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偽宦官の立ち位置

誘惑の蝶々③

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 さて、と碁盤を直した白狼は改めて銀月と向かい合った。雇い主は左頬に濡れた手ぬぐいを当て、頬杖をつきながら肩を落としている。碁笥ごけに戻した碁石を弄び、時折華のようなに美しい顔をしかめているところを見ると相当痛かったらしい。

「普通、殴るか……?」
「うるせえ、そのくらいで済ませてやったんだから逆にありがたいと思ってほしいもんだぜ」
「逆に……お前、私が皇太子の身分とかじゃなくて良かったな……さすがにこれは首が飛びかねんぞ」
「そうなったらそうなったときだっつってんだろ」

 チャラにされた方があまりぐちぐち言うものではないのではないか。白狼は銀月の言葉を遮るように、碁盤に黒石を打った。

「ま、乾清宮の仕事も面白かったと言えば面白かったわ。もうやらねえけどな」

 にんまり笑って見せると、銀月はため息を吐きながら白石を置いた。

「結局、中秋節の準備に追われていただけだったのだな」
「おうよ。当日以外も朝から晩まであっちこっちお遣いに走らされて、無駄に皇宮内の建物と部署に詳しくなったぜ」
「それだけでもある意味収穫だったということか。よかったな」

 確かに地方にいた生粋の平民である白狼が、皇宮の構造に詳しくなったのは偶然とはいえ収穫である。ここの建物にいる貴族は金を持っている、ここにいる貴族は中位で意外と経済的には裕福ではないというような懐具合も、趣味の一環で把握できたのも今後の生活には有意義かもしれない。
 それと同時に、本来は向こうで生活をしているはずの銀月がこちらに閉じ込められていることに胸が痛む。よかったな、という言葉にほんの少し羨望せんぼうの色が混じっていたと思うのは、白狼の気のせいか否か。
 ふふっと肩を揺らし、ようやく銀月の口もとが緩んだ。
 碁盤に差し向いになり互いに石を打ちながら、話題は自然に中秋節の事件の事になっていった。聞けば、銀月たち一行はあの時間帯には既に宮に下がっていたため事件そのものの騒ぎは見ていないのだという。

「なんだよ、俺の大活躍見てなかったのか」
「そんな大騒ぎ、見ていたら気が気じゃなくて文字通り翠明の血管が切れていただろうな」
「……あー、否定できねえかも」
「その翠明の情報によればだが、潤円は盗みそのものは認めたそうだ。動機はな……聞かぬほうがよいかもしれんが」

 口ごもった帝姫が、僅かに白狼から視線をらした。白く細長い人差し指で頬をひと掻きし機嫌を伺うような上目遣いを寄こす銀月に、焦れた白狼はまた拳を握って見せる。どうせ一回やっているのだ、二回も三回ももう大差あるまい。
 黙るなよ、凄んで見せれば銀月は自分の細長い人差し指を薄い唇に当てる。考え込むように、そして言葉を選ぶように視線をぐるりと回した。

「いやなぁ、あの潤円、どうやらお前に妙な思い入れがあったらしくてな」
「なんだ? 妙な思い入れ?」
「ん-。つまり、なんだ、その」
「いいから。言えよめんどくせえな」

 ぱちっと白狼が黒石を打ち付けると、銀月はとうとう観念したのか驚くなよと念を押しながら口を開いた。

「お前にな、惚れていたらしい」

 は、と白狼の口が開いて息が漏れた。眉間にしわをよせたままつぶれたかえるを見てしまったような表情を浮かべた白狼に、銀月は更に言い訳じみた言葉を重ねる。

「もちろんお前を男と認識してのことだ。宦官の中にはほら、男色に走るものも少なくない。どうやら小柄なお前をどこかで見かけて思いを募らせた挙句手籠てごめにしたいと、そう思ったらしい」

 だめ押しともいえるそれらに、白狼は騒ぎの最中に見た潤円の顔を思い出した。やけに真面目腐った顔をしていたが、不自然に口元に力が入っていなかったか。まさかあれはにやけるのを必死に抑えていた顔だったのではというところまで想像すると、細い手足にぞわっと鳥肌が立つ。

「あのおっさんの狙いは俺だったのかよ!」
「そこで盗みの濡れ衣を着せて貴妃の、つまり自分の監督下に置き、ことに及ぼうと、まあそういう計画だったそうだ」
「なんっつぅ、雑な計画……」
「碧玉の飾りを外したのもお前に擦り付け、街でこっそり金に換えてお前を囲う資金にしたかったのなんだのと。傷ついた玉の価値を伝えると目に見えて狼狽うろたえたそうだ……。取り調べた役人もそれを聞いた翠明もなんとも言えない渋い顔になっていたのではないかな」
「だろうな……」

 潤円の雑な計画を語られるほどに、白狼の肩はどんどん下がっていく。勝算がなかったわけではないが決死の覚悟であの場を切り抜けて良かった。本当に良かった。そのままであればあのおっさんに、と想像しかけてまた身震いをする。
 また、あの場で下手に服を剥かれていたなら、中衣の下に麻のさらしを厚く巻いていたこともばれてしまっていただろう。それを考えれば固くつぶした胸や腹くらいまさぐられたところでどうということも――やはり気色悪いことには変わりはないが。

「この潤円の計画……というか妄想を、貴妃がそれを知っていたのかどうかは分からんがな」

 すっかりしょげてしまった白狼を慰めるように、銀月は卓の上にある杯に酒を注いだ。厚意は有難く受ける主義の白狼は、こみ上げる吐き気を酒と一緒に飲み下す。かあっと腹の底が熱くなり気持ちが少し落ち着くと、揺れる燭台しょくだいの灯りに上座にいた赤い衣の美女の姿が重なった。
 あの簪に彫られた大振りの蝶がよく似合いそうな、自らの美しさをよく知っていてそれを微塵みじんも隠さない女だった。しかし蝶のような無害な生き物ではない。体色は美しく鮮やかながら、それを餌に罠を張り巡らす毒蜘蛛と言われたほうが納得できた。
 その貴妃が、銀月の失脚を狙っている。あれは皇帝の杞憂きゆうではなかったのだ。
 うん、と白狼は深く頷いた。
 
「潤円っておっさんの魂胆こんたんは知らねえだろうけど、俺に濡れ衣を着せるとこまでは貴妃って女の差し金だ。あそこの実家連中がきな臭い動きをしてるらしいし」
「どういうことだ」
「女の皇位継承権を認めろとか言いだしてるっぽい」

 銀月の眉が、ぴくりと動いた。

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