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妃嬪の徴証

雌豹の巣窟①

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 皇后の宮――慈寧宮じねいきゅうは承乾宮より広くて豪勢だなあ、などと白狼は扇の後ろ側できょろきょろと視線だけを動かしていた。
 建物そのものも大きいが、中庭の設えも宮の中の調度品も見るものすべてが豪奢ごうしゃで皇后の財力、権力の大きさを伺うことができる。目の前に出された茶器もまるで裏側が透けて見えるほどに薄い焼き物だ。これ一つでいくらになるかと想像するがおそらく白狼が思い浮かべるよりはるかに高価なものなのだろう。
 割ったらどうなるのか恐ろしくて手を出せずにいると、大きな円卓の向こう側で皇后がほほほと笑った。機嫌が良いのか悪いのか、何か企んでいるのかなど、扇で半分隠れたその表情からは読めない。とにかく今は自身が替え玉であるとバレないように細心の注意を払いながら、白狼は絹でできた大きな袖と扇の影で顔を伏せた。

「ようおいで下された。お元気そうでなによりじゃ」

 皇后は膝の上に幼い帝姫を抱きながら茶器に手を伸ばした。姫はいくつだったか、まだまだ体を動かして遊びたい盛りであろう。暴れて茶器が落ちたらどうしよう、と白狼の方がヒヤヒヤしてしまう。
 しかし皇后は姫の動きにも慣れているのか、安定した様子で手に持った茶器に口を付けている。そして中に注がれている液体を、これ見よがしに喉に流し込んだ。
 これは「飲め」という無言の圧力だろうか。白狼は視線だけですぐ隣に立つ翠明に助けを求めた。古参の女官は無表情を装いながら、こちらも目線だけで頷いて見せる。

 ――つまり、飲まなきゃいけないってこったな。

 主人である銀月の一番の敵である皇后が催した茶会の席に着いた以上、もう避けては通れないだろう。そもそもそのために自分が身代わりとしてここに来たのだ。後宮としてではなく皇后個人が銀月の成人の祝いをしたいということで、ここにいるのは皇后子飼いの女官や妃ばかりである。提供されたものに口を付けずに帰ることは皇后に対する無礼であり、逃げようにも逃げられない。
 仕方ねえ、と白狼は覚悟を決めた。
 個人的な茶会といえども何人か妃嬪が同席し、女官たちの目も多い。逃げられないが逆に言えばこんなに多くの目の前で公然と毒殺はされないだろう。中秋節の宴の際がそうだ。情けないだけだった皇帝とは違い風格を見せつけたこの皇后なら、もっとぐうの音も出ないようなやり方で殺しに来るはずという根拠のない信頼があった。
 が、さすがにそんな博打のようなことを銀月にさせるわけにはいかない。そういってほとんど翠明の泣き落としのような形で主人を納得させ、やってきたのが半刻前ほどだ。いよいよ勝負の時がきたというわけだ。
 白狼は顔を伏せながら扇を閉じ、おずおずと茶器へと手を伸ばした。化粧でかなり誤魔化しているのでぱっと見ただけでは替え玉とは気づかれまい。が、長く顔を晒していては危険である。そうっと茶器へと口を付け、息を止めて僅かに茶をすすった。
 口の中に広がった風味だけでは、わずかに甘い花の茶であることしか分からない。こっそり舌で転がしたが、皇后の視線を向けられいつまでもそのままというわけにもいかず、ひそかに吐き出すこともできない。
勝つか、負けるか――。意を決した白狼はごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。

「清々しい風味であろう? あたたかくして飲むと血の巡りがよくなるというので、先日取り寄せたのじゃ。あとで宮にお届けしよう。成人されてなお一層大切なお身体じゃ。冷やさぬようにすると良い」
「皇后様、どちらからお取り寄せに?」
東湾州とうわんしゅうの商人が取り扱っていると聞いておる。やはり北側の国では寒さが厳しいようで、この茶も広く重用されているそうじゃ」

 取り巻きに応じながらにっこりと笑う皇后に拍子抜けをした白狼は、翠明とともに拱手こうしゅして頭を下げた。お互いに言葉には出さなかったが、示し合わせたように袖の影で目が合う。どうやら翠明も戸惑っているらしい。
 しかし飲み込んだ茶は本当にただの茶だったようで、気分が悪くなることもなければ腹が痛くなることもなかった。それどころか本当に血の巡りが良くなる代物だったのか、冷えた手足の先がじわじわとあたたかくなってくるではないか。
 ほうっため息を吐くと、やはり緊張からか肩に力が入っていたらしく自身の身体から強張りが抜けていくのが分かる。茶器を戻した白狼は、また顔の前で扇を広げた。
 一応これで礼はとった。あとは皇后の御前から辞去するまで、迂闊なことをしなければよい。
 わずかに気が緩んだところで、皇后がおもむろに口を開いた。

「さて、一の帝姫よ。侍医よりの報告、わらわはもとより皇帝陛下もいたくお喜びじゃ。大切な姫君の輿入れ先はゆっくり吟味しなければなりませんが、きっと良いご縁がございましょうぞ」

 輿入れ、と聞いた白狼は自身の胸がずきりと痛むのを感じた。
 銀月は男である。それが輿入れ、となるとその先にいる姫君の姿を想像したのだ。しかしすぐさまそれが見当違いのことだったと気が付く。そうだ、銀月は公式には「姫君」の身分なのだから、輿入れ先はどこかの王か貴族の子息ということになる。それはそれで非常にマズイ。つうっと背筋に冷たいものが走った。
 性別を偽って後宮に潜んでいるうちならまだしも、輿入れとなって後宮の外にでたら一体どうなるのか。婿になる奴に性別を隠し通せるわけがない。国全体をだましていたと明るみになり、死罪は免れないだろう。
 しかしここで反論するわけにはいかなかった。口を開きかけた白狼の背を翠明が小突いたせいもあるが、白狼自身もどう反論していいか分からない。嫌だ、違うなど、言い訳にもならない。
 なぜこんなことになったのかと言えばそもそも自分に月事がやってきて、それが姫君の身に起こったとして公のこととなってしまったからだ。
 あの時、自分が厨房でぶっ倒れなければ。
 あの時、侍医に診察されなければ。
 月事が始まったのが銀月のこととして皇后に伝わってしまったのは自分自身のせいだと気づき、白狼の鼓動が急激に激しくなる。
 聡い銀月はこうなることが分かっていたのか。主を窮地に陥れたとして白狼を疎んじたのか。だから最近銀月の様子がおかしかったのかと思い至る。
 白狼は自分の耳の奥で血の気が引いていく音を聞いた。

「早速陛下と妾で名のある貴族諸氏や諸国の王に打診をしておるところ。先の賢妃の御美しさは広く知れ渡っておる故、美貌の姫君をぜひ妻にという申し出も多い。婚礼の儀も盛大に行われよう。楽しみに待たれると良い」
「まあ、それはようございましたね帝姫様」
「おめでとうございます、姫様。さみしくなりますがお輿入れは楽しみですわ」
「それまで、御身を大切になされませ」

 無責任な妃嬪が口々に囃し立てるなか、青くなる銀月――いや白狼を見ながら皇后は扇の隅でにやりと笑っていたのだった。

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