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後宮の偽女官
破戒の奸計③
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塀をひょいと飛び越し永和宮を出ると、白狼は承乾宮に向かってまっすぐ走った。
あたりはすっかり暗くなっているとはいえまだ夕餉の時間である。小路をどこぞの宮の侍女が出歩いていても見咎められることもない。なにやら急ぎの用事でもあるのだろうと、道行く女官も警備で立っている宦官も白狼を呼び止めることはなかった。
後宮を縦に貫く大通りを駆け抜け、小路をいくつか折れるとようやく懐かしい承乾宮の門構えが目に入った。白狼は門までたどり着くと、両拳で分厚い板の門扉を殴りつけた。
泥酔していた柏が今更追ってくるとも思えないし、徳妃がそれを何としてでも止めるだろうとは分かっていたが、それでも気は急く。応答を待たず何度も拳で門扉を殴りつけていると、ガタっと向こう側で音がした。
「どなたか」
低い声で訪ねたのは周だ。
「おっさん! 俺だ、白狼だ。開けてくれ!」
「姫様は誰にも……は? え? 白狼だと? 何故お前が……」
こんな時間に訪ねてくる不調法者などさっさと追い返すつもりだったのだろう。しかし相手が白狼と知ると、忠実な護衛宦官は珍しく素っ頓狂な声を出した。
「そうだよ! 永和宮から逃げてきた。早く開けてくれ」
「逃げた? 待て、静かに。すぐ開ける」
ぎいっと軋む音をさせながら扉があくと、白狼はすぐさまその隙間に体を滑り込ませた。そして後ろを見ずに背中で門扉を閉じ、ほうっと安堵の息を吐く。ここまでくれば、道端でぶすりとやられることはない。いくら柏が来ないと分かっていても、一度やりあって手も足も出なかった相手だ。どこか恐怖を感じていたのだろう。
「お前、本当に白狼か? なんだその恰好は」
「うっせえや。しょうがねえだろ、あっちじゃ女官の真似事させられてたんだから」
「いや、まあ、そうは聞いていたが。それにしてもその姿でよくここまでたどり着いたものだな」
白狼は薄青を基調とした永和宮の侍女の上着を羽織ったままだった。二階から飛び降り、塀を乗り越え走ってきたのだから、領巾はないわ、裳の裾や帯は乱れているわで、一見するとどこかで乱暴でもされたかのようだ。後宮という女の園だから、このような恰好をしながらも無傷でここまでこれたようなものである。
「んなことどうだっていいよ。やっとこ逃げ出してきたんだから。それより銀月は? 俺、あいつに話しないといけないことがあるんだよ」
「姫様は夕餉のお時間だ。今なら翠明殿たちと居間にいらっしゃる」
「分かった!」
待て待て、という周の声を背に、白狼は中門をくぐった。中庭をまっすぐ突っ切ると正房の居間まではすぐである。ばさばさと裳を翻し、白狼は正房の階段を駆け上った。
「銀月、いるか!」
うっすらと明かりが漏れる居間の扉を勢いよく開けると、給仕として食事の皿を卓に並べる小葉の背中があった。音にびっくりしたのだろう、卓に向かって少しかがんだままの姿勢で振り返った彼女の目はまん丸に見開かれている。
そしてその奥では椅子に座った銀月と、水差しを持った翠明、そして物音に対して警戒したらしく棒を持った黒花が立っていた。
いずれも不意を突いて現れた女官に、言葉もかけられないほど驚いているようだった。しかしさすがは銀月である。数拍もしないうちに、あ、と合点が行ったように声を上げた。
「お前、白狼か!」
「そうだよ! 見て分かれよ!」
「いや、まさか、どうしてここに? お前、柏ってやつに見張られて逃げられなかったんだろう? 助けるから待てと言ったはずなのにどうして!」
「柏が酔って寝た隙に逃げてきたんだよ!」
「柏が? 酔った? って、お前その恰好まさか! 何かされたんじゃ」
「何考えてんだ馬鹿野郎!」
「いや、だってお前、ひどい恰好だぞ」
「二階から飛び降りて走ってきたんだからあったりまえだろうが!」
それはそうだが、と銀月は口ごもる。主の動揺する姿に呼応するように、侍女たちもうんうんと頷いている。
こんなことならさっき周に言われたときに身なりを直しておくべきだった、と白狼は頭を掻いた。命からがら一大決心をして逃げてきたというのに、なぜこんなことで怒鳴りあわなければいけないのだろう。説明をしようと銀月を見上げた白狼は息をのんだ。
何日かぶりに見る銀月は、いつものように姫君の装束をまとってはいるが髪を頭のてっぺんで一つに結わえていた。すっきりと整えられた髪のせいで、顔の輪郭がはっきり見える。初めて見たときはまだ少し幼さを残していたその顔は少しやつれたか。吊り上がった眉の下にある目元にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。
正直、この間よりひどいクマだ。端的にいって、くたびれ果てている。華の顔が泥水に浸った落ち葉のようだった。
ああもう、と白狼は激しく首を振った。自分がいない間、主がどれほど心配をしてくれていたかと己惚れかけてしまう。そんな場合ではないのだ。
まずは現状の情報を伝えなければいけない。白狼は大きく深呼吸をする。
「とりあえず、俺は見ての通り無事。柏が皇子の誕生で浮かれて酒を飲み続けたせいで泥酔した隙をみて逃げてきた。二階の部屋から飛び降りて、塀を乗り越えて、ここまで走ってきたからこんな衣が乱れるけど、お前の心配するようなことは一切ない」
