手に動いちゃって……」
弥生は鍋置きで姫香の攻撃を捌きながら、彩未と軽口を叩き合っている。しかしそれ以上はさすがに対応しきれなかったのか、横取りした牧場プリンはあっさりと睦月の手に戻っていた。
「何が奥さんだ。大体自分勝手に周囲を振り回していたのは……止めとこう」
「うん……ボクも言ってて思った」
どうやら二人して、同じ人物を思い描いているらしい。そしてろくな思い出がないのか、揃って顔を歪めている。
「そんなにやばい人が居るの?」
「唯我独尊過ぎて……ある意味弥生以上の精神病質者がな」
「それボクの前で言う? 言われる自覚はあるけどさ……」
しかしそれでも思い出したくはないのだろう。姫香にラップの芯で首を締められている弥生の腹に足を乗せつつ、睦月は奪われかけた牧場プリンに口を付けながら、コキコキと首を鳴らし出す。
「分かりやすく言うと……弥生が養殖で、あいつは天然だな」
「むかしっ、からっ、がきだいしょっ、きし、つ…………姫香ちゃんギブ」
若干意識を無くしかけている弥生を放置し、牧場プリンを食べ終えた睦月は容器をテーブルの上に置くと、そのまま戻した指で唇を拭った。
「ごちそうさん。うまかったぞ」
「うん。それはいいんだけど……」
彩未は話を続けようとし、
「……預けてた報酬、そのまま持ってて。何かあった時にすぐ、依頼できるように」
……結局は言葉を飲み込んで、どうでもいいことを口にするだけに留めた。
「…………ん?」
今日は気分が乗らなくて、もう家に帰って休もうとしている時だった。
夕食を終え、弥生と共にマンションを辞した後のことである。駅へと向かう道すがら、小型の集合住宅が並ぶ高架下近くを通っていた際、スマホが鳴ったので彩未は足を止めた。
線路の下を利用して設けられた駐車場の脇で、画面を確認する彩未。
「あれ? 珍しい……」
(さすがにすぐ、殺しに来るとは思ってなかったけど……)
それがある人物からの着信だったので、素早く指を伸ばして通話状態にした。
「どうかしたの?」
『写真はいいの?』
挨拶もなく、すぐ用件を告げてくる若い女性の声に、彩未は腕を組みながら答える。
「今は……別にいいかな。前にスマホやネット越しのサーバ漁ってみたけどなかったし、どうせフラッシュメモリに保存して隠しているんでしょう?」
『普通、それを探そうと思うんじゃないの?』
「う~ん。いまさら感あるし……もういいかな、って」
『彩未、あんたさあ……社会の裏側を舐めてない?』
電話の相手は裏社会の住人だからだろう。その言葉が、彩未にはとても重く感じられた。
「そっちこそ……私をただの馬鹿だと思ってない?」
けれども、彩未の覚悟は変わらなかった。
『いや、傍迷惑なウザ絡み野郎だって思ってる』
「……それ、ちょっと酷くない?」
『酷くない』
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特に、自覚がある内容に関しては……
「……大丈夫。舐めているわけじゃないよ」
油断すると気落ちしてしまいそうなので、彩未はどうにか話を戻して、立て直しを図った。
「お互いに無駄な喧嘩はしない、って共通認識があるからかな? 拗れない限りは置いといても問題ないし……最悪、強姦と強請りの件で警察に駆け込んで道連れ、って手もあるからね」
『信用できるの?』
「その疑問……最初からまったく信用してないなら、絶対に出てこないって気付いてる?」
うまく言い返された為に電話の向こう側から、唇を歪めるような音が聞こえて来た気がした。
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「だから言えるんだよね……」
……相手の人柄も含めて。
「私は……睦月君のことが好き。今度は、卯都木月偉よりも、ちゃんとはっきり言える」
『……異性として?』
「良くて恋人まで、だけどね~」
それだけは、ずっと前から気付いていた。
「睦月君のことは好きだし恋してる、って自覚はある。でも……彼を愛してはいない。それだけははっきり分かっている」
自分が、一人の親しい異性に対して、どう思っているのかを。
「私にとって、睦月君は気の置けない友達。身体の関係を持つ程度には異性として見ている。でも……彼の生涯にまでは、ついて行けない」
彩未もまた、裏社会の住人としての生活に足を踏み入れた。そして睦月のことを理解する度に、思い知らされてしまう。
その背中を見つめていたいとは思えても、ついて行きたいとまでは考えられない。
だからこそ、今の関係が好ましく……いずれ終わると分かっているだけに尊いと思えてしまう。
「だから姫香ちゃんは、ちょっと尊敬しちゃうんだよね~……たとえ何があろうとも、睦月君について行く覚悟を決めているんだから」
『…………そう』
通話は、そこで途切れてしまう。
頬を緩ませながら彩未はスマホを仕舞うと、睦月達の住むマンションの方を向いた。
「そういえば……前に、睦月君が言ってたっけ?」
『人が、誰か何かを信仰するのは、その存在に縋っているからでも、その威光を恐れているからでもない……その生き様に憧れたからだ』
彩未は睦月と付き合う内に、羨望の眼差しを向けることが徐々に増えてきた。実際、周囲にいる他の女性達も同じ気持ちだと思う。それは決して、異性としての魅力があるだけじゃない。見せかけだけの人間に寄ってくる者は、所詮同類だろう。
ただ……睦月の生きる姿勢に一人、また一人と距離を詰めていった結果が、現状なのだ。
そして、その中でも一番の典型であり、最期の時まで共に歩もうとしているのが、久芳姫香という少女だった。
「『裏社会の住人』ではいられても、姫香ちゃんみたいには生きられないからね……」
思わず呟いた言葉を頭で理解すると同時に、彩未は数度横に振った。
そしてマンションに向けて軽く手を振ってから、駅へと再び歩き出していく。
「姫香~、風呂空いたぞ……?」
いつもの下着一丁の姿で浴室から出てきた睦月だったが、その視界に姫香は映り込んでこない。どこかに出掛けたのかと思っていたが、どうやらベランダに出ていたようで、丁度スマホ片手に、室内へと戻ってきていた。
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