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後宮の失踪者
夜、宦官は帝姫に伴われる④
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「ほら、手かせ。っと、お前軽いなぁ」
「うるさい。背は大して変わらんのだからお前が重いのだ」
承乾宮の裏手にある宮の門扉は案の定内側から鍵がかかっていた。まあそんなところだろう、と白狼はひょいと塀の上に登り、あとから銀月が伸ばした手を引っ張り上げた。
「筋肉の差だよ。お前、もうちょっと運動増やせば?」
「毎晩鍛錬に付き合わせるぞ?」
「あー……それは面倒くせえ……あ、灯りがついてる」
塀の上から屋根伝いに移動しながら白狼が指さしたのは宮の正房(母屋)にある小窓である。使われていない宮のはずなのにゆらゆらと揺らめく灯りは蝋燭一本どころではない。
「行ってみる?」
「当たり前だ」
「よっしゃ」
二人は屋根からそっと中庭に降り立ち、灯りが揺れる窓へと近づいた。さすがに誰も使っていない宮だけあって、窓に施された彫刻はところどころ欠けており貼られた障子も穴だらけである。
白狼はその穴の一つに顔を寄せた。銀月も白狼とは別の、ちょっと上に空いている穴からそうっと中をのぞく。
「あれは……逢引き……?」
のぞいた穴からはちょうど寝台とその近くに置かれた卓や椅子が見えた。寝台には二つの人影があり、黒い服を着た方が今まさにもう片方の衣服を剝がそうとしている最中である。背格好からして脱がされているのは宮女だろう。黒い側の衣類は既にはだけ、そこからは厚い胸板が垣間見えた。
「男……? 宦官……?」
これは宦官と宮女の密会なのだろうか。隠れてやる必要性は、と考えるがそれはそれでバレたら何かお咎めでもあるのかもしれない。のぞきをやめてさっさと立ち去るべきではと白狼は銀月を見上げた。
しかし、それとほぼ同時に銀月は囁き声ではあるが聞いたことがない程嫌そうな声を漏らした。
「男だ」
「え、じゃあまずくねえ?」
「帰るぞ、白狼」
「なんでだよ、普通は後宮に男がいたらまずいんだろ。なんでこんなところに?」
「あれはいてもいい男だ」
大袈裟に見えるほど肩を落とし首を振る銀月は、もう興味を無くしたように窓に背を向けた。
「全く情けない限りだが、あれは私の父親で、要するにこの国の皇帝陛下だ……」
「……へ? こうてい? こう、てい?」
訳が分からず白狼は首を傾げて鸚鵡のように繰り返す。
「えっと、皇帝なら堂々と女の所いけばいいんじゃねえの? だめなのか?」
後宮は皇帝のための、皇帝の子を成すための花園である。妃嬪はもちろん、女官を含め宮女はすべて皇帝のために集められ、命じられれば夜伽の席に侍るのだからわざわざこんな密会のようなことをせずとも良いはず。
しかし銀月は肩を落としたままじっとりとした目で窓を睨むではないか。はて、と銀月は更に首を傾げた。
「建前はな。建前ではそうしてしかるべきなのだが、後宮では夜伽を命ずる際に皇后の許しがいるのだ。今の皇后はとても嫉妬深くてな、婦徳に欠けると言われている」
「どういうことか分かるように頼むわ……」
「つまりな、正妻でもありこの国の国母にもなる皇后は、皇帝が子供を作るのを妨げてはいけないのだ」
「うん」
「若い妃嬪のもとに通うことを奨励しなければいけない立場なのに、それをおろそかにするばかりか妨害ばかりするのは、皇后たる資質に欠けるということでな」
「なんじゃそりゃ。旦那の女遊びを奨励するなんて、そんなの、女房側が納得するわけねえ」
「しかしそれが正しい皇帝と皇后の在り方なのだ。皇后が嫉妬深いおかげでこの後宮には皇帝の子が、私以外は未だ皇后の姫と四夫人のうち貴妃のところに姫が一人いるだけ。おおかた、皇后の目を盗んで宮女とあいびきするために、この宮を空けて利用しているんだろう……」
まったく情けない、と銀月は呟いた。
