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002 新居生活初日(その1)

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「朝、か…………」
 アラームが鳴らずとも、睦月は自然と目を覚ました。
 昨日、今まで住んでいた村を後にする際、公安から(無駄に)追われた為に、新居へと真っすぐ向かうわけにはいかなかった。だから睦月達は遠回りになるルートを通ることにし、昨夜はラブホテルの泊まったのだ。
 睦月はベッドから起き上がった。その際未だに横で寝ている、裸の姫香に薄手の掛け布団を戻すことも忘れずに。
「ええと……結局何回やったっけ?」
 同じく裸だった睦月は、脱いだ後姫香が畳んでくれていた服を見つけてから、昨夜の情事を思い出していた。
(たしか風呂で二発やって……その後はベッドで一発やってから、そのまま寝たんだったか?)
 しかし避妊具コンドームの類は身体に残っておらず、すでに結ばれた状態でごみ箱に捨てられていた。どうやら姫香が、寝る前に片付けてくれていたらしい。
「ほんと、よくできた奴だよ……」
 しかし片付けてくれてても、汗や体液は未だに身体にこびり付いている。
 睦月は服を着る前に、一度身体を流そうと浴室に入った。温かいお湯に心地良さを感じながらこれまでやったこと、そしてこれからやることを脳内で整理していく。
(親父の件は……後回しでいいな。ナンバープレートは昨日の内に公園で替えといたし……後は念の為、街に向かう前にカラーリングも変えておくか?)
 無論、ラブホテルの駐車場にも監視カメラの類はあるだろうから、離れた場所で行わなくてはならない。一時間位でチェックアウトの上に駐車場だと迷惑なので、どちらにせよここで作業はできないが。
 一通り流し終え、シャワーからのお湯を止めた睦月は、近くに置いてあるバスタオルで身体を拭きながら浴室を後にした。
「ふぅ……ん?」
 ベッドの方を見ると、姫香も目を覚ましていた。
「姫香、おはよう……」
 返事はない、ただのスマホ中毒のようだ。
「……せめて着替えてからにしろ。もしくは風呂入ってこい」
 返事はない、素っ裸のままベッドで寝転がっている、ただのスマホ中毒のようだ。
 多分目が覚めた際に、睦月が浴室にいる音がしたからと、時間潰しにスマホを弄り出したのだろう。着替えに関しては、同じく身体を流したいと思っているかもしれない。だが挨拶もせずにスマホに夢中になっているのは、明らかに姫香に非がある。
「はぁ……」
 睦月は呆れつつも、(同じく全裸のまま)姫香のいるベッドに近付き、軽く拳骨を落とした。
「お、は、よ、う」
 軽い痛みに目を細めながら、姫香もまたスマホをベッドの上に置くと、睦月の方に上半身だけ身体を起こした。右手拳をこめかみの辺りに持ち上げてから顔に沿って降ろし、晒したままになっている自らの胸(平均よりは少し大きめ)の前で人差し指を向かい合わせ、同時に曲げた。
「……【おはよう】」
「おう、早く風呂入ってこい」
 ベッドから降りた姫香は、小突かれた頭を撫でながら、身体を引き摺るように浴室へと消えていった。同じ裸体でも、昨夜の扇情的な姿と違い、今はどこか人間・・臭く見える。
「それでも勃つんだから、俺も見境ないよな……」
 とはいえ手を出している暇もないので、睦月は軽く深呼吸しながら、下着を穿いて強引に納めた。昨日と同じ服を着直していると、姫香もまた浴室から出てきて、同様に服を着始めている。
 長袖のインナーに、普段着にしているVネックワンピース、そしてコートを纏った姫香を連れて、睦月はラブホテルの部屋を後にする。
 ……昨夜は備え付けの避妊具コンドームが期限切れだったので、自前の物を用いるしかなかった。だから朝食は期待できないと考え、睦月達は車内で姫香特製のチョコバー『ヒメッカーズ』を齧ることにしたのだった。



 ホテルを出た二人は、車をさらに人気のない場所へと走らせていく。
「一度適当な所で停車させて、車のプレートと色を変えるぞ」
 姫香に声を掛けてから数分後、昨日とは別の、小さな公園があったので、そこの駐車場に停車した。エンジンを止めた睦月は車から降りるとバックドアトランクを開け、荷室ラゲッジルームから予備のナンバープレートと工具、それからスプレー缶を一つ取り出した。
「さて、と……」
 スポーツカーのボディには、事前に特殊なインクを塗り込んである。だから今は赤く染まっている車も、睦月の手にあるスプレーを吹き掛けるだけで、本来の色である黒の車体ボディーが姿を見せるのだ。
 昨日も替えたが、ラブホテルの監視カメラに映っていた場合、そこから足がつく可能性もある。もう一度ナンバープレートを替え、そして車を一回りしながらスプレーを吹き付けていった。
