69 / 97
妃嬪の徴証
欺瞞の招宴②
しおりを挟む
宴が行われるのは後宮の庭園だった。四方を幕で覆った内側に、凹の字のように席が設けられ中心には舞踏や楽団の演奏の場である舞台が置かれている。
徳妃は冷えてはいけないからと言って下座に設えた天幕の中、賢妃は不在、というほかは中位、下位の妃嬪が勢ぞろいだ。下座まで様々な色の衣を着た女で席が埋まっている。曹家の姫はどいつだ、と目を凝らすが下座の方にいるのだろうなということしか白狼には分からなかった。
そして一の帝姫が皇帝の席である一番の上座から一段下がった席に着くと、あくまで皇后が主催する非公式なものではあるがついに笄礼の宴が始まった。主席宦官の昌健が開宴を宣言すると、幕の外に控えていた後宮の女官たちが一斉に空の皿と杯が乗った膳を運んでくる。酒や食事はこれから配るのだろう。
仕掛けてくるだろうか。白狼は皇帝を挟んで向かい側に座る皇后の顔を伺った。
皇后は今日も豪奢な金と銀の糸をふんだんに使った衣装をまとい、頭には大きな冠をつけてゆったりと座っていた。相変わらず扇で顔の半分を隠し、傍らに立つ女官長らしき年増の女官や宦官たちになにやら言いつけている。言いつけられた彼らが退出すると舞台上には芸妓や楽団が並び、上座に一礼をした。舞踏の始まりのようだ。
生憎白狼には踊りの演目も楽曲の意味も分からない。ただ目の前で繰り広げられるきらびやかな舞踏は確かに綺麗で、芸妓や楽師たちの質が高いことだけは分かった。皇后の隣、一段低い席では真っ赤な衣を羽織った貴妃がつまらなそうに舞台の上を眺めている。
「……妓楼や街にいる流しの芸人とは全然違うな」
扇の影でつぶやくと、側に立つ翠明に背中を突かれた。
「宮廷に所属する楽師と踊り子たちですからね。芸歴も長い者が多く、稽古も厳しいと聞きますよ」
そっか、と頷くが、皇帝や皇后に聞こえぬようほぼ口を開かずに説明する翠明の技量も大したものである。
一演目終わるころ、また皇后が側近に何か伝えているのが見える。拱手して側近が下がるとしばらくして背後の幕の外に人の気配が行き来するのが分かった。食事が運ばれる時間らしい。それをみて、皇帝が主席宦官に目配せする。は、と小さく応じた昌健は音もなく幕の外へ下がっていった。
――そろそろかな。
白狼は胸元を軽く押さえた。そこには銀月から万が一といって持たされた嘔吐剤の薬包が入っている。
どの妃嬪の背後にも宮で雇われた毒見がいるが、白狼の後ろには尚食局から派遣された下女が毒見として座っていた。彼女が皇后や貴妃に何か言い含められていれば、毒見としては役に立つまい。むしろ下女に危険を冒させることなく自分が食って吐く、と言ったら銀月が渋い顔をして薬をくれたのだ。
まあ、おそらくではあるが皇后は自分が主催した宴で仕掛けてくることはないだろうと白狼は踏んでいた。前の茶会もそうであったが、自分に責を負わされる可能性のある手を使ってくるとは考えにくい。やってくるとしたら、貴妃の方が濃厚だろう。
しかし昌健が下がったという事はあれである。
紅花の入宮の発表だ。発表すると同時に曹家と朱家の屋敷に知らせが届く手筈である、と聞いている。
昌健はすぐに幕内に戻り、皇帝に小さく頷いた。いよいよである。
「さあて……。どんな面するか、拝ませてもらうぜ……?」
白狼が扇の影で口角を上げると、翠明にすかさず背中を小突かれた。どうせ楽団の音がにぎやかで、皇帝にも皇后にも背後の下女にも聞こえない程度の声なのに、翠明ときたらとんだ地獄耳だ。
しかし昌健が手を挙げると、それを合図に楽団の音がぴたりと止まった。芸妓たちは踊りをやめその場に座りこむ。末席にいる妃嬪も動きを止め、上座に注目が集まった。
「ご静粛に。これより陛下よりお言葉を賜ります」
主席宦官が良く通る声で宣言した。その言葉に皇帝の顔が固まったのが見えたが、ここまで来たらもう覚悟してもらうしかない。予定にない主席宦官の動きに、皇后の眉が不快そうに吊り上がった。
宦官に促されてゆっくり立ち上がった皇帝は、えへんとかうほんとか数回咳ばらいをした。ちらちらとこちらに視線を寄こされているような気もするが、ここに座っているのは銀月ではなく白狼である。助け船など出してやれるわけもなく素知らぬふりをしているとあからさまに皇帝の肩が落ちた。
しかしそれ以上黙っているわけにもいかないと思ったのだろう。