納得はできないがどうやらこの国の皇帝はヘタレらしい。白狼は腑に落ちないながらも、立ち去ろうとする銀月の後について立ち上がる。すると、背後でばたんと扉が開いた。
「誰だ!」
「しまったっ、逃げろ!」
お互いにささやきあっていたつもりが思いのほか声が大きくなっていたらしい。着物をはだけさせたまま、大柄な男が仁王立ちになっている。
白狼は背後に銀月を隠そうと割って入った。しかし当の本人はそれほど慌てた様子もなく、白狼の肩に手を置いて窓から漏れる灯りのもとに姿を現した。「陛下」と銀月にいわれた男がぎくりと動きを止める。
「ご無礼失礼いたしました」
「お、お前、ぎ……いやいやえーっと……」
そこにいるのが銀月だということに気が付いたのだろう。皇帝はあからさまに動揺したように口ごもる。白狼は銀月に袖を引かれるままその場に膝をついた。
「お楽しみのところ誠に申し訳ございません。陛下に申し上げます。急ぎの御用をこの者がお伝えに参りました」
「お、おう、そうかそうか」
咄嗟に皇帝は銀月の嘘に乗ることにしたようだ。いかにも納得したようにうんうんと何度も頷くと、着物を直しながら寝台で怯えている女を振り返った。
「怖がらせてすまなかった。いやいや、この者たちは朕に付き従う小間使いたちだ。見張りもしてくれていたのだよ。何ぞ仕事ができたらしい」
「ま、まことでございますか?」
「まことじゃ。朕は仕事に戻らねばならぬ。今宵はお前も気を付けておかえり」
「情けをかけていただけると、今宵楽しみにして参りましたのに…」
「すまぬ、またすぐに連絡をいれるから」
ほら行くぞ、と促されて白狼と銀月は宮の門へと向かった。
入ってくるときはこっそり上った塀だが、帰路はちゃんと門扉をくぐる。門扉の内側に設置された障壁には見事な彫刻が施されていた。往時はさぞ立派な宮だったのだろうとぼんやりと思いながら外へ出ると、出たとたんに皇帝ががばっと地に伏してしまった。
「おやめください、父上。見張りが来ないとも限りません。早くご自分の宮へお帰り下さい」
「銀月……! このことは……! どうかこのことは口外しないでくれ」
「分かっております。もちろん翠明にも言いません。父上も私が今宵ここにいたことはご内密にお願いいたします」
「分かった。頼むぞ、銀月。あれに知られたらまた朝議で話題に上がってしまう……」
「心得ております。しかし父上、護衛も付けずにこのようなお戯れはもうおよしください……」
涙ながらに訴える皇帝に、銀月は今宵一番大きなため息を吐いて応じたのだった。
★ ★ ★ ★
あんなのがこの国の皇帝か、と図らずも深夜の土下座劇を鑑賞させられてがっかりした二日後の早朝。
一人の女が後宮の真ん中にある庭園の池に浮いているのが見つかった。
首を絞められてから水に落とされたらしく、女の首には紐状のものの跡と散々かきむしった爪の跡が生々しく残っていたらしい。
事故ではなく、あきらかに故意の事件である。
侍女頭の翠明に知らされた銀月は、そうかと呟いてそのまま口を閉じた。
「調べろって言わねえの?」
夜、いつもと同じように囲碁に付き合わされながら白狼は聞いた。今夜の白石は手加減など知らないように攻め入ってくる。もう白狼が投了まで数手もないだろう。
「いい。翠明が女官の名前まで調べてくれている。死んだのはこの前裏で見たあの女だ。」
ぱちり、と銀月の細い指が盤上に白石を打つ。
「誰の仕業かは知らんが手間が省けた。私の正体が漏れる可能性は潰しておきたい」
「なんだと?」
物騒な物言いに目をむいた白狼だったが、銀月はこともなさげに白石で囲んだ黒石を取り除く。
「おそらくは、皇后、あるいは貴妃あたりが手を回したのだろうがな。女官たちの失踪もひょっとしたら父上が関わっていたのかもしれん。懲りぬ方よ」
「顔色一つ変えねえのかよ。今回のはお前の父親の情婦だろ? 冷たいじゃねえか」
「関係ない」
苦し紛れに白狼が置いた石も、銀月は次の手で根こそぎ取り上げた。
「冷たいと言われようが私の秘密は守らねばならん。一歩間違えれば私も、宮の者たちも同じように池に浮く。きれいごとでは生き残れないのだ」
あくまでも冷ややかな銀月の声は感情の色がなく、そのことに白狼は背筋にうすら寒いものが走るような気がした。
「うるさい。背は大して変わらんのだからお前が重いのだ」
承乾宮の裏手にある宮の門扉は案の定内側から鍵がかかっていた。まあそんなところだろう、と白狼はひょいと塀の上に登り、あとから銀月が伸ばした手を引っ張り上げた。
「筋肉の差だよ。お前、もうちょっと運動増やせば?」
「毎晩鍛錬に付き合わせるぞ?」
「あー……それは面倒くせえ……あ、灯りがついてる」
塀の上から屋根伝いに移動しながら白狼が指さしたのは宮の正房(母屋)にある小窓である。使われていない宮のはずなのにゆらゆらと揺らめく灯りは蝋燭一本どころではない。
「行ってみる?」
「当たり前だ」
「よっしゃ」
二人は屋根からそっと中庭に降り立ち、灯りが揺れる窓へと近づいた。さすがに誰も使っていない宮だけあって、窓に施された彫刻はところどころ欠けており貼られた障子も穴だらけである。
白狼はその穴の一つに顔を寄せた。銀月も白狼とは別の、ちょっと上に空いている穴からそうっと中をのぞく。
「あれは……逢引き……?」
のぞいた穴からはちょうど寝台とその近くに置かれた卓や椅子が見えた。寝台には二つの人影があり、黒い服を着た方が今まさにもう片方の衣服を剝がそうとしている最中である。背格好からして脱がされているのは宮女だろう。黒い側の衣類は既にはだけ、そこからは厚い胸板が垣間見えた。
「男……? 宦官……?」
これは宦官と宮女の密会なのだろうか。隠れてやる必要性は、と考えるがそれはそれでバレたら何かお咎めでもあるのかもしれない。のぞきをやめてさっさと立ち去るべきではと白狼は銀月を見上げた。
しかし、それとほぼ同時に銀月は囁き声ではあるが聞いたことがない程嫌そうな声を漏らした。
「男だ」
「え、じゃあまずくねえ?」
「帰るぞ、白狼」
「なんでだよ、普通は後宮に男がいたらまずいんだろ。なんでこんなところに?」
「あれはいてもいい男だ」
大袈裟に見えるほど肩を落とし首を振る銀月は、もう興味を無くしたように窓に背を向けた。
「全く情けない限りだが、あれは私の父親で、要するにこの国の皇帝陛下だ……」
「……へ? こうてい? こう、てい?」
訳が分からず白狼は首を傾げて鸚鵡のように繰り返す。
「えっと、皇帝なら堂々と女の所いけばいいんじゃねえの? だめなのか?」
後宮は皇帝のための、皇帝の子を成すための花園である。妃嬪はもちろん、女官を含め宮女はすべて皇帝のために集められ、命じられれば夜伽の席に侍るのだからわざわざこんな密会のようなことをせずとも良いはず。
しかし銀月は肩を落としたままじっとりとした目で窓を睨むではないか。はて、と銀月は更に首を傾げた。
「建前はな。建前ではそうしてしかるべきなのだが、後宮では夜伽を命ずる際に皇后の許しがいるのだ。今の皇后はとても嫉妬深くてな、婦徳に欠けると言われている」
「どういうことか分かるように頼むわ……」
「つまりな、正妻でもありこの国の国母にもなる皇后は、皇帝が子供を作るのを妨げてはいけないのだ」
「うん」
「若い妃嬪のもとに通うことを奨励しなければいけない立場なのに、それをおろそかにするばかりか妨害ばかりするのは、皇后たる資質に欠けるということでな」
「なんじゃそりゃ。旦那の女遊びを奨励するなんて、そんなの、女房側が納得するわけねえ」
「しかしそれが正しい皇帝と皇后の在り方なのだ。皇后が嫉妬深いおかげでこの後宮には皇帝の子が、私以外は未だ皇后の姫と四夫人のうち貴妃のところに姫が一人いるだけ。おおかた、皇后の目を盗んで宮女とあいびきするために、この宮を空けて利用しているんだろう……」
まったく情けない、と銀月は呟いた。
納得はできないがどうやらこの国の皇帝はヘタレらしい。白狼は腑に落ちないながらも、立ち去ろうとする銀月の後について立ち上がる。すると、背後でばたんと扉が開いた。
「誰だ!」
「しまったっ、逃げろ!」
お互いにささやきあっていたつもりが思いのほか声が大きくなっていたらしい。着物をはだけさせたまま、大柄な男が仁王立ちになっている。
白狼は背後に銀月を隠そうと割って入った。しかし当の本人はそれほど慌てた様子もなく、白狼の肩に手を置いて窓から漏れる灯りのもとに姿を現した。「陛下」と銀月にいわれた男がぎくりと動きを止める。
「ご無礼失礼いたしました」
「お、お前、ぎ……いやいやえーっと……」
そこにいるのが銀月だということに気が付いたのだろう。皇帝はあからさまに動揺したように口ごもる。白狼は銀月に袖を引かれるままその場に膝をついた。
「お楽しみのところ誠に申し訳ございません。陛下に申し上げます。急ぎの御用をこの者がお伝えに参りました」
「お、おう、そうかそうか」
咄嗟に皇帝は銀月の嘘に乗ることにしたようだ。いかにも納得したようにうんうんと何度も頷くと、着物を直しながら寝台で怯えている女を振り返った。
「怖がらせてすまなかった。いやいや、この者たちは朕に付き従う小間使いたちだ。見張りもしてくれていたのだよ。何ぞ仕事ができたらしい」
「ま、まことでございますか?」
「まことじゃ。朕は仕事に戻らねばならぬ。今宵はお前も気を付けておかえり」
「情けをかけていただけると、今宵楽しみにして参りましたのに…」
「すまぬ、またすぐに連絡をいれるから」
ほら行くぞ、と促されて白狼と銀月は宮の門へと向かった。
入ってくるときはこっそり上った塀だが、帰路はちゃんと門扉をくぐる。門扉の内側に設置された障壁には見事な彫刻が施されていた。往時はさぞ立派な宮だったのだろうとぼんやりと思いながら外へ出ると、出たとたんに皇帝ががばっと地に伏してしまった。
「おやめください、父上。見張りが来ないとも限りません。早くご自分の宮へお帰り下さい」
「銀月……! このことは……! どうかこのことは口外しないでくれ」
「分かっております。もちろん翠明にも言いません。父上も私が今宵ここにいたことはご内密にお願いいたします」
「分かった。頼むぞ、銀月。あれに知られたらまた朝議で話題に上がってしまう……」
「心得ております。しかし父上、護衛も付けずにこのようなお戯れはもうおよしください……」
涙ながらに訴える皇帝に、銀月は今宵一番大きなため息を吐いて応じたのだった。
★ ★ ★ ★
あんなのがこの国の皇帝か、と図らずも深夜の土下座劇を鑑賞させられてがっかりした二日後の早朝。
一人の女が後宮の真ん中にある庭園の池に浮いているのが見つかった。
首を絞められてから水に落とされたらしく、女の首には紐状のものの跡と散々かきむしった爪の跡が生々しく残っていたらしい。
事故ではなく、あきらかに故意の事件である。
侍女頭の翠明に知らされた銀月は、そうかと呟いてそのまま口を閉じた。
「調べろって言わねえの?」
夜、いつもと同じように囲碁に付き合わされながら白狼は聞いた。今夜の白石は手加減など知らないように攻め入ってくる。もう白狼が投了まで数手もないだろう。
「いい。翠明が女官の名前まで調べてくれている。死んだのはこの前裏で見たあの女だ。」
ぱちり、と銀月の細い指が盤上に白石を打つ。
「誰の仕業かは知らんが手間が省けた。私の正体が漏れる可能性は潰しておきたい」
「なんだと?」
物騒な物言いに目をむいた白狼だったが、銀月はこともなさげに白石で囲んだ黒石を取り除く。
「おそらくは、皇后、あるいは貴妃あたりが手を回したのだろうがな。女官たちの失踪もひょっとしたら父上が関わっていたのかもしれん。懲りぬ方よ」
「顔色一つ変えねえのかよ。今回のはお前の父親の情婦だろ? 冷たいじゃねえか」
「関係ない」
苦し紛れに白狼が置いた石も、銀月は次の手で根こそぎ取り上げた。
「冷たいと言われようが私の秘密は守らねばならん。一歩間違えれば私も、宮の者たちも同じように池に浮く。きれいごとでは生き残れないのだ」
あくまでも冷ややかな銀月の声は感情の色がなく、そのことに白狼は背筋にうすら寒いものが走るような気がした。
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