分かったか、と銀月の目を見て告げると、ようやく安心したかのように帝姫は吊り上げた眉を下したのだった。
あたりはすっかり暗くなっているとはいえまだ夕餉の時間である。小路をどこぞの宮の侍女が出歩いていても見咎められることもない。なにやら急ぎの用事でもあるのだろうと、道行く女官も警備で立っている宦官も白狼を呼び止めることはなかった。
後宮を縦に貫く大通りを駆け抜け、小路をいくつか折れるとようやく懐かしい承乾宮の門構えが目に入った。白狼は門までたどり着くと、両拳で分厚い板の門扉を殴りつけた。
泥酔していた柏が今更追ってくるとも思えないし、徳妃がそれを何としてでも止めるだろうとは分かっていたが、それでも気は急く。応答を待たず何度も拳で門扉を殴りつけていると、ガタっと向こう側で音がした。
「どなたか」
低い声で訪ねたのは周だ。
「おっさん! 俺だ、白狼だ。開けてくれ!」
「姫様は誰にも……は? え? 白狼だと? 何故お前が……」
こんな時間に訪ねてくる不調法者などさっさと追い返すつもりだったのだろう。しかし相手が白狼と知ると、忠実な護衛宦官は珍しく素っ頓狂な声を出した。
「そうだよ! 永和宮から逃げてきた。早く開けてくれ」
「逃げた? 待て、静かに。すぐ開ける」
ぎいっと軋む音をさせながら扉があくと、白狼はすぐさまその隙間に体を滑り込ませた。そして後ろを見ずに背中で門扉を閉じ、ほうっと安堵の息を吐く。ここまでくれば、道端でぶすりとやられることはない。いくら柏が来ないと分かっていても、一度やりあって手も足も出なかった相手だ。どこか恐怖を感じていたのだろう。
「お前、本当に白狼か? なんだその恰好は」
「うっせえや。しょうがねえだろ、あっちじゃ女官の真似事させられてたんだから」
「いや、まあ、そうは聞いていたが。それにしてもその姿でよくここまでたどり着いたものだな」
白狼は薄青を基調とした永和宮の侍女の上着を羽織ったままだった。二階から飛び降り、塀を乗り越え走ってきたのだから、領巾はないわ、裳の裾や帯は乱れているわで、一見するとどこかで乱暴でもされたかのようだ。後宮という女の園だから、このような恰好をしながらも無傷でここまでこれたようなものである。
「んなことどうだっていいよ。やっとこ逃げ出してきたんだから。それより銀月は? 俺、あいつに話しないといけないことがあるんだよ」
「姫様は夕餉のお時間だ。今なら翠明殿たちと居間にいらっしゃる」
「分かった!」
待て待て、という周の声を背に、白狼は中門をくぐった。中庭をまっすぐ突っ切ると正房の居間まではすぐである。ばさばさと裳を翻し、白狼は正房の階段を駆け上った。
「銀月、いるか!」
うっすらと明かりが漏れる居間の扉を勢いよく開けると、給仕として食事の皿を卓に並べる小葉の背中があった。音にびっくりしたのだろう、卓に向かって少しかがんだままの姿勢で振り返った彼女の目はまん丸に見開かれている。
そしてその奥では椅子に座った銀月と、水差しを持った翠明、そして物音に対して警戒したらしく棒を持った黒花が立っていた。
いずれも不意を突いて現れた女官に、言葉もかけられないほど驚いているようだった。しかしさすがは銀月である。数拍もしないうちに、あ、と合点が行ったように声を上げた。
「お前、白狼か!」
「そうだよ! 見て分かれよ!」
「いや、まさか、どうしてここに? お前、柏ってやつに見張られて逃げられなかったんだろう? 助けるから待てと言ったはずなのにどうして!」
「柏が酔って寝た隙に逃げてきたんだよ!」
「柏が? 酔った? って、お前その恰好まさか! 何かされたんじゃ」
「何考えてんだ馬鹿野郎!」
「いや、だってお前、ひどい恰好だぞ」
「二階から飛び降りて走ってきたんだからあったりまえだろうが!」
それはそうだが、と銀月は口ごもる。主の動揺する姿に呼応するように、侍女たちもうんうんと頷いている。
こんなことならさっき周に言われたときに身なりを直しておくべきだった、と白狼は頭を掻いた。命からがら一大決心をして逃げてきたというのに、なぜこんなことで怒鳴りあわなければいけないのだろう。説明をしようと銀月を見上げた白狼は息をのんだ。
何日かぶりに見る銀月は、いつものように姫君の装束をまとってはいるが髪を頭のてっぺんで一つに結わえていた。すっきりと整えられた髪のせいで、顔の輪郭がはっきり見える。初めて見たときはまだ少し幼さを残していたその顔は少しやつれたか。吊り上がった眉の下にある目元にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。
正直、この間よりひどいクマだ。端的にいって、くたびれ果てている。華の顔が泥水に浸った落ち葉のようだった。
ああもう、と白狼は激しく首を振った。自分がいない間、主がどれほど心配をしてくれていたかと己惚れかけてしまう。そんな場合ではないのだ。
まずは現状の情報を伝えなければいけない。白狼は大きく深呼吸をする。
「とりあえず、俺は見ての通り無事。柏が皇子の誕生で浮かれて酒を飲み続けたせいで泥酔した隙をみて逃げてきた。二階の部屋から飛び降りて、塀を乗り越えて、ここまで走ってきたからこんな衣が乱れるけど、お前の心配するようなことは一切ない」
分かったか、と銀月の目を見て告げると、ようやく安心したかのように帝姫は吊り上げた眉を下したのだった。
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