皇帝は並みいる妃嬪を見渡して厳かに銀月の成人に関する祝いの言葉を述べると、誰にも口を挟ませないような早口で朱 紅花の懐妊と正二品、充媛への昇格を告げたのだった。
――言った。
白狼は膳の下で拳を作った。
その宣言に宴は湧いた。羨望と嫉妬の入り混じった悲鳴のような妃嬪達の歓声に、楽師たちが奏でる祝いの音曲。幕の後ろでは本来静かにしていなければいけない下女たちの騒ぐ声も聞こえた。
扇の縁から対面を伺うと、皇后が目を丸くしているのが見えた。今にも手に持った扇を落としそうなほど驚いているようだったが、さすがにそこは後宮一の権力者である。すぐさま姿勢を整え、燃えるような瞳で皇帝を睨みつけた。
一方貴妃はといえばこれは目に見えて狼狽えていた。椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、側に立つ侍女に何事か怒鳴りつけている。
「朱充媛は只今懐妊中に付き、落ち着き次第宣旨を行うものとする」
皇帝はそこまでいうと、額から噴き出る汗を袖で拭ったのだった。
徳妃は冷えてはいけないからと言って下座に設えた天幕の中、賢妃は不在、というほかは中位、下位の妃嬪が勢ぞろいだ。下座まで様々な色の衣を着た女で席が埋まっている。曹家の姫はどいつだ、と目を凝らすが下座の方にいるのだろうなということしか白狼には分からなかった。
そして一の帝姫が皇帝の席である一番の上座から一段下がった席に着くと、あくまで皇后が主催する非公式なものではあるがついに笄礼の宴が始まった。主席宦官の昌健が開宴を宣言すると、幕の外に控えていた後宮の女官たちが一斉に空の皿と杯が乗った膳を運んでくる。酒や食事はこれから配るのだろう。
仕掛けてくるだろうか。白狼は皇帝を挟んで向かい側に座る皇后の顔を伺った。
皇后は今日も豪奢な金と銀の糸をふんだんに使った衣装をまとい、頭には大きな冠をつけてゆったりと座っていた。相変わらず扇で顔の半分を隠し、傍らに立つ女官長らしき年増の女官や宦官たちになにやら言いつけている。言いつけられた彼らが退出すると舞台上には芸妓や楽団が並び、上座に一礼をした。舞踏の始まりのようだ。
生憎白狼には踊りの演目も楽曲の意味も分からない。ただ目の前で繰り広げられるきらびやかな舞踏は確かに綺麗で、芸妓や楽師たちの質が高いことだけは分かった。皇后の隣、一段低い席では真っ赤な衣を羽織った貴妃がつまらなそうに舞台の上を眺めている。
「……妓楼や街にいる流しの芸人とは全然違うな」
扇の影でつぶやくと、側に立つ翠明に背中を突かれた。
「宮廷に所属する楽師と踊り子たちですからね。芸歴も長い者が多く、稽古も厳しいと聞きますよ」
そっか、と頷くが、皇帝や皇后に聞こえぬようほぼ口を開かずに説明する翠明の技量も大したものである。
一演目終わるころ、また皇后が側近に何か伝えているのが見える。拱手して側近が下がるとしばらくして背後の幕の外に人の気配が行き来するのが分かった。食事が運ばれる時間らしい。それをみて、皇帝が主席宦官に目配せする。は、と小さく応じた昌健は音もなく幕の外へ下がっていった。
――そろそろかな。
白狼は胸元を軽く押さえた。そこには銀月から万が一といって持たされた嘔吐剤の薬包が入っている。
どの妃嬪の背後にも宮で雇われた毒見がいるが、白狼の後ろには尚食局から派遣された下女が毒見として座っていた。彼女が皇后や貴妃に何か言い含められていれば、毒見としては役に立つまい。むしろ下女に危険を冒させることなく自分が食って吐く、と言ったら銀月が渋い顔をして薬をくれたのだ。
まあ、おそらくではあるが皇后は自分が主催した宴で仕掛けてくることはないだろうと白狼は踏んでいた。前の茶会もそうであったが、自分に責を負わされる可能性のある手を使ってくるとは考えにくい。やってくるとしたら、貴妃の方が濃厚だろう。
しかし昌健が下がったという事はあれである。
紅花の入宮の発表だ。発表すると同時に曹家と朱家の屋敷に知らせが届く手筈である、と聞いている。
昌健はすぐに幕内に戻り、皇帝に小さく頷いた。いよいよである。
「さあて……。どんな面するか、拝ませてもらうぜ……?」
白狼が扇の影で口角を上げると、翠明にすかさず背中を小突かれた。どうせ楽団の音がにぎやかで、皇帝にも皇后にも背後の下女にも聞こえない程度の声なのに、翠明ときたらとんだ地獄耳だ。
しかし昌健が手を挙げると、それを合図に楽団の音がぴたりと止まった。芸妓たちは踊りをやめその場に座りこむ。末席にいる妃嬪も動きを止め、上座に注目が集まった。
