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妃嬪の徴証

手蹟の悪戯③

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 翌朝を待たず、貴妃は後宮詰めの衛兵に取り押さえられた。調べに入った尚宮付の宦官が、貴妃の宮の床下に皇后への呪詛にかかわるものを見つけたのだという。貴妃による皇后の暗殺計画があったとして、宮の者はその場で全て捕縛されたらしい。
啓礼の宴から数えてたった一日。あっという間の「解決」だった。
青い顔をして一報を持ってきた周に、銀月はそうかと頷いただけだったがその表情には戸惑いが浮かんでいた。

「ご実家にもこの後調べが入るそうですが、呪詛に暗殺計画となれば謀反……九族全てに何らかの処罰が下るものと」
「まだ姫も幼いというのに」
「帝姫様の処遇についてはまだ分かりません。ただ、この先は後ろ盾になるご実家もなくなりますので……」

 沈痛な面持ちで翠明も頷いた。

「しかしあまりにも話が早く進み過ぎております。発覚からまだ一日……」
「やはり皇后側の企みに貴妃が嵌められたという可能性があるか。むしろその可能性の方が高いと私は思っている」
「御意。姫とはいえ皇帝の御子もろともとは、なんともやるせない気持ちになります……」
「分かっている」

 銀月の声が暗く沈む。母親である瑛賢妃も皇后にやられたらしく、それを思い出しているのだろう。側近たちは互いに顔を見合わせあい、この後の貴妃たちの処遇に話が進む。白狼はぎゅっと拳を握った。
 

 その日の深夜の事。承乾宮をぐるりと囲んだ塀の上に、小さな黒い影が貼りついていた。

 小柄なその影は、暗い色の胡服を着こんだ白狼だ。宮の者が寝静まった頃合いで部屋を抜け出した白狼は、塀の上から辺りを見渡した。
 宮の裏手は無人の宮。誰もいないことを確認し、静かに塀から飛び降りる。以前、銀月とともに抜け出した経路だ。見張りや警備の衛兵は時間にならないと見回りに来ないはず、ということはこの数か月で把握している。白狼はそのまま塀沿いの暗がりに身を隠した。
 足音を忍ばせ小路を走る白狼の向かう先は、徳妃の住まう永和宮である。今の情勢下で見つかればどんな疑いがかけられるか分からない。しかしなんとしても今夜中に確かめたいことがあった。
 今夜はきっと人の目も長春宮に集まっているのだろう。警備の兵もかなりの数がそちらに向かっているらしく、十字路ごとに焚かれたかがり火の灯りさえ避ければ小路を渡ることもそれほど難しくないようだ。
 特に兵と出くわすこともなく、いくつか小路を抜けると永和宮が近づいてきた。すっかり静まり返った永和宮にたどり着くと、白狼は懐にしまい込んだ一枚の紙に手を伸ばした。かさかさとした手触りのそれは、部屋の籠の中に突っ込んでおいた燕からの置き土産である。
 慌てて部屋で広げたそれを見て、白狼は愕然とした。

 そこには、まだ手習いを始めて慣れていないたどたどしい筆致で「燕」「白狼」「小月」「菓子」と書かれていたのだ。まるで蚯蚓が這いずったような、一本としてまっすぐな線のない字だった。
 これがつい最近の燕の筆跡だとすれば、彼女が意味の通る文章をしたためることはほぼ不可能である。

 白狼は塀を背にしたまま永和宮の側面に回り込んだ。後宮の宮など大体どこも造りは同じはずで、正房の裏手かあるいは中庭の両側に並ぶ建物に使用人の部屋があることが多い。裏手にあたる後罩房こうとうぼうは女官たちの私室が並んでいることが多く、下女の部屋は門に近い側座房か西廂房だろう。しかし慈悲深い徳妃であれば、下女も内門の中に住まわすはずだ。
 であれば、と白狼は西廂房にあたりを付けた。用があるのは妃ではなく手習いが行われていた部屋である。本来の仕事ではないため、使用人の部屋かその近辺で行われていたのではないかと踏んだのだ。
 音を立てないように塀の上へよじ登った白狼は、身を伏せながら宮の中を伺った。
 四夫人の一人というのに、しかも下女が皇后暗殺未遂にかかわっているというのに、宮の中は恐ろしいほどに静かであった。承乾宮では護衛宦官である周が時折見回りをしているが、永和宮ではどうだろう。息を潜めて気配を探るが、だれも出てくる様子もない。
 白狼はそうっと宮の中へ降り立った。
 深夜で人の気配がなく、そして下女を集めて手習いをさせられるほどの大きさの部屋など多くない。きっと墨のにおいもするだろう。西廂房に並んだいくつかの窓のうち、目星をつけた一つをそうっと開けて中を伺うとどうやら「あたり」である。
 小さな体を活かして部屋の中へ滑り込み、差し込む微かな月灯りだけで手当たり次第にそこらに重なった紙をかき集める。どれが燕のもので、どれがほかの下女のものか、あるいは手本かも見分けがつかない。しかしそんなものは戻って明るいところで確認すればいい。
 出来るだけ静かに、素早く、と焦りながら白狼は辺りの紙を懐に突っ込んだ。

 ところで白狼の生業はスリ稼業である。本来、このような空き巣まがいの盗みは専門外だ。今より幼いころは商家に忍び込んで金品を盗むこともなかったではないが、見つかる危険と逃げる労力が割に合わないといってしばらくやっていなかった。だから勘が鈍ったというより、もともと得意ではなかったので仕方なかったのかもしれない。

 一心不乱に紙を集める白狼の背後に近づく人の気配を察したときには、もはや逃げるには何もかも遅かったのだ。
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