「……こんなもんか」
 一通りインクが落ちたのを確認し、工具類等を元の場所に戻した睦月は、再び運転席に腰掛けた。
「ニュースの方はどうなってる?」
 睦月が車の塗装を替えている間、姫香には(どうせスマホに熱中するからと)ニュースサイトの閲覧を頼んでいた。
 しかし姫香は頷きながら、ただ右手の五指を揃えて、左から右の胸に移動させるだけだった。
「【大丈夫】」
「大丈夫?」
 睦月は気になり、少し身を乗り出して、姫香の持つスマホを覗き込む。
 たしかに、昨日のことはニュースになっていなかった。睦月の父秀吉が捕まったという話もなければ、指名手配がされているということもない。
 内密に処理したようにも思えるが、そうなるとおかしな部分が出てくる。
「俺達の口止めは、しなくていいのか……?」
 そう、秀吉がどのような仕事をしたのかは知らないが、ただ『縁を切る』と言っただけで、公安が納得するとは思えない。録音や文書を残すことすらしていなかったのに、だ。
 それに父親程ではないが、睦月もまた運び屋として生計を立てている。向こうにとっては、同じ関係者じゃないかと疑うには十分過ぎた。
「まあ、用心に越したことはないか。幸い、入学までまだ日数はあるし……」
 これからのことを考えつつ、睦月は『ヒメッカーズ』の残りを口に放り込むと、すぐにエンジンを掛けた。
「諸々替えたし、予定通り車を置いてから新居に向かうぞ。いいな?」
 コクン、と頷く姫香を見てから、睦月はハンドルを握り、車を発進させた。



 二人が向かうのは、地方都市に元から用意していた隠れ家セーフハウスだ。ここは駅に近くバス停もあり、交通手段に事欠かない。
 そのまま改装して住むことも考えたが、元々は運び屋の仕事に必要なものを隠しておくための場所だ。出入りが多くなると、その分問題トラブルに巻き込まれる可能性が高くなる。なので睦月達は、この隠れ家セーフハウスの近くに新居を構えることに決めたのだ。
 遠回りしつつも、睦月の運転する車はとうとう、地方都市へと入った。
 建築物や交通量も増えてくる。周囲から人が飛び出したりしないかと、より一層注意しながら車を進めていき、とうとう目的地である隠れ家セーフハウスへと到着した。
 睦月はリモコンでシャッターを上げると、一度助手席の方を向き、姫香に話しかける。
「着いたぞ、姫香」
 今回は酷く集中していなかったのか、姫香は睦月の言葉に反応し、すぐに車から降りた。
 睦月達が車ごと入ったのは、かつて車両の整備に用いられていた、小さな工場だった。建物自体も古く、交通の便からか、この辺りは地価も徐々に高騰している。しかし仕事がなくなった為に手放されたこの物件を偶々手に入れることができたので、仕事用の隠れ家セーフハウスとして活用していた。
 今回も仕事用の車を村から取ってきてから一度ここに寄り、駐車する予定だった。新居にも駐車場はあるものの、あちらにはすでに普段使い用のワゴン車を置いてあるので、使うことはできない。そもそも仕事用の車を新居に置くこと自体、『見つけて下さい』と言っているようなものだ。その手を使う方がどうかしている。
 とはいえ、整備工場ここから歩ける距離に新居を置くのもどうかと、睦月も最初は思っていたが、有事の際は行動しやすいので、一先ずはこの形になった。むしろ下手に乗り物を乗り付ける方が目立つので、かえって効果的かもしれないが……それは今後、住んでみれば分かることだ。
 何より、隠れ家セーフハウスはここ一つだけではない。いざとなれば、別の場所に逃げ込めばいいだけだった。
 睦月は整備工場内に駐車した車を一瞥してから、再びリモコンを操作してシャッターを下ろした。
「さて……少し休むか?」
「【大丈夫】」
 姫香は先程と同様に、頷きつつ指を揃えた右手を左から右に動かしてきた。そして今度は、睦月の方を指差してから首を傾げ、再び同じ動作をする。
「【大丈夫】?」
 今度は疑問形で、姫香は同じ単語を睦月に返してきた。
「俺か? そうだな……」
 ずっと運転しっぱなしの睦月だったが、特に疲れは感じていなかった。むしろ、朝食は姫香謹製の『ヒメッカーズチョコバー』しか食べていないので、空腹の方が堪えていた。
「疲れよりも……腹が減った。帰るでも寄り道でもいいけど、とにかく何か食いたい」
 そう睦月は言うと、姫香は開いた手を胸の前に掲げ、そのまま斜め下へ降ろしながら、指をすぼめていく。
「【帰る】」
「分かった」
 二人は整備工場の裏口から、外へと出た。人気のない路地で、通りには店や住居の勝手口もないので、監視カメラの心配は今のところない。自前で用意している分も、今出てきた隠れ家セーフハウスの中や周辺位だった。
「ところで……」
 表通りに出たところで、睦月は姫香に話しかけた。ながらスマホ対策でもあるが、ふと疑問に思ったことを確認したいからだった。
「食い物の買い置きなんてあったか?」
 すると姫香は右手を挙げ、人差し指の先と親指の腹でデコピンを空打ちするような仕草を、睦月に見せてくる。
「【パン】」
「作り置きの方か……」
 姫香は家事が得意で、料理も上手い。ただ本人の緘黙かんもく症と同様の理由で、下手な保存料や化学調味料の入った料理が苦手だ。というよりも、程度次第では軽く吐いてしまう。カップ麺に至っては彼女自身、食料とすら見ていない節もあった。『ヒメッカーズチョコバー』を自作したのも、下手な市販品が食べられないからだ。
 だから姫香の言うパンとは、信頼できる専門店で購入したものか、ホームベーカリーで自作したもののどちらかだろう。しかし引越しの都合上、食料の買い置きは今、あまりできない。おそらくは作り置きだろうと、睦月は考えたのだ。
「コーヒーも一緒に淹れてくれ。ちなみに何のパン?」
 種類ごとのパンを示す手話はない。少なくとも、睦月達は知らなかった。そもそも二人が使う手話自体、基本的な単語を並べ立てているだけのものなので、手話通訳士程の会話力は期待できない。最低限相手に伝わればいいと思える程度のものだった。
 だから睦月は姫香と共に道端に寄って立ち止まり、仕方なくスマホを出させた。軽く指をスライド操作スワイプし、事前に撮っていただろう画像が表示される。
「ロールパン? 具が見えるけど、中身は?」
 写真を閉じ、今度はメッセージアプリを開く。宛先こそ睦月だが、本人に送信の意思はない。ただ文章を見せる為だけに、姫香はスマホに指を這わせた。
胡桃くるみ
 睦月の口が歪む。彼の好物だったので、口角が上向きに。



 新居は築年数が嵩んでいる、元は何かのビルだったと思われるマンションだった。
 最上階の奥から二番目の一室で、荷運びも引越しの挨拶も済ませている二人は、最後の細かい荷物だけを持ってエレベーターに乗り込んだ。
 いくら隠れ家セーフハウスがあるからと言って、この地方都市に拘る必要はない。何ならそれごと、別の街に移ればいいだけの話だ。実際、睦月は別の場所に住んでみたいとも考えているし、それを実行できるだけの予算もある。
 それなのに何故、廃村となった地元に近い、この地方都市を引っ越し先に選んだのか。
 その理由は姫香にある。彼女は成人だが……同時に高校生でもあるからだ。
「しかし……」
 姫香は、睦月の進学先とはまた別の通信制高校に通っていた。服飾か調理師かは未だ決めかねているものの、彼女は専門学校への進学を望んでいた。余裕があれば、両方行きたいとも(メッセージアプリで)言っている。
 だから高卒資格が必要となり、あの整備工場の管理をしつつ、手話対応可の高校に通っているのだ。通学時は睦月が地元まで送り迎えをするか、また別の隠れ家セーフハウスで寝泊まりしている。
 睦月も姫香と同じ高校に通えれば良かったのだろうが、時期が悪く定員が埋まっている上に、その学校では健常者の入学は、あまり優先されていない。それにメリットと言えばすでに知り合いがいることだが、運び屋の仕事をしている以上、新しい環境で働くのは日常茶飯事。むしろ初対面が相手でも、人間関係コミュニティを形成する練習をするのが学校なのだ。無理して同じ高校に通う必要はまったくない。
「……どんだけ買い込んだんだ?」
 部屋はよくある1LDKで、長方形の片側がLDKで、もう一方に洋室や風呂、トイレ等が並んでいる。ベランダもあるのはいいが、問題は縦長のLDKだ。半分に割れば一部屋分位できそうなので、適当な家具を並べて壁代わりにしようとしたところ、姫香が新しい家具の購入を買って出たのだ。
 余分な私物や大事な物等は別の場所に隠してあるので、睦月もまた姫香の提案を飲んだのだが……改めて見ても、その家具の多さには辟易としてしまう。
「お前これ、全部使うんだろうな?」
 大小様々な調理器具が並ぶラックを眺めている睦月の横で、姫香は作り置きのロールパンをトースターに掛けていた。背後ではポットに水を入れて沸かしている。コーヒーもこれから準備する手筈なのだろう。
 タイマーをセットした姫香は睦月の方を向くと、右手の人差し指と親指の指先を付けて輪にし、それを左掌の上に沿うようにして前に出してくる。
「【使う】」
「……あっそ」
 もう何も言うまい、と睦月はマンションの通路側にあるキッチンと調理器具の山の間に配置されているテーブル席に腰掛けた。
 姫香が食事を用意する間、時間潰しも兼ねて、自身のスマホに連絡はないか確認する。その後は電子版の新聞やニュースサイトを読み流していき、新しい情報がないかとまた探っていった。
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