「ご静粛に。これより陛下よりお言葉を賜ります」
主席宦官が良く通る声で宣言した。その言葉に皇帝の顔が固まったのが見えたが、ここまで来たらもう覚悟してもらうしかない。予定にない主席宦官の動きに、皇后の眉が不快そうに吊り上がった。
宦官に促されてゆっくり立ち上がった皇帝は、えへんとかうほんとか数回咳ばらいをした。ちらちらとこちらに視線を寄こされているような気もするが、ここに座っているのは銀月ではなく白狼である。助け船など出してやれるわけもなく素知らぬふりをしているとあからさまに皇帝の肩が落ちた。
しかしそれ以上黙っているわけにもいかないと思ったのだろう。
皇帝は並みいる妃嬪を見渡して厳かに銀月の成人に関する祝いの言葉を述べると、誰にも口を挟ませないような早口で朱 紅花の懐妊と正二品、充媛への昇格を告げたのだった。
――言った。
白狼は膳の下で拳を作った。
その宣言に宴は湧いた。羨望と嫉妬の入り混じった悲鳴のような妃嬪達の歓声に、楽師たちが奏でる祝いの音曲。幕の後ろでは本来静かにしていなければいけない下女たちの騒ぐ声も聞こえた。
扇の縁から対面を伺うと、皇后が目を丸くしているのが見えた。今にも手に持った扇を落としそうなほど驚いているようだったが、さすがにそこは後宮一の権力者である。すぐさま姿勢を整え、燃えるような瞳で皇帝を睨みつけた。
一方貴妃はといえばこれは目に見えて狼狽えていた。椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、側に立つ侍女に何事か怒鳴りつけている。
「朱充媛は只今懐妊中に付き、落ち着き次第宣旨を行うものとする」
皇帝はそこまでいうと、額から噴き出る汗を袖で拭ったのだった。
0
お気に入りに追加
108
あなたにおすすめの小説
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
若奥様は緑の手 ~ お世話した花壇が聖域化してました。嫁入り先でめいっぱい役立てます!
古森真朝
恋愛
意地悪な遠縁のおばの邸で暮らすユーフェミアは、ある日いきなり『明後日に輿入れが決まったから荷物をまとめろ』と言い渡される。いろいろ思うところはありつつ、これは邸から出て自立するチャンス!と大急ぎで支度して出立することに。嫁入り道具兼手土産として、唯一の財産でもある裏庭の花壇(四畳サイズ)を『持参』したのだが――実はこのプチ庭園、長年手塩にかけた彼女の魔力によって、神域霊域レベルのレア植物生息地となっていた。
そうとは知らないまま、輿入れ初日にボロボロになって帰ってきた結婚相手・クライヴを救ったのを皮切りに、彼の実家エヴァンス邸、勤め先である王城、さらにお世話になっている賢者様が司る大神殿と、次々に起こる事件を『あ、それならありますよ!』とプチ庭園でしれっと解決していくユーフェミア。果たして嫁ぎ先で平穏を手に入れられるのか。そして根っから世話好きで、何くれとなく構ってくれるクライヴVS自立したい甘えベタの若奥様の勝負の行方は?
*カクヨム様で先行掲載しております
廃妃の再婚
束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの
父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。
君は妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー

【完結】元妃は多くを望まない
つくも茄子
恋愛
シャーロット・カールストン侯爵令嬢は、元上級妃。
このたび、めでたく(?)国王陛下の信頼厚い側近に下賜された。
花嫁は下賜された翌日に一人の侍女を伴って郵便局に赴いたのだ。理由はお世話になった人達にある書類を郵送するために。
その足で実家に出戻ったシャーロット。
実はこの下賜、王命でのものだった。
それもシャーロットを公の場で断罪したうえでの下賜。
断罪理由は「寵妃の悪質な嫌がらせ」だった。
シャーロットには全く覚えのないモノ。当然、これは冤罪。
私は、あなたたちに「誠意」を求めます。
誠意ある対応。
彼女が求めるのは微々たるもの。
果たしてその結果は如何